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 『資本論』「価値の方程式」と連立方程式 (1)
 
『資本論』の翻訳問題の論点 (bs001-03)
 2016 創刊号『資本論』のヘーゲル哲学入門 再録2022.11.25


 
『資本論』のヘーゲル哲学レーニン『哲学ノート』

    
■2022.11.20編集中です◆


◆資本論ワールド編集部◆
 目次
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【1】 ヘーゲルと『資本論』の方程式・・・・・・・
『資本論』のヘーゲル哲学入門.1>>『資本論』のヘーゲル論理学入門.2>>
★価値方程式とは? “価値等式”は誤りです  ●貨幣形態発生の証明について
●コラム3 商品の価値表現と価値方程式について

  

 目次
  『資本論』のヘーゲル哲学とレーニン 『哲学ノート』 と
 第1章 レーニン 『哲学ノート』より  (初稿1914-1915年頃)
            松村一人訳 岩波書店1975年発行
 第2章 『資本論』のヘーゲル哲学



 
第1章 レーニン 『哲学ノート』より

  序
1.  『資本論』を途中であきらめずに、読み進めてゆくための見通しはないだろうか。いろいろ検討した結果、レーニンの『哲学ノート』を基にするのが読みやすいとの結論に達しました。それは、ヘーゲル哲学と『資本論』の相互関連を特に強調した人が、レーニンだったのです。最近はレーニンの評判もいまいちとなり話題にも上りませんが、ひと昔、30年ほど前までは、『帝国主義論』や『国家と革命』など『資本論』と一緒によく読まれたようでした。

2. ヘーゲルは、1770年ドイツ南西部のシュトットガルトに生まれました。(1831年他界)フランス革命からナポレオン時代に、カント、ゲーテなどドイツを代表する知識人から強い影響を受けながら自らの学識の修練を重ねた哲学者でした。

3. レーニンは、亡命地のスイスで、ヘーゲル哲学を研究して詳細なノートを残しています。今回ご紹介する『哲学ノート』松村一人訳 岩波書店1975年発行は、レーニンが『資本論』読者にヘーゲル弁証法を参照するようにノートに記しています。

4. 翻訳者の松村一人(ヘーゲル『小論理学』の翻訳者)は、「解説」のなかー8.弁証法の問題によせてーで、つぎのように簡潔に記しています。
 「 レーニンは特に『資本論』の例をあげて、弁証法一般の叙述あるいは研究の方法を指示し、弁証法がまさにマルクス主義の認識論でもあることを強調している。これらについて詳しく述べるには、少くとも一つの論文が必要であろう。
 最後にレーニンは人間の認識の進行がどんなに曲折し曲線的であるかを指摘し、その一断片が直線化される危険を指摘して、誤りや観念論をその認識論的および階級的根元にまでさかのぼって批判し克服する必要を強調している。
 要するにこの覚え書きは、『論理学』のノートに含まれている「弁証法の諸要素」および『カール・マルクス』のなかの「弁証法」、『再び労働組合について』のなかで弁証法について述べられていることなどとともに、レーニンが弁証法について書いたもののうち、もっとも重要なものの一つであり、その最大の意義は「対立物の統一と闘争」を弁証法の核心としたことにある。」


 では、 本論『哲学ノート』 に入りましょう 

1. アフォリズム〔格言風提言〕― ヘーゲルの『論理学』の全体をよく研究しなければ、マルクスの『資本論』、特にその第1章を理解することはできない。だから、マルクス主義者のうち誰も、 半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかったのだ!!  (上巻p.155)

2. マルクスは『論理学』にかんする著書をこそ書き残さなかったけれども、『資本論』という論理学を残した。 われわれはこれを与えられた問題にたいして特に利用すべきであろう。ヘーゲルのうちにあるすべての価値あるものをとり、そしてこの価値あるものをいっそう発展させた唯物論、このような唯物論の論理学、弁証法、および認識論(三つの言葉は必要でない。それらは同じものである)が、 『資本論』のうちで、一つの科学に適用されている。  (下巻P.131)

3. マルクスは『資本論』のうちでまず最初に、ブルジョア社会(商品生産社会)のもっとも単純な、もっとも一般的な、もっとも基本的な、もっとも大量的な、もっとも普通な、人々が何億回となくでくわす関係、すなわち商品交換を分析する。
 分析は、このもっとも単純な現象のうちに(ブルジョア社会 のこの「細胞」のうちに)現代の社会のすべての矛盾(あるいはすべての矛盾の「萌芽」)をあばき だす。それにつづく叙述は、これらの矛盾およびこの社会の発展を(成長をも運動をも)、その個々の部分の総和において、初めから終わりまで、われわれに示す。 (下巻p.198) 

