『資本論』生誕150周年 ヘーゲルからマルクスへ (1)
<コラム18-1> 宇野蒸留法批判について 2018.04.06
~ ベーム・バーヴェルクと日本のマルクス経済学者たち ~
→ 特集 『資本論』価値分析に対する“蒸留法”批判について
資本論ワールド編集部 まえがき
ベーム・バヴェルクによる「マルクス批判」 (ベーム・バヴェルク著『マルクス体系の終結』 1896年
翻訳 ㈱未来社 1969年初版第1刷発行、1992年複刊第1刷発行) 以来、マルクスの方法論が“蒸留法”であるとして批判の対象となっています。日本でこれを取り上げて系統的に批判・解説した学者が宇野弘蔵でした。宇野の論点は、「労働生産物からその使用価値を捨象して、抽象的人間労働を価値の実体として把握する方法」が蒸留法であると批判しています。この論点を探ってみましょう。→(*注)によって、編集部の注意書きをしてあります。
宇野弘蔵の後継者である鈴木鴻一郎による“マルクス蒸留法”批判の解説があります。この鈴木による、改変版『資本論』の翻訳が中央公論社から1973年に公刊されています。なぜ、『資本論』は改変されなければならないのか、― 宇野学の貴重な歴史的遺産として半世紀を経た現在にいたるまで圧倒的な影響力を保持し続けています。実に分かりやすい文献となっていますので、こちらを参照→「『資本論』とはどういう書物か」
なお、宇野弘藏(1897-1977)、向坂逸郎(1897-1985)より10年年長で、アダム・スミス『諸国民の富』の翻訳者である大内兵衛(1888-1980)によれば、「商品の交換過程における使用価値の捨象(度外視すること)」に関して以下の指摘があります。少し長くなるが、大変貴重な論点となっています。
大内兵衛 『経済学』 1951年
「 【2】 商品における 使用価値 と 価値
米は白いデン粉であり、洋服は羊毛でこしらえた布地でできている。米は人間が食うものであり、洋服は着るものである。そして、この両者が商品となったとき、米は1石25円であり、洋服は1着50円である。そこで、商品は、一見したところ、使用価値(value
in use)と交換価値(value in exchange)とを同時にもっているものと思われる。果たしてそうだろうか。これは大いに論争のあるところであるが、私は、商品をして商品たらしめるもの、すなわち、交換される財貨たらしめるものは、財貨のもつところのいろいろな使用価値ではなく、その財貨の生産に費やされた労働であると思うものである。労働を費やしたことが価値の原因であって、その価値が、財貨の交換において交換価値となって現われるのだと思う。右において、25円、50円または2石イクオール1着、1着イクオール2石
〔 米2石=洋服1着 、洋服1着=米2石 〕 というのは、いずれもこの価値の現われである。この主張を、次にもう少しくわしく説こう。
いま2石の米が1着の洋服と交換されるとしよう。これによって米の所有者は洋服の所有者となり、洋服の所有者は米の所有者となる。そしてそれにより、双方ともに各々の欲望を満足しうる。洋服を出したものは米が食える。米を出したものは洋服が着られる。これらすべては財貨の使用消費に関する事実である。使用または消費の際におこる財貨の価値評価がこの内にあることは明らかである。けれどもそれらの価値または評価は交換のうちには存しない。というのは、米および洋服のもとの所有者(生産者にして売手)は、それらを交換に出す前にそれらについての使用を断念している。また、米および洋服の新しい所有者(消費者にして買手)がそれらの物を使用するのは、交換がすんでからのことだ。だから交換において成立する洋服1着イクオール米2石、米2石イクオール洋服1着、米2石50円、洋服1着50円という事実は、右のような当事者の使用価値とは関係なくでき上るものでなくてはならぬ。
さて、洋服も米もその生産に一定の費用( cost )がかかった。その費用は結局は人間の労働である。洋服屋も農夫もその所有の財貨を他人に与える場合、このことを考えないわけにはいかない。双方ともその交換する財貨についての自分の労働のことをも考え、相手の労働のことをも考える。そして双方ともそれを交換した方が自分の欲しいものを自分で生産するよりもよいと思うときにのみ交換が成立する。して見みれば交換において評価される価値、交換される財貨の実態は、その財貨の生産に投じられたところの労働であるといってよい。前にあげた50円、米2石、洋服1着というようないろいろの表現は、いずれも、交換される財貨のもつ価値をそれと交換されるもので現わしたものである。それらは、そういう財貨の価値の交換の場における名前である。その名前は、それらがもっている労働の量を、交換する相手の財貨で現わしたものである。
