ヘーゲル用語事典 ★㈱未来社
・・・『資本論』とヘーゲル哲学のために・・・
★ 用 語
1. 量
2. 反省規定
3. 相関関係
1. 量 Quantitӓt
純粋量 定量 連続性 非連続性〔分離性〕 大きさ 数 集合数 単位
外延量 内包量〔度〕 量的無限性 比例
質から量へ
質論から量論への移行にさいしては、対自有の位置が問題となる。この点からすると、
対自有をとくに諸事物にみられる共通の質、つまり等質性と解釈することができる。色や形、大きさの異
なるリンゴを、「リンゴ」として等質なものとみなし、さらに異種の果物をみて、「果物」と造語し、等
質化する。等質化された対象に残るのは、「より大きい」、「より多い」などの量的差違だけである。そ
して、五個の果物、五本の指を比較して、そこから「五」という数を抽象する。以上の展開のなかで、「
量は止揚された対自有である」(『大論理学』)といわれる。
より広く、質と量の関係で考えると、量とは、質と量をもった具体的な事物から質を捨象したものであ
り、その意味で、質に無関与になったものである。ヘーゲルは或るもののなにかはその質的規定性によっ
て表現されるという。つまり、当然のことだが、存在するものはまず、「赤いもの」または「家」などと
質的に特徴づけられる。赤いものの濃淡が少し変化しても、また、家の大きさが多少変化しても、こうし
た量的変化は当の事物を別ものに変えるわけではない。こうしてヘーゲルは、質的考察を量的考察に先行
させるのである。量論は①量(純粋量)、②定量、③量的比例へと区別される。
純粋量と定量
量はさしあたり《純粋量(reine Quantitӓt)》として現われ、つぎに《定量(Quantum
)≫へと移行する。これは有論における「純粋有」から「定有」への移行と対応する。純粋量は抽象的で
無限定の量であり、それが限定されて定量が生ずる。量は現実には、一定の限定された量、つまり定量と
してのみ存在する。
純粋量は《連続性(Kontinuitӓt)》と《非連続性(分離性Diskretion)》の二契機をもつ。「対自有」
の牽引が連続性に、反発が非連続性に発展したのである。連続性は事物が量的に等しくみられるという、
同一性の面であり、そしてそれでも、量がそこに多くの一者を含んでいるというのが非連続性の面である
。たとえば、部屋のなかの空間は連続的であるが、その空間を分割して区分できるから、空間は分離性も
またもっている。
ヘーゲルは《大きさ(Grӧẞe)》を「量」の概念とほぼ同一視する。量論の表題は正確には「大きさ(量
)」である。だが、厳密には、「大きさ」は量の概念をすでに前提にして、「どのくらい大きいのか」と
実際の大きさを問うのであるから、「大きさ」はむしろ「定量」に近いのである。
数とは何か
定量は《数Zahl)》として十分に表現される。ここで念頭におかれている数とは、1、2、
3、4、5 ・・・・という自然数である。数が存在しない段階で定量について語るとすれば、たんに「より
大きい」、「より多い」、「等しい」などとしかいえない。
数は《集合数Anzahl)》と《単位(一性Einheit)》の統一として規定される。集合数は純粋量における
「分離性」が、単位はそこでの「非分離性」がそれぞれ発展したものである。たとえば、5という数にお
いて、個々の一者を5つ含むという面が集合数であり、5を全体としてひとつのものとみるのが単位の面で
ある。5を単位の面からみると、それは4に1が付加されたというのでなく、不可分の5という統一体として
、4や6と区別されるのである。
だが、自然数とは、1、2、3、4、 ・・・・と無限に連続する単一の系列なのであるから結局、一定の数
は他の数にたいして、無区別的に連続するとみられる。ヘーゲルはそこに数の本性をみる。数とはこの意
味で、ひたすら無限に続くものとして、全体的な一者なのである。
外延量と内包量
定量はさらに具体的に、《外延量(extensives Quantum)》と《内包量(intensives
Quantum)》または《度(Grand)》との統一とみられる。外延量とは自己のうちに多を含むものといわれ
る。こうして、たとえば、5という数は、3、4、5、6、7、 ・・・・という外延的な広がりのなかにある
。この意味では、数は直接的には外延量である。内包量とは、自己のうちで単純なもの、単純な規定性の
なかに総括された数多性、と説明される。内包量は、たとえば、5度、6度という意味での「度」である。
それは外延量のように多くの一者が集合したものでなく、熱、音の高さ、色彩の明暗の場合のように、全
体としての一定の強度を表わす。したがって5度の水に5度の水を足しても10度の水にはならないし、10度
の水を4度と6度の水に分けることもできない。