4. このような仕方がまた弁証法一般の叙述の(あるいは研究の)方法でもなければならない。 (なぜならマルクスにおいては、ブルジョア社会の弁証法は、弁証法の特殊な場合にすぎないからである)。 もっとも単純なもの、もっとも普通なもの、もっとも大量的なもの、等々から始めること、つまり、木の葉は緑である、イワンは人間である、ジューシカは犬である、というような任意の命題からはじめること。すでにここには(ヘーゲルが天才的に指摘したように)、個別的なものは普遍的なものである、 という弁証法がある。 ・・・(下巻p.199)

5. つまり、対立しあっているもの(個別的なものは一般的なものに対立している)は同一である。個別的なものは、一般的なものへ通じる連関のうちにのみ存在する。一般的なものは、個別的なもののうちにのみ、個別的なものによってのみ存在する。
 すべての個別的な物は(なんらかの仕方で)一般的なものである。すべての一般的なものは、個別的なもの(その一部分あるいは一側面あるいは本質)である。すべての一般的なものは、すべての個別的な事物をただ近似的にのみ包括するにすぎない。
 すべての個別的なものは、完全には一般的なもののうちにはいらない、等々、等々。すべての個別的なものは、幾千もの移行によって他の種類の個別的なもの(物、現象、過程)とつながっている、等々。
 すでにここに、自然の必然性、客観的連関、等々の要素、萌芽、概念がある。偶然的なものと必然的なもの、現象と本質がすでにここに存在する。なぜなら、われわれが、イワンは人間である、ジューチカは犬である、これは木の葉である、等々と言うとき、われわれは多くの特徴を偶然的なものとして棄て、本質的なものを現象的なものから分離し、一方を他方と対立させるからである。   (下巻p.199)

6. このようにしてわれわれはどんな命題のうちにも、「細胞」のうちでそうであるように、弁証法のすべての要素の萌芽をあばきだすことができ(またそうしなければならない)、このようにして弁証法が人間のあらゆる認識一般に固有のものであることが示される。
 そして自然科学はわれわれに、客観的な自然も同じ性質をもっていること、すなわち、個別的なものが一般的なものへ、偶然的なものが必然的なものへ転化すること、つまり対立しあっているものが移行しあい、転換しあい、つながりあっていることを示す(そしてこのこともまた任意の単純な実例のうちで示さなければならない)。
 弁証法はまさに(ヘーゲルおよび)マルクス主義の認識論である。事柄のまさにこの「側面」(これは事柄の「側面」でなくて、事柄の本質である)に、ほかのマルクス主義者は言うまでもなく、プレハーノフは注意をはらわなかった。  (下巻 p.200)

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  私たちは、HP冒頭「翻訳文化から自立へ」において、出版会社ごと翻訳者ごとにドイツ語『資本論』キーワードの日本語訳が違っていて、それに伴い当然理解の仕方や概念の相違が発生してくることを見てきました。100年前レーニンが指摘したような「半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかった」事態が、日本でも私たちの周辺で続いていると思われれます。レーニンは、「古くなっていない」ようです。


  
第2章 『資本論』のヘーゲル哲学
    ヘーゲル論理学の継承

   価値方程式と価値存在

  <1> 個別的なものと一般的なもの

  『資本論』の論理学の破壊に!
       ・・ 等式と方程式の違い、

 ヘーゲル弁証法の難関の第一は、「 5.対立しあっているもの(個別的なものは一般的なものに対立している)は同一である。個別的なものは、一般的なものへ通じる連関のうちにのみ存在する。一般的なものは、個別的なもののうちにのみ、個別的なものによってのみ存在する。」という論理構造の具体的な理解にあります。


 ひとつ、『資本論』から関連個所を見てみましょう。細心の注意が求められ、解読すべき文脈となっています。価値形態論は第3節から始まるとして“解説本”が素通りしてゆく箇所です。第1節の第7段落目の「交換価値の背理・形容矛盾」の続きです。


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 『資本論』の方程式
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<コラム1>『資本論』の方程式
          →検索 
比例-価値方程式の形成 集計