以上の説明をもう一度要約しよう。
「商品は財貨としては使用価値をもち、また財貨としては価値をもっているが、交換において、商品の交換価値としてわれわれの見ているもの、洋服1着は米2石、また両者ともに50円という事実は、あくまでもその価値、それの生産に必要であった労働のであって、その使用価値の面ではない。すべての使用価値は交換が行われる原因にはなるが、交換はそれ〔使用価値〕の交換ではない。従って商品の売買というのも、使用価値と貨幣との交換ではない、価値物と貨幣との交換である。〔 発達した商品経済・商品流通では、W―G―W (商品-貨幣-商品) で表示される 〕 」
なお、アダム・スミス『諸国民の富』にも、「 価値の二つの意味、「使用価値」と「交換価値」 」についての解説があります。このアダム・スミスの「価値」の定義が 『資本論』第1章 第1節で準用されていますので、じっくりと検討をお願いします。
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宇野弘蔵編 『資本論研究 』 Ⅰ
Ⅰ 商品・貨幣・資本 筑摩書房 1967年発行
第1扁 商品と貨幣 第1章商品
第1節 商品の二つの要因―使用価値と価値(価値実体、価値量)
〔対象〕
マルクスはまずこの節の冒頭で、経済学が「商品」の分析から始められねばならぬ理由をのべ、商品を使用価値、交換価値の順序で考察する。そしてある使用価値と他の使用価値との交換比率としてあらわれる交換価値を、第三のものに、さらに抽象的人間労働に還元し、価値の大きさは、社会的に必要な労働時間の量によって決定されることを明らかにする。
〔要約〕
経済学の研究は商品の分析から始まる。というのは資本主義社会における富は、一般的に商品としてあらわれ、ひとつひとつの商品は、その富の基本的な形態をなすからである。・・・
→① 〔編集部より: 宇野の誤りの原点となっています。方程式Gleichungを等式と誤訳・誤読の弊害がここに見事に現われています。第2部、第3部で詳細に解説します。〕
二つの商品、たとえば小麦と鉄との交換関係は、1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄、という等式 〔 Gleichungは方程式であり、誤訳と誤読。*注:価値方程式とは?〕 であらわすことができる。(3)
この等式は、同じ大きさの共通なものが二つの異なった物のうちに存在するということを意味する。
この第三のものは、小麦でも鉄でもなく、いずれも交換価値であるかぎり、これに還元されるものでなければならない。そしてこの共通のものは、商品の自然的属性ではなく、使用価値とは関係がない。商品の交換関係の特徴は、使用価値の捨象ということである。(*注):使用価値としては商品は相互に異質であるが、交換価値としては商品は互に同質で、ただ量的にのみ異なることになる。
→② 〔*注:商品として使用価値が異質で、交換価値として同質というが、では、この使用価値と交換価値の関係はどのように理解が可能なのか?このことが問われなければならない。
すなわち、「使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容 stofflichen Inhalt des Reichtumsをなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に-交換価値の素材的な担い手stofflichen Träger des - Tauschwertsをなしている。(『資本論』第1章第1節(岩波文庫p.69))〕
(3) ここでマルクスは、二つの商品の交換関係を等式であらわしている。しかしのちに商品の価値形態を説明するさいにも、価値表現関係を同じ等式であらわすために、両者の区別がはっきりしなくなり、さまざまな問題をうみだすことになる。より立ち入っていえば、商品であるかぎり、小麦と鉄とが直接交換されるということはありえないのであり、商品は貨幣で購買さえる以外にその所有者をかえることはできない。(*注):価値形態論はこの点を論証するのである。ところが価値形態論の展開以前にここで直接商品相互の交換を想定し、またそれによって使用価値の捨象、価値の実体の把握をおこなおうとするため、価値形態の発展をとおして商品の使用価値が捨象されていく具体的機構の理解が、かえってさまたげられることになる。この点については、さらに〔問題点〕と〔ゼミナール〕において検討する。