ヘーゲルはしかし、この両者をまったく分断することを否定し、すべての内包量はまた外延量でもあり、
その逆も真だという。たとえば、ある温度は内包的な大きさであるが、それはしかし、寒暖計の水銀柱の
一定の高さという外延的大きさとして表現される。また精神の世界でも、高度の内包性をもつ強い性格は
、弱い性格より広く外部に向かい影響を及ぼす、つまり外延性が広いのである。
量的無限性
定量はあくまでも一定の量であるが、量的に増加したり減少したりすることは、じつは定
量それ自身にとって外面的なことなのである。この点では、質の変化がつねに別のものへの変化を導く場
合とは異なる。赤いものが青くなるのは、そのかぎりで別のものへの変化であるが、五センチのものが六
センチになったとしても、それは定量にとって外面的である。しかし、定量のもつ外面性こそ、定量の規
定に属する。こうして、定量は必然的に自己を超えて他の定量へと連続するが、増加し、減少するところ
に定量の本性がある。
ここに《量的無限性(quantitative Unendlichkeit)》の概念が生じる。これは以前の質的無限性(或る
ものが質的にたえず変化していくこと)とは異なる。量的無限性もその際限のなさのために悪無限である
。量的悪無限は無限大と無限小の両方向へと向かう。
比 例
量的無限進行のなかでは、ある定量はたえず超えられ、他の定量となる。だがヘーゲルは、ここ
でも不変の側面をみようとする。それは《比例(量的相関関係Quantitatives Verhӓltniẞ)》である。比
例では二つの定量の関係が問題となるが、一対二、二対四、三対六というように、その値は不変なのであ
る。ヘーゲルはここで分数を登場させ、そしてニュートン、ライプニッツ、ラグランジェらの微積分を詳
しく検討している(→微分-積分)。
イェーナ期の論理学には「比例(Proportion)」というカテゴリーが存在した。ここには数学を重んじた
プラトンの影響がみられるが、このカテゴリーはのちに消失する。
一般にヘーゲルの量論は、その思弁性のために軽視されるが、数学を哲学的に考察するときに不可欠なも
のであり、また、たんなる思弁にとどまらず、微積分や無限小などについての当時の数学の議論に深く分
け入っているといえよう。なお微分法などの弁証法的考察については、マルクス『数学手稿』が興味深い
。 (島崎 隆)
2. 反省規定 Reflexionsbestimmung
同一性 区別 差違性 矛盾 根拠
反省規定とはなにか
反省規定とは、本質論の原理である反省を具体的に展開したものであり、ここでは、同一性、区別など、人間の認識作用に頻繁に使われるカテゴリーが登場する。反省規定の成立にかんしては、とくにニュールンベルク期の論理学(『入門』)の形成過程を検討することが重要である。
『大論理学』でいえば、<同一性-区別(絶対的区別-差違性-対立)-矛盾-〔根拠〕>という一連の反省規定が展開される。なお、『小論理学』の展開は、<同一性-区別(差違性- 対立)-根拠>となっている。
同一性 有論の論理が或るものから他のものへのたえざる変化・移行の論理だとすれば、本質論の論理はそうした表面的な変化の奥にある、事物の安定した《同一性(Identit?t)》を捉えようとする。同一性(同じということ)は、事物が多様に変化するにもかかわらず、そこに貫く不変のもの(同じであり続ける主体性)を意味する。この意味で、同一性は端的に本質の論理そのものであり、またそれは、基本的に、自己との同一性、自己との関係を意味する。
こうして(自己)同一性は同一性それ自身と区別の二契機をもつ。同一性は、事物がみずから区別・分化し、多様に変化・運動しながら、同時にそのなかで統一性を保持することを意味する(このさい、「区別」は分化、変化、多様性などと同義である)。たとえば、生物はたえず新陳代謝をしながら、自己維持をする。むしろ、他の物質を摂取することは自己維持の不可欠な条件である。こうして、同一性は区別を必然的に前提し、むしろ区別(多様性)を産出する動的なものである。区別を含んだ同一性が「具体的同一性」といわれるのにたいし、悟性の考える、区別や変化を捨象した同一性は、「抽象的同一性」、「形式的同一性」と批判される。伝統的な形式論理学の「一般的思考法則(思考の原理)」の筆頭に同一律(A=A、AはAである)が挙げられるが、これこそ悟性の同一性なのである(→論理学)。
区別
同一性の規定は区別なしに成立しない。事物が多種多様に自己を分化・区別し、そのなかで主体的にみずからの同一性を保持するとすれば、むしろここには、より適切に表現すれば、自己と関係する区別作用のみがあるといえる。この表現の方が事物の本質をリアルに捉えるであろう。ここで同一性の規定は、《区別(Unterschied)》の規定へと移行する。この区別も(自己)同一性と同様に自己からの区別、つまり自己区別であり、区別それ自身と同一性を二契機としてもつ。区別は自己に関係する区別であるから、ここに同一性もまた含まれる。たとえば、受精卵が二つ、四つへと分割されながらも、そこに生命のもつ同一性(統一性)が貫くように。区別規定はそれのもつ契機の点で、同一性の反転したものといえる。