 <価値方程式>・・・・「価値等式」は誤り・・・・

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『資本論』第1章第1節 (岩波文庫p.70)
1-6 一定の商品、1クォーターの小麦は、 例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々 と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は 、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x量靴墨、同じく y量絹、z量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z 量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換 価値であるに相違ない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一 物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき*14 内在物の 表現方式〔Ausdrucksweise:表現の仕方〕、すなわち、その「現象形態〔 "Erscheinungsform"〔現象の形式〕」でありうるにすぎない
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  上記『資本論』本文箇所は、①~⑤で表わし、「→、∴」は、報告者(私)の説明文・・・
①  
一定の商品、1クォーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。

   → 1クォーター小麦=x量靴墨、=y量絹、=z量金。
    ∴ 小麦は多様な交換価値をもつ。

②  しかしながら、x量靴墨、同じくy量絹、z量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x量靴墨、y量絹、z量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換価値であるに相違ない。

     → x 量靴墨 = y 量絹 = z 量金
     ∴ 靴墨、絹、金は相互に等しいある「大きさの交換価値」を表示している。

③  したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表している。
   ∴ これらの交換価値は、一つの同一物、つまり〔ある“未知数”概念〕を表している。

④  だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の表現方式、
   すなわち、その「現象形態」でありうるにすぎない。

     → 交換価値は、互いに異なる商品種が交換される時に、現象してくる。
     ∴ 交換価値は、A商品=B商品の左右の項(A,B商品種)とは違う
       形式・形態としてしか現象しない。→ 貨幣形態・価格へ

⑤  さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう。その交換価値がどうであれ、この関係はつねに一つの方程式〔Gleichung〕に表わすことができる。
 そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。

   → 「
例えば小麦と鉄」という場合、①のx量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々に表示されている諸商品種の中から代表して取り出されているのである。
  ∴  「例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄」、
     「例えば、1クォーター小麦=x量靴墨」    
     「例えば、y量絹、=z量金」 の具合に表示されることになる。

   この「例えば、」は、結局「連立方程式」を表示しているのである。

  この「連立方程式」は何を物語るか?

  ●
<コラム.3>商品の価値表現と価値方程式の抄録 参照

 〔ドイツ語では方程式:Gleichung、等式:Gleichheit、英語では両方とも:equation〕
 → 岩波・向坂訳、河出書房新社・長谷部訳以外は、この方程式:Gleichungを
   「等式Gleichheit」と読み換えて、わざわざ日本語に翻訳し、変更している。

  このようにして、「改訳 (改悪) 」し『資本論』の「論理学」を破壊しているのである。

→ 「個別的なものは、一般的なものへ通じる連関のうちにのみ存在する。」(ヘーゲル)
 ∴ 個別的な1クォーター小麦と a ツェントネル鉄が「=」で連結されるのは、一般的なものへ通じる連関(この表示機能を方程式という)にたいしてである。

     
 ∴ 「
等式」が意味表示している事柄は、異種同士の「もの・概念」をつなぎ合わせ「連結」させる機能自体を表示する場合に使用する。
 したがって、③の「一つの同一物〔数学上では、方程式の解法としての “
未知数概念” を意味している〕を言い表している」機能を表示する場合には、「方程式」を使用し、「等式」は使用しない。


 <2> 一般的なものは、個別的なもののうちにのみ、
     個別的なものによってのみ存在する

  この弁証法の論理は、『資本論』第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」に新たに出現する「ペルソナpersona」の理解に不可欠な概念です。
   
 「ペルソナ」とは、日本語で「人、人格、登場人物、舞台仮面の俳優等々」 幅広く翻訳される言葉です。
   「机が商品として現われるとなると、感覚的にして超感覚的な物に転化する」
 この神秘を解き明かす探究の道のり、ヘーゲルは私たちの航路の灯台となります。次回3月~5月への「資本論月報」にて詳細に跡づけてゆきましょう