→③ 〔*注: マルクスは価値形態論として、『資本論』第2版では「第3節 価値形態または交換価値」を独立・区分して、ー 『資本論』第1版の第1章は第1節~第4節に区分していない
ー 論理的展開を第1節から断絶させているのです。また、こうして「第2版・第1節」が古典派経済学の伝統的思考方法であることが読者にも理解可能となるように、ロック・バーボン対話を基軸にしながら「価値形態論の展開以前にここで直接商品相互の交換を想定し、またそれによって使用価値の捨象、価値の実体の把握をおこなおうとする」古典派経済学に準じた論理展開を行っているのです。
さらに、宇野がマルクスを批判する論点-「(3) ここでマルクスは、二つの商品の交換関係を等式であらわしている。しかしのちに商品の価値形態を説明するさいにも、価値表現関係を同じ等式であらわすために、両者の区別がはっきりしなくなり、さまざまな問題をうみだすことになる。より立ち入っていえば、商品であるかぎり、小麦と鉄とが直接交換されるということはありえないのであり、商品は貨幣で購買さえる以外にその所有者をかえることはできない。」 について、『資本論』第2章交換過程において、「商品の価値形態を説明するさいにも、価値表現関係」の明確化を行なっているのです。すなわち「第1章第1節と第3節」を第2章交換過程-リンク参照-のもとに論理的に統合させているのです。
「 直接的な生産物交換は、一方において単純なる価値表現の形態をもち、他方においてまだこれをもたない。かの形態はA商品x量=B商品y量であった。直接的な生産物交換の形態は、A使用対象x量=B使用対象y量である。AおよびBという物は、交換前には、このばあいまだ商品でなくして、交換によってはじめて商品となる。ある使用対象が可能性の上から交換価値となる最初の様式は、使用対象が非使用価値として、すなわち、その所有者の直接的欲望を超える使用価値のある量として、存在するということである。」(『資本論』第2章交換過程(岩波文庫p.157))
なお、資本論ワールド編集部では、『資本論』第2章交換過程の参考資料を「貨幣性商品の考古学」として作成しています。-2021.05.26 補筆・追加〕
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そこで商品の使用価値を無視すれば、商品に残るのは、ただ労働生産物という性質だけである。だがこの労働生産物についても、その使用価値を捨象すれば、その労働は、指物労働、建築労働、紡績労働などの具体的な有用的性格もなくなり、ただ抽象的な人間的労働に還元されてしまう。こうして労働生産物に残っている「無差別な人間的労働の、すなわちその支出の形態にかかわらない人間的労働力の支出の、ただの凝固物」という「それらに共通な社会的実体の結晶」が商品の価値なのである。(4)
(4) マルクスはここで、価値の考察についての二つの異なった方法を示している。すなわちその一つは、商品の交換関係では、商品の交換価値はその使用価値とはまったく独立してあらわれるから、労働生産物からその使用価値を捨象して、抽象的人間労働を価値の実体として把握する方法であって、これがこの節で主題としてとられている方法である。もう一つは、価値が必然的に交換価値として「表現」される、あるいは「現象」する過程を、価値形態としてあきらかにする方法であって、この節でも最初はそれによって入りながら、第一の方法に転じ、本格的には、第3節「価値形態または交換価値」で採用することになっている。このように(*注)価値の実体の究明と、価値の形態の考察とを分離し、しかもまず価値の形態と区別してその実体を「独立」に分析するかれの方法は、のちにふれるように、価値論の展開に根本的な論点をなすことになるのである。
→④ 〔(*注): 「実体」と「形態」の論理展開に関して、宇野はヘーゲル論理学・エンチュクロペディの読み違えをしていることが証明されます。「実体」は多様な姿をもって現象している、すなわち形態(形式)をもつのです。→ 『小論理学』第2部本質論C現実性 a 実体性の相関 参照 〕
第2部 問題点
④ 労働価値説の論証
二つの商品の交換関係を前提としつつ、両者に共通の第三者をみちびきだし、これを抽象的人間労働であるとして、かかる社会的実体こそが交換価値として現象するところの価値にほかならないとするマルクスの論証は、「蒸溜法」なる呼称のもとにベーム・バヴェルク以来批判の対象とされてきた。