区別は<絶対的区別-差違性-対立>へと細分される。「絶対的区別(absoluter Unterschied)」はいままで語られた区別のことである。本質の論理は同一性として語られるというよりも、絶対的区別とみられるという方がより深い見方である。というのは、事物の変化や分裂・分化を特徴づける区別規定は、事物の本質のもつダイナミックで自己否定的な性格をはっきりと表現するからである。
差違性
絶対的区別は区別と同一性の二契機を一体化してもっているが、この両側面が分離すると、《差違性(Verschiedenheit)》の規定が生じる。差違性では以前の同一性と区別がばらばらになっている。差違性の契機は「同等性(Gleichheit)」と「不等性(Ungleichheit)」である。同等性は同一性に、不等性は区別に由来する。差違性の立場によると、事物AとBに反省を加え、両者は同じである(同等である)とか違っている(不等である)と判断するのは、事物の外部にいて単純に比較をする第三者(認識主体)である。ここでは反省が事物にとって外面的でよそよそしくなっており、この意味で疎外が生じる(→外的反省)。差違性の立場は、たんに「・・・のかぎりにおいて」、「・・・の側面で」という限定つきで事物の異同をいうのみである。ヘーゲルはここで伝統的論理学の「差違性の命題」(すべてのものは互いに異なる)を批判的に位置づける。
対立 差違性の立場は同等性と不等性の二契機を分離して捉えていたが、本当はこの両者は相互に前提し合っている。まったく区別された同等性と不等性は本来成り立たないはずである。こうして、差違性のなかに以前の同一性がよみがえってくる。ここに≪対立(Gegensatz)≫の規定が生ずる。対立は差違性と同一性の統一ともいえる。対立の二契機は「肯定的なもの(Positives)」と「否定的なもの(Negatives)」である。前者は差違性のモメントとしての「同等性」に由来し、後者は「不等性」に由来する。「肯定的なもの」は対立状態における自己保持的側面を、「否定的なもの」は対立状態を克服しようとする側面を意味する。対立レベルで捉えられると+と-であれ、男と女であれ、さらに精神と自然の関係であれ、対立する両者は密接不可分の関係にあり、一方は「他方の固有の他者」となる(→他のもの)。しかし、対立的な両項は相互に不可分でありながら、なおも同時に排斥し合っている。たとえば、男と女は男がいなければ女もいないというように互いに前提し合っているが、両者はまったくの異質の性(opposite sex)として相互に排除し合っている。ヘーゲルはここで伝統的論理学の排中律(或るものはAか非Aであり、第三者は存在しない)を批判的に位置づけている。
矛盾と根拠
こうして、肯定的なものと否定的なものの対立とは、相互依存と相互排除の両立であった。この事態はよくみれば、そこでは互いに、みずからを支えているはずの他方を否定し、排除しようとしていることになる。対立のもつ矛盾した事態がいまや明らかになる。ここに≪矛盾(Widerspruch)≫の規定が成立する。矛盾が露呈した結果、肯定的なものと否定的なものは存立根拠を失い、没落する。だが、没落する(zu
Grunde gehen)ことは、よくみれば、「根拠へと帰る(in seinen Grund zuruckgehen)」ことを意味する。ここで矛盾が解消し、≪根拠(Grund)≫の規定が生ずる。対立や矛盾を生みだしてきた根拠そのものが浮上することによって、いまや矛盾は真に解決される。ヘーゲルはこの箇所で形式論理学の(無)矛盾律(Aは同時にAかつ非Aではない)を位置づける。むしろヘーゲルにとって、「すべてのものはそれ自身において矛盾的である」(『大論理学』)(矛盾肯定という意味での矛盾律)の方が真実を表現するものである。そしてまた、ライプニッツの定式化した充足理由律〔充足根拠律〕(すべてのものはその十分な理由〔根拠〕をもって存在する)の命題もここに位置づけられる。
反省規定論の意義