 
Ⅲ. ヘーゲル「事始め」 クリック・参照して下さい。    

    
    文献資料 ヘーゲル哲学入門 
    『精神現象学』 成素と有機的なもの  
   >『資本論』のヘーゲル哲学入門.1> 
 
『資本論』のヘーゲル論理学入門.2

    > 
『資本論』の方程式 抄録はこちら



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A 中山元訳 『資本論』 抄録と解説
    
-「価値の分析抽象」の方法


『資本論』 中山・向坂訳-比較検討


  資本論ワールド 編集部  2020.09.13
  今回は中山元さんの翻訳を基に、これまでと違った角度からの『資本論』研究です。
 『資本論』
価値の分析抽象について岩波・向坂逸郎訳と比較研究しながら、中山元さんの翻訳を参照してゆきます。
 中山さんは、カントの『純粋理性批判』の翻訳者として高名な方です。これまた難解なカントをどうにかして日本の読者にも身近なものに、との思いが伝わってきます。『資本論』の翻訳にも、随所にその成果が発揮され、個性的で、しかも大変読みやすい翻訳に仕上げられています。(2011年12月5日)
 また、日経BP社は、企業情報によれば、2020年4月に日本経済新聞出版社と経営統合された会社です。その中山元翻訳『資本論』の内容紹介がHPに掲載されていますので、転載して中山元さんの紹介に代えさせていただきます。

 「世界史を変えた本として『聖書』と並び称される古典中の古典が、ビジネス書を読むようにやさしく読めるようになった。リーマン・ショックを契機とした世界金融危機、ギリシア、イタリアを襲った国家債務危機の連鎖の最中、われわれは何を手がかりに物事を判断すればいいのだろうか。 
 そうだ、あの人がいた! カール・マルクス(1818~1883)。アジア的、古典古代的、封建的、資本制生産様式(資本主義)から社会主義、共産主義へと発展する歴史的必然(唯物史観)の視点によって、資本主義の内部矛盾を分析した人。
 労働価値説、労働力の商品化、利潤率の低下といった学説史的理解はともかく、19世紀半ばに大英博物館に通い、矛盾多き資本主義を膨大な資料を読み込んで徹底的に考え抜いたマルクスの情熱、これこそ学ぶべきもの。
 『資本論』は3巻構成。日経BPクラシックスでは、マルクスの生前の1867年4月に刊行された第1巻を4分冊に分けて刊行する。第1分冊は、アルチュセールなど名うての『資本論』読みのプロが「最初は飛ばしたほうがいい」とアドバイスしている超難解な価値形態論を説明した第1章を含む。
 訳者の中山元さんは独仏英の3ヶ国語に堪能なこともあり、ディーツ社のドイツ語版をベースに、ところによって分かりやすい仏語版を採用してもいる。編集面では、小見出しや改行、傍点を適宜加え、これまで剰余価値と訳されてきた Mehrwert を「増殖価値」と改訳している。
 ともあれ、1920年に出た高畠素之の初訳以降の『資本論』翻訳史上に画期となる作品。
  日経BPクラシックス

 資本論ワールド編集部では、中山さんの翻訳の妙が活かされるように、『資本論』のドイツ語をふんだんに取り入れています。21世紀の新時代に活躍される若人諸君の勉学のお手伝いに役立てれば望外の喜びとなります。

  
 
『資本論』 経済学批判 第1巻
   中山元訳 日経BP社 2011年発行

  『資本論』の目次 (とりあえず第1~3章)
 第1部 資本の生産過程
  第1篇 商品と貨幣
  第1章 商 品
   第1節 商品の2要素 使用価値と価値
       (価値の実体、価値の大いさ)
   第2節 商品に表現された労働の二重性
   第3節 価値形態または交換価値
   A 単純で、個別の(あるいは偶然的な)価値形態
    1 価値表現の両極――相対的価値形態と等価形態 
    2 相対的価値形態
      a 相対的価値形態の内容
      b 相対的価値形態の量的な規定性
    3 等価形態
    4 単純な価値形態の全貌
  B 全体的な価値形態または展開された価値形態
  C 一般的な価値形態
  D 貨幣形態
  第4節 商品のフェティッシュな性格とその秘密
 第2章交換過程
 第3章貨幣または商品の流通
・・・・・・・・・・・・・・・

  
『資本論』の翻訳問題 
  
A 中山元訳 『資本論』 抄録と解説
  B 『資本論』 価値の分析抽象の方法
  C 『資本論』のヘーゲル論理学
 ・・・・・・・・・・・・・・・

 
A 中山元訳 『資本論』 抄録と解説
   価値の分析抽象の方法

   『資本論』 第1章 商 品
 第1節 商品の二つの要素――使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)  
  〔*印の中見出しと [ ] は訳者の注記。文頭の
段落分け数字と文中の〔〕、■解説 は編集部による。〕