ベームはこの論証の欠陥としてつぎの諸点をあげる。
(前掲、『マルクス学説体系の終焉』中の「4、マルクス学説体系における誤謬」参照)
1. 2つの商品の共通物をさがすのに、はじめからこの商品を労働生産物にかぎり、それ以外のもの、たとえば土地などは除外されている。
2. マルクスは商品の交換関係を特徴づけるものは使用価値の捨象であるというが、このばあい使用価値がとる特殊な形態は捨象されても、使用価値一般は捨象されない。使用価値が存在しないところに交換価値が存在するはずがないのである。
3. さらに使用価値を捨象したばあいに労働生産物という属性だけが残るというが、需要にくらべて稀少であるとか、欲求と供給の対象であるとか、占有せられるとか、自然生産物とかいう属性も残りはしないか。
結論としてベームは、マルクスが使用価値を捨象して労働をとりだしたのと同じ方法で労働を捨象し、価値をもって「使用価値の凝結物」であるとすることもできるというのである。
これにたいしヒルファディングはつぎのような反批判を展開した。
(前掲、「ベーム・バヴェルクのマルクス批判」の中の「1 経済学的範躊としての価値」参照)
1. 使用価値はその具体的有用性においてこそ使用価値であり、具体性における使用価値を捨象することは、使用価値一般を捨象することと同じである。
2. 経済学は社会科学であり歴史科学である。したがってその対象となる商品も、人間と人間との社会的関連の表現たるかぎりで問題となるのであり、その自然的側面すなわち使用価値は、経済学の考察範囲外にある。
3. 人間社会の発展が労働の質と量、すなわち組織と生産力とによって終局的に支配されているとするのが経済学の基本概念であり、これは唯物史観の基本概念と一致する。価値の原理とは社会秩序の変化の終局的決定原理であり、そのようなものとして労働をとりあげるのである。つまり、あらゆる社会の物質的基礎は社会的労働の組織によって規定され、商品生産社会では、これが、商品をつくる労働が商品の交換関係のうちに交換価値としてあらわれる、という特殊の様式において貫徹している。価値を労働として把握するという操作は、以上のような意味での歴史科学としての経済学の基本的方法によるものである。
このようなベームとヒルファディングにおける労働価値説についての批判と反批判とは、そのままわが国に輸入され、小泉信三(前掲論文)と櫛田民蔵(前掲論文)の対立としてあらわれ、その後の価値論論争の原型を形成することになる。
・・・(中略)・・・
戦後、宇野弘蔵によって提起された一連の価値論についての再検討の主張は、唯物史観と経済学についてのこのような通説的理解の否定のうえに成立しており、価値法則の純粋なる展開をいわゆる単純商品社会においてでなく、資本主義社会において把握するという宇野の見解は、その必然的帰結であった。
ほぼ戦前の価値論理解を集約継承しつつ「経済学が史的唯物論のうちに包摂され、また同時に史的唯物論が経済学のうちに包摂される」(「価値論と史的唯物論」、『経済思潮』第11集所収、19頁)と主張する遊部久蔵にたいして、宇野はつぎのようにいう。
「唯物史観は、社会の経済的過程がそれ白身に発展する物質的過程であることを明らかにしたが、これを科学的に論証するのは経済学の任務であったものと、私は理解している。それは遊部氏のいわれるように、<結局価値の根底をここに見出すのであって、されば二つのもの(経済学と唯物史観-
宇野)は共通地盤に立つ>といえるのであるが、しかし少くともその対象範囲には非常な差異があり、また経済学は唯物史観によってその論拠を与えられるというものではない。唯物史観をとると否とに関わらず何人にも承認せざるを得ない論証を与えるものでなければ科学的論証とはいえないであろう。……経済学が唯物史観によってその論証をされるようでは、経済学も唯物史観も共にその客観性を主張し得るものとはいえないであろう。」(『価値論の研究』、144~145頁)
唯物史観を直接の前提としてではなく、たんに「二つの商品」の交換関係からのみ労働価値説を論証しようとすると、さらにつぎのような問題が考慮されねばならない。もし「1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄」という関係が単純商品生産者同士の交換関係を意味するとすれば、そのような単純商品生産者の社会が一定の生産様式として完全にひとつの社会的生産を支配する自立的生産関係たりうることは、歴史的にありえないということである。