反省諸規定はひとつずつとっても有意義なものであるが、この一連の展開そのものに意味はあるのだろうか。この展開は観念論的な意味での「概念の自己展開」にそって行なわれているが、単純化すると、<同一性-対立-矛盾-根拠(=同一性の回復)>となる。この展開は、①一般に事物が変化し、矛盾をはらむなかで、さらになにか存立(同一性)を得ていること、②事物が歴史的・時間的に矛盾を露呈しながら没落すること、③没落した事物からさらに新しいもの(根拠としての新しい同一性)が生まれること、④認識過程でいえば、それが対立規定への事物の分析、さらにそこからの総合としてはたされること、⑤主体としての人間と客体(自然と他者)とが区別され、分裂的な状態にありながらも、(労働などを介して)そこにふたたび統一が生ずることなど、多様なレベルで解釈できる。ちなみにマルクスは『経済学=哲学手稿』で、労働と資本のあいだの運動として、矛盾へといたる状態を考えている。また、彼は『聖家族』で、私有財産をめぐる「対立」において、「肯定的なもの」を有産階級(保守派)と、「否定的なもの」をプロレタリアート(現状否定派)と、それぞれみなしている。 (島崎 隆)
3. 相関関係 Verhältnis
区別項 関係
用語の多義性
常識的には、「相関関係」は自立する二つのもののあいだの相関関係を意味する。たとえば、父と子、上と下などの関係はこうしたものである。そこでは、父と子は相互に独立していながら、子がなければ父もないというように相互の依存のなかにある。このさい、関係づけられるものは、《区別項(項Unterschiedene)》、側面、「分肢(Glied)」などとよばれ、基本的に二つとなる。ところが、ドイツ語のVerh?ltnisは量的「比例」、さらにまた認識主体・実践主体と対象(人間を含む)との関係など、きわめて多義的であり、ヘーゲルの相関関係もそれらをすべて含んでいる。しかもこの相関関係は、関係する両項と関係それ自身との「関係」を問題にするものとして、独自の世界認識を形成するカテゴリーである。
カテゴリー論として カテゴリー論(哲学上の基礎概念についての理論)の歴史としては、アリストテレスが「関係」概念を取り出した。カントのカテゴリー表では、「関係」概念のもとに「実体」概念が現われる。だが、そこでは、それほど相関関係は重視されてはいない。
ヘーゲルは相関関係を本質論で取り扱う。というのは、相関関係は固定した二つのもののあいだの関係を意味し、そこにまだ十分な統一と主体性がないからである。これにたいし、≪関係(Beziehung)≫は体系期では、中立的な意味をもっている。相関関係は本質論では、全体と部分などの「本質的相関関係」において、さらに実体性(実体と偶有の関係)、因果性(原因と結果の関係)などの「絶対的相関関係」において扱われる。全体と部分は相互に自立していながら、また前提し合っている。全体がないと部分という表現はないし、逆に諸部分が全体を合成する。ところで、原因と結果の相互関係は部分と全体のそれよりも両項の関係が密接である。というのは、全体は部分の機械的集合にすぎないが、原因が結果を産出するという現象では、両者(原因と結果)のあいだに緊密な一体性が貫くからである。だが、いずれにしても、相関関係では、両項の独立性と両項の関係(同一性)は対立し、矛盾をはらんでいる。
相関関係とは、たんに関係する両項がアトムとして自立し、独立実体としてあることだけを意味しないし、さりとて、関係項を両項の関係のなかに埋没させて、存在するのは関係のみという立場(いわゆる関係主義)に立つのではない。そこでは、関係項と関係それ自身が対立・矛盾をはらみながら、等価的なものとして両立している。『大論理学』本質論に即すと、本質論前半を支える論理は反省であり、後半の論理がじつは相関関係となっている。反省論では、関係項なしの関係自体の論理といわれるほどに、関係自身の包括性が強調される。それにたいし、全体と部分の相関や因果性の相関にみられるように、そこでは関係項の自立性が明示される。本質論の基本論理は反省であるといわれるが、それでもなお、上記の区別が存在するといえる。
こうしたヘーゲル特有の相関関係の論理は、すでに「単純な関係[(Beziehung)と「相関関係」を区別した、『イェーナ四・五年草稿』の「論理学」にもみられる。
実在哲学との関連
相関関係の矛盾は比例を例にとると、比の項の自立性と比の値との矛盾となる。だが、ヘーゲルの相関関係、さらに相互関係の論理がより重要なのは、意識論や相互承認論においてである(論理学の対立概念は闘争と承認の関係として考察されることがある)。たとえば、意識主体と対象とでは、意識が対象を包み込み、認識するという点でそこに同一性があるが、この両者の対立は依然として必要とされる。また、人間(関係項)相互が互いに承認し合い、社会関係をつくるさい、相互の真の自立性が相互関係のなかではじめて獲得されるという意味で、そこに関係項(諸個人)と関係(相互承認関係)のあいだに矛盾がみられる(→主-奴、主体-客体)。相関関係のいっそうの論究は、ヘーゲル論理学と市民社会論の関連の考察を射程に含んでいる(ヘーゲルは市民社会を相関関係の論理で捉えている)。そこでは、社会関係自体が自立化し、物象化(物化)するというマルクスの把握ともつながる。
(竹内章郎)