    *使用価値と交換価値
 1-1
 資本制生産様式が支配的な社会においては、社会の富は「一つの巨大な商品の集まり”ungeheure Warensammlung"」として現れ、個々の商品はその要素形態〔Elementarform:元素形式〕として現れる。だからわたしたちの研究もまた商品の分析から始まる。
 1-2
  商品は何よりも人間の外部にある対象であり、その特性 Eigenschaften によって何らかの種類の人間の欲望を満たす事物 Dingである。この欲望の性格 Natur が食欲であるか、幻想から生まれたものであるかは、重要なことではない。またこの物 Sacheが人間の欲望をどのように満たすのか、すなわち食べ物として、享受の対象として直接に満たすのか、それとも生産手段として、迂回路をへて満たすのかも、重要なことではない。
 1-3
  鉄や紙などの有用な物Dingは、それぞれ
性質と量 Qualität und Quantitätという二重の側面から考察する必要がある。こうした物はすべて、多数の特性 Eigenschaften をそなえており、そのためにさまざまな側面において有益に利用することができる。物を利用しうるこれらのさまざまな側面と、その多様な使用方法を発見するのは、歴史の仕事である。有用な物がどれほどの量で必要とされるかを測定する社会的な尺度をみいだすのも、歴史の仕事である。商品の社会的な尺度の違いVerschiedenheit は、測定される対象の性質の多様性 der verschiedenen Naturによって生まれることも、習慣によって作りだされることもある。
 1-4
 ある物が有用 Nützlichkeit であるとき、その物は使用価値をもつと言われる。しかしこの有用性は空中に漂っているものではない。有用性は商品の〈身体〉の特性 die Eigenschaften des Warenkörpers から生まれるものであり、この〈身体〉なしには存在しない。鉄、小麦、ダイヤモンドなどの商品の〈身体〉そのものが使用価値であり、財なのである。この〈身体〉の特性は、この商品が使用価値という性格を獲得するために人間がどれほどの労働を投入する必要があるかとは、かかわりがない。使用価値を考察するときには、1ダースの時計、1ヤードの亜麻布、1トンの鉄のように、つねに量的な規定 quantitative Bestimmtheit が想定されている。商品の使用価値は、商品学という独自な学問で研究する対象である。使用価値は、商品が使用され、消費されて初めて現実のものとなる。使用価値は富の内容の素材となるものであり、Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, その富の社会的な形態がどのようなものであるかにはかかわらない。わたしたちが考察している社会形態では、
使用価値は[富の内容とは]別の素材の担い手となる。使用価値は交換価値の担い手なのである。 In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des - Tauschwerts.

     *交換価値
 1-5
 交換価値はまず量的な関係 quantitative Verhältnis として示される。この量的な関係とは、ある種の使用価値が別の種類の使用価値とどのような比率で交換されるかを示すものであり、この関係は時と所におうじてたえず異なる。このため交換価値は偶然的なもの、まったく相対的なもののようにみえる。
 そこで商品には内的で固有の交換価値があるという表現は、形容矛盾 eine contradictio in adjecto
に聞こえるのである。
この問題をさらに詳しく検討してみよう。
  1-6 
  ある商品、たとえば1クォーターの小麦であれば、X量の靴墨やY量の絹布やZ量の金などと交換される。要するにこの小麦はさまざまな比率 verschiedensten Proportionen で他の商品と交換される。だからこの小麦の交換価値はただ一つではなく、多数の交換価値をそなえていることになる。しかしX量の靴墨もY量の絹布も Z量の金なども、
すべて1クォーターの小麦の交換価値なのだから、X量の靴墨、Y量の絹布、Z量の金の交換価値はたがいに置き換えられうるものであり、同じ大きさ einander gleich große Tauschwerte でなければならない。
  そこで次のことが確認できる。 第一に、その社会で通用する同じ商品の交換価値は、同一である 〔drücken ein
Gleiches aus:同じものを表現する〕。 第二に、交換価値はそもそもある内容[価値]の「現象形態"Erscheinungsform" 」であり、交換価値が表現する内容は、交換価値とは違うものである。Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die "Erscheinungsform" eines von ihm unterscheidbaren Gehalts 〔交換価値から区別・識別できる内容・実質〕 sein.