たしかに封建社会から資本主義社会への過渡期には、部分的にはこのような単純商品生産者がかなり重要な存在をなしていたであろうが、それらはつねに支配的生産様式を補足する付随的関係としてしか存在しえなかった。この点は、問屋制家内工業に対するマニュファクチュアでさえ、その技術的基礎の狭隘さのゆえに支配的生産様式たりえず、産業革命による資本家的生産様式の確立とともに、はじめて商品経済による社会的生産の支配が完成したことを考えれば自明であろう。
したがってここで単純商品生産者による社会的生産の完全なる支配を想定することは、歴史的には存在しない観念的な仮構の生産様式をつくりだすことになろう。もちろん部分的な単純商品生産者相互の交換では、その生産過程において「社会的に必要な平均的な労働時間」を支出するものとしての「一個同一の人間労働力」として、それらの「無数の個人的労働力」を把握することは不可能である。機械制大工業をとおして人間の技能が奪いさられ、あらゆる労働力が単純なる労働力として機能する現実的基盤が与えられないかぎリ、労働価値説を論証すべき現実的根拠を欠くのである。
さらにまた「一クォーターの小麦=aツェントネルの鉄」という関係は、交換関係としては、発展した商品経済したがって資本家的生産様式にあっては現実に存在しえない。このばあい交換関係としては商品と貨幣の交換関係としては商品と貨幣の交換―正確には貨幣による商品の購買―以外にはない。
もしまた「1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄」という関係を直接交換関係としてではなく、価値表現の形態の抽象的なあり方として理解するとすれば、いわゆる使用価値の捨象についての理解も異なってこなければならない。
つまりこのばあい使用価値の捨象というのは、両者の使用価値が問題とならないというのではなく、1クォーターの小麦の価値がaツェントネルの鉄の使用価値によって表現されるという意味である。
いずれにしても
かかる関係において、「二つの商品」の使用価値から完全に分離した第三者を導きだすことは不可能であり、ましてそれを直接「抽象的人間労働」と結びつけることはできない。そしてこのような商品の価値関係における特有の使用価値捨象の機構こそ、マルクスがその価値形態論において強調してやまない点であったし、そこにまたかれの価値論が古典派のそれを克服した意味があった。以上の諸点を明確にしつつ、マルクスの価値論を整理しなおし、「形態規定の発展を媒介にして〈価値の実体〉を〈価値の本質〉において把握しようと試み」(『価値論』、232頁)たのが.宇野の『価値論』であった。
・・・以上、宇野弘蔵編『資本論研究』1商品・貨幣・資本 抄録終わり・・・・
→以上を簡略すると、宇野の論点は、次の点に集約されます。
(1) 第1節の「一クォーターの小麦=aツェントネルの鉄」という関係は、交換関係としては、発展した商品経済したがって資本家的生産様式にあっては現実に存在しえない。
(2) 「二つの商品」の使用価値から完全に分離した第三者を導きだすことは不可能であり、ましてそれを直接「抽象的人間労働」と結びつけることはできない。
(3) 商品の価値関係における特有の使用価値捨象の機構こそ、マルクスがその価値形態論において強調してやまない点であった。
宇野が論点として指摘するように、「(3)商品の価値関係における特有の使用価値捨象の機構」こそ解明されるべき課題です。第1節で、マルクスは次のように「商品の価値関係」を語っています。
「さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう。その交換関係がどうであれ、この関係はつねに一つの方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦=a
ツェントネル鉄 というふうに。この方程式は何を物語るか? 二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様に a ツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。」
私たちは、『資本論』の方法論が集約的に表現されている道標に立っています。
『資本論』生誕150周年 ヘーゲルからマルクスへ 2018資本論入門5月号 において、ヘーゲルと相談しながら探究してゆきます。後日集合地点をご案内いたしますので、お待ちください。・・・・