     *交換価値の等式 〔Gleichung : 方程式
 1-7   〔ヘーゲル「小論理学」§117, §117補遺 参照 (岩波文庫p.23-25)〕
 さらに別の二つの商品として、小麦と鉄を考えてみよう。この二つの商品の交換比率 〔Austauschverhältnis:交換関係〕 がどのようなものであるにせよ、特定の量の小麦が特定の量の鉄と等しい関係にあることを示す等式 〔Gleichung :
方程式〕 で表現することができる es ist stets darstellbar in einer Gleichung,。 たとえば 1クォーターの小麦= a キログラムの鉄 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. という等式 〔Gleichung:方程式〕 で示されるのである。
  この等式 〔方程式〕 は何を語っているのだろうか。1クォーターの小麦と a キログラムの鉄という二つの異なる物のうちに、同じ大きさのもの 〔
Gemeinsames:共通のもの〕 が共通して存在しているということである。この小麦と鉄という二つの物が、小麦でも鉄でもない第三のものに等しく、この第三のものはそれ自身としては小麦でも鉄でもないということを示しているのである。だからどちらの商品も、交換価値としては、この第三のものに還元できるのでなければならない auf dies Dritte reduzierbar sein.。

 1-8  〔 還元する reduzieren → 抽象作用 Abstraktion 〕
  これは簡単な幾何学の実例で考えると分かりやすい。[六角形や七角形など] 多数の直線で囲まれている図形を考えてみよう。この図形の面積を計算し、比較したければ、これを三角形に分解するとよい。そして三角形の面積は、目に見える図形とはまったく 異なる表現 に還元され、底辺の長さに高さを乗じて、それを2分の1にするという方法で計算できる。これと同じように複数の商品の交換価値は、ある〈共通なものGemeinsam〉に還元される reduzieren。この〈共通なものGemeinsam〉を多く含んでいるか、少なく含んでいるかで、その交換価値が決まるのである。



    *人間労働の凝縮物
 1-9  〔 抽象作用 Abstraktion - 使用価値が無視・度外視されること
 この〈共通なもの〉は、商品の幾何学的な特性でも、物理的な特性でも、化学的な特性でも、その他の自然の特性でもありえない。そもそも商品のこれらの〈身体〉的な特性 körperlichen Eigenschaften は、それが有用なものである場合にだけ問題になるのであり、使用価値としてしか問題にならないのである。 ところが商品の交換比率の明確な特徴は、この
使用価値がまさに無視される〔度外視される〕ということ 〔Abstraktion(抽象)〕である(*注)。
 Andererseits aber ist es grade die Abstraktion(*注:抽象) von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis der Waren augenscheinlich charakterisiert.

 (
*注) Abstraktion:編集部注 ヘーゲル「小論理学」松村一人訳§115 参照
 「この
同一性 Identität は、人々がこれに固執して区別 Unterschied 捨象する 〔abstrahiert:度外視する〕 かぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象(抽象作用) Abstraktion とは こうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。」(岩波文庫p.18)
tss
 
すなわち使用価値からの「Abstraktion(抽象, 抽象作用)」とは、「使用価値のさまざまな規定性の差別を捨象して、一つの規定性へ集約する」こと。


 
交換比率が問われるときには、使用価値はたんにある比率で存在してさえいれば、他の商品の使用価値とまったく同じものとみなされる
Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in
gehöriger 妥当な比率Proportion vorhanden ist.

 老バーボンの表現を借りれば、「交換価値さえ同じであれば、商品がどのような種類のものであるかは問題ではない。交換価値の等しい物のあいだには
違いも区別 Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit もない」のである。

 1-10
 商品は使用価値としては、何よりも
質 Qualität の異なるものである。しかし交換価値としては、商品は 量 Quantitätの異なるものであり、いかなる使用価値も含まない。〔enthalten also kein Atom Gebrauchswert.:自然要素として一原子の使用価値も含まない〕

 1-11  〔 交換価値がいかなる使用価値も含まないから、商品の使用価値を無視する(度外視する)〕

  さて、
商品の〈身体〉の使用価値を無視する 〔absieht→absehen:度外視する、問題としない〕 ならば、そこに残るのは商品が労働の生産物であるという特性だけである。しかしわたしたちの手の中で、この労働の生産物はすでに変化してしまっている。 商品の使用価値を無視するということは Abstrahieren wir von seinem Gebrauchswert, 、その商品の使用価値を作りだしている物体的な成分や形態もまた無視するということである。その商品はもはやテーブルや住宅や紡ぎ糸などの有用な物ではなくなっている。商品の感覚的な特性はすべて消滅している 〔 ausgelöscht :auslӧschen 消える〕
これはもはや家具労働、建築労働、紡績労働、その他の種類の特定の生産的な労働の生産物ではなくなっている。労働の生産物の有用な性格 nützlichen Charakter が失われるとともに、これらの労働の具体的に異なる形態もまた消滅する 〔
verschwinden:姿を消す,なくなる〕。もはやこれらの労働はたがいに区別されず、すべて同じ人間労働に、*抽象的な人間労働 〔abstrakt:抽象的に menschliche Arbeit : 抽象的に人間労働 〕 に還元されている(*注)。

 (*注) 形容詞 abstrakt の副詞用法 (形容詞のままで副詞用法となる)
 「抽象的に人間労働
は、
ヘーゲル論理学§115 などの抽象(抽象作用) Abstraktion の結果、「* * * に還元される」ことになるので、副詞用法として「抽象的に」と定義される。
*抽象的な人間労働 → 〔abstrakt:抽象的に menschliche Arbeit : 抽象的に人間労働 〕 に還元されている」

 1-12
  それではこのようにして残された労働生産物の残滓を検討してみよう。そこに残されているのは、人間のさまざまな労働がどのような形態で行われたかはまったくかかわりなく、たんに無差別に行使された人間労働の
凝縮物 eine bloße Gallerte unerschiedsloser menschlicher Arbeit,という幻想的な実態 gespenstige Gegenständlichkeitにすぎない。これが表現しているのは、`これを生産するために人間の労働力が行使されたということ、そこに人間の労働力が蓄積されているということだけである。それは、これらの物に共通する社会的な実体 gemeinschaftlichen Substanz の結晶であり、これがこの商品の価値、商品価値なのである。

 
1-13
  商品の交換関係のうちで、商品の交換価値はその使用価値とはまったく
独立したものdurchaus Unabhängigesのようにみえる 〔erschien:姿を現す〕
Im Austauschverhältnis der Waren selbst erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus Unabhängiges.
労働生産物の使用価値を実際に無視してしまうと、このように規定された労働生産物の価値が決定される。だからすでに考察してきた〈共通なもの〉とは、商品の価値である。これが商品の交換比率として、商品の交換価値として表現されるのである。
Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert, wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame, was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert.

これから研究を深めていくと、価値の必然的な表現形式として、または現象形式として、この交換価値について考察することになるが、ここではこの価値は
これらの形式とは別に考察する必要があるのである。
Der Fortgang der Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.

     *使用価値の大きさを決めるもの
 
1-14
このように、商品の使用価値または財が価値をもつのは、そこに抽象的な人間労働が[物的なものとして]対象化され、物質化されているからである。この価値の大きさはどのようにして測定されるのだろうか。そこに含まれる「価値を形成する実体"wertbildenden Substanz"」の大きさ Quantum、すなわち労働の量 Die Quantität der Arbeit によってである。この労働の量そのものは、労働が持続した時間の長さで決定され、この労働時間の長さを測定する尺度は、1時間、1日のように、特定の時間の長さである。

 
1-15
  商品の価値が、それを生産するために消費された労働の量verausgabte Arbeitsquantumの大きさで決定されるのだとすればEs könnte scheinen, [疑問が生じるかもしれない。たとえば] ある労働者が怠け者であるか、労働に熟練していない場合には、商品を完成するためには長い時間がかかってしまい、その商品の価値が高くなるということにはならないだろうか。しかし価値の実体となる労働というものは、同等な人間労働のことであり、同等な人間の労働力の行使である。商品世界の価値のうちには、社会の全体の労働力が表現されるのであり、これはたしかに無数の個人的な労働力で構成されるが、ただ一つの同等な人間の労働力とみなされるのである。
  個々の個人の労働力はすべて、その社会の平均的な労働力という性格をそなえている。この労働力は、これはその社会の平均的な労働力として行使されるのであり、一つの商品を生産するために平均して必要な労働時間(これは社会的に必要な労働時間と呼ばれる)だけを費やすものであるため、他の人の労働力と同じになるのである。この社会的に必要な労働時間とは、社会的に正常な既存の生産条件のもとで、社会的に平均した労働の熟練度と強度を行使して、何らかの使用価値を作りだすために必要な労働時間のことである。
   たとえばイギリスに蒸気で作動する織物機械が導入された後には、一定の量の紡ぎ糸を亜麻布に織りあげるための労働時間は、それ以前の半分に短縮された。この機械を利用せずに手作業で布地を織る職人は、実際には以前と同じだけの労働時間を働くとしても、彼の個人としての1労働時間の生産物は、社会的な労働時間としては「機械を利用する場合の」半分の労働時間の価値しかなくなった。手作業で布地を織る職人の生産物の価値は、それ以前の半分に低下したのである。


 
1-16
 このように一つの使用価値の大きさを決定するのは、社会的に必要な労働の量das Quantum gesellschaftlich notwendiger Arbeitであり、その使用価値を生産するために社会的に必要とされる労働時間だけなのである。この場合には個々の商品は一般に、その種類の商品の平均的な見本とみなされる。複数の商品は、そこに同じ大ききの労働量が含まれるならば、言い換えれば、同じ労働時間で生産できるのであれば、同じ大きさの価値をもつことになる。ある商品の価値と別の商品の価値の比率は、その商品の生産に必要な労働時間の長さと、別の商品の生産に必要な労働時間の長さの比率と一致する。
「価値としてみたすべての商品は、凝固した労働時間の特定の量にほかならない」。"Als Werte sind alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit."



      *交換価値の変動 
 
1-17
 そのため一つの商品を生産するために必要な労働時間が変わらないかぎり、その商品の価値の大きさも同じである。ただし労働の生産力が変動すると、必要な労働時間も変動する。労働の生産力はさまざまな要因によって決定される。とくに労働者の平均的な熟練度、科学とその技術的な応用可能性の発展段階、複数の生産過程の社会的な結合、生産手段の規模と効力、自然の状況などが重要である。
  たとえば豊作の年であれば8ブッシェルの小麦を収穫できる労働量でも、不作の年にはわずか4ブッシェルの小麦しか収穫できないこともあるだろう、鉱物の埋蔵量が多い鉱山では、同じ労働量でも、埋蔵量の乏しい鉱山よりも多量の金属を掘り出すことができるだろう、などなど。
  ダイヤモンドは地表近くにはほとんど存在しないために、これを発見するために平均して長い労働時間が必要である。だからダイヤモンドはその小さな体積のうちに、多量の労働を表現しているのである。ジェイコブは、金がその「ほんらいの」すべての価値を支払われたことがあるかどうかは疑問であると語ったことがある。それならば、ダイヤモンドについては、この言葉がもっとあてはまるだろう。
  エシュヴェーゲによると、1823年の時点でブラジルの過去80年間のダイヤモンド鉱山の総生産量の価格は、ブラジルの砂糖とコーヒーのプランテーションで1年半の期間で生産される平均生産物の価格を下回っていたという。それでもダイヤモンドの生産には、砂糖とコーヒーの生産よりも長い労働時間が含まれていたのであり、大きな価値を含んでいたのである。ダイヤモンドの埋蔵量の豊富な鉱山があれば、同じ労働量でより多くのダイヤモンドが生産できるだろうし、ダイヤモンドの価値は低下するだろう。もしもわずかな労働で石炭をダイヤモンドに変えることができたならば、ダイヤモンドの価値はレンガの価値よりも低くなることだろう。        
  一般的に、労働の生産力が高いほど、一つの物品を生産するために必要な労働時間が短くなり、そこに結晶する労働量も小さくなり、その物品の価値も小さくなる。反対に労働の生産力が低くなると、一つの物品を生産するために必要な労働時間が長くなり、その物品の価値は大きくなる。ある商品の価値の大きさは、それを生産するために必要な労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例するのである。


      *自然に生まれる使用価値
 
1-18
 ある物が価値をもたずに、使用価値をもつことがありうる。物が人間にとって有益であるのに、その物を使用するために人間の労働が不要な場合がこれにあてはまる。空気、処女地、自然のままの草原、野生の樹木などがその実例である。物は商品でなくても、有益な物であったり、人間の労働の生産物であったりすることもある。みずからの生産物で自分の欲望を満たす人は、使用価値を作りだしているが、商品を作るわけではない。商品を作りだすためには、その人は使用価値を作りだすだけでなく、他人のための使用価値を、社会的な使用価値を作りだす必要がある。{ しかも他人のためというだけでは不十分である。中世の農民は封建領主のために年貢として穀物を生産し、聖職者のために10分の1税の穀物を生産していた。しかしこうした年貢のための穀物も10分の1税のための穀物も、他人のために生産されたが、商品になったわけではない。生産物が商品になるには、それが使用価値をもつ他人に、交換をつうじて譲渡されなければならないのである }。 最後にどのようなものであっても、使用の対象でなければ価値をもつことはできない。それが無用なものであれば、そこに含まれる労働もまた無用のものである。これは労働とはみなされず、いかなる価値も作りださないのである。
  〔第1節 終わり〕
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第2節 商品に表現された労働の二重性