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 資本論用語事典2021 
  西洋科学のはじまり
  自然科学的思考の最初の“めざめ・萌芽”
 
 西洋と科学史   西洋科学史の源流
    ー ギリシャ人における科学の発展
 ギリシャの哲学者たち


  新訳 
ダンネマン 大自然科学史 (1) 
     安田篤太郎訳・編 三省堂 1977年 第1刷発行
 目次
 序 言
 訳 序
 フリードリッヒ・ダンネマンについて
 Ⅰ アジアとエジプトから科学がおこる
 Ⅱ ギリシャ人における科学の発展 -アリストテレス以前
 Ⅲ アリストテレスの時代
    ………………
  ダンネマン 序言
  安田徳太郎 訳序

    〔 
西洋科学史の源流

Ⅱ ギリシャ人における科学の発展 -アリストテレス以前-
  〔 1. フェニキアアルファベット文字からギリシャへ 〕

 西南アジアと下エジプトにおこった科学の土台の多くは、他の文化要素といっしょにフェニキア人によって摂取され、古代世界のもっとも重要な商業民族としての彼らの手によって、地中海沿岸の他民族に伝えられた。この東方からもたらされた文化の芽ばえは、ずっとのちに、ナイルとエウフラテスの流域に発生した文化と、直接にも接触するようになったギリシア人によって、非常にゆたかな土地に根をおろすことになった。この芽ばえは摂取されたというだけにとどまらず、じつに驚くべき新しい創造のための土台に利用された。さらにフェニキア人は科学活動のその後の発展にたいして、非常に重要な手段となったアルファベット文字を広めた。このアルファベット文字は音節や一語全体を示す象形文字(ヒエログリフィック)から発達したものである。このアルファベット文字が伝播され、はじめて人びとははっきりと意識して、具象物から抽象概念を引き出し、それによって体系的に組織化された科学の完成に向かって進むことができた。
 東洋の文化要素の伝播においては、クレタ島や西南アジアの民族も重要な役割を演じた。西南アジアの民族にたいしては、バビロニア人が何千年にわたって深い影響を与え、この影響は宗教の方面ではとくに強くユダヤ教におよび、したがって、ひいてはキリスト教の発達のうえにもおよんだ。
 フェニキア文字の新しい点は、各子音と各母音にたいして、それぞれの記号があるということであった。このフェニキア文字で書かれたいちばん古い記録で、現在知られているのは、紀元前950年頃のものである。
 ギリシア人が神話伝説の闇のなかから、歴史の光のなかへ足を踏み入れるや否や、現象の世界を観察によって、自分のなかに取り入れるばかりでなく、それを因果関係において、理解しようとする努力が、彼らのあいだにあらわれた。この努力は一方では彼らが最初の数学的認識を、自然事象へ応用することによっておこなわれたが、他方ではまたいっさいの限度をはるかに乗り越えて、直ちに現象の究極的原因を把握しようと、試みることによっておこなわれた。もっと正しく言えば、この自然科学的思考の最初のめざめは、ギリシア本土においてでなく、イオニア植民地(※小アジアの地中海沿岸地方)においておこなわれた。このイオニア植民地はアジア世界とギリシアの処女地を結ぶかけ橋の位置をしめ、また哲学と自然科学のはじまる2、3世紀前から、すでに詩文学の分野で全盛をきわめていた。


  
〔2〕 ギリシャ自然哲学のはじまり

 哲学と自然科学の二つの方面で働いた最初のギリシア人は、ミレトスのタレスである。彼の書いた書物は現在に伝わっていない。おそらく彼は自分の学説を口述だけで伝えたのであろう。それにもかかわらず、その学説は、その発見およびその生涯とともに、古代の著述家の記事によって十分に知れわたり、このために私たちはタレスの姿をほぼ描くことができるのである。
 タレスは紀元前624年頃に生まれた。したがって彼はソロンがアテナイ国家の基礎を築いた時代に活動したことになる。タレスがエジプトにいって、当時いっさいの数学的、天文学的知識の育ての親であったエジプトの神官階級とまじわったことについては、すべての記事が一致している。「エジプトにいったタレスはまず幾何学をヘラス(※ギリシア)に伝えた。彼は自分でもたくさんの発見をしたが、それ以上にたくさんの発見のいとぐちを、その弟子たちに残した」と言われている。別の箇所では彼についてこう言われている。「彼は天を観測し、星を調査し、公然とミレトスの全市民に向かって、真昼に夜がきて、太陽はかくれ、月は太陽をさえぎるであろうと予言した。」
 食について、私たちの見いだすいちばん古い考え方は、太陽や月が、あるわからない力によって暴力を加えられるのだ、というようなものであった。はたしてバビロニア人がすでに食の現象にたいしてほんとうの理解をもっていたかどうかは疑わしい。食の自然的原因を認識したのは、おそらくギリシア人が最初であろう。この進歩を天文学に与えたのは、アナクサゴラスだという人もあり、ピュタゴラス学派だという人もある。
 タレスの予測は今日おこなわれているようなものでない。つまり、それは測定や計算によっておこなわれたのでなく、食が規則正しく帰ってくる周期の観測に、もっぱら基づいていた。この周期をバビロニア人は見のがさなかった。彼らのもとには何世紀にもまたがる記録が保存されていて、この記録によって彼らは食が6585日の周期で、規則正しく帰ってくることを知った。すなわち、バビロニア人がサロスと名づけたこの223ヵ月にまたがる周期をもって、月は地球と太陽に対してほぼ正確に同じ位置へ帰ってくる。もちろんこのサロスがとくに日食の予言のためには、かならずしも正確でないことも経験された。
 5つの惑星の呼び方に関しても、非常に早くからバビロニアの影響(84ページを見よ)があらわれている。というのは、古いギリシアの名称は特性を示すものであったのに(火星は燃えるもの、木星は光るものなどというようによんだ)、紀元前4世紀からつぎの名前が用いられるようになった
  ヘルメスの星    (水 星) 
  アフロディテの星 (金 星)
  アレスの星     (火 星)
  ゼウスの星     (木 星)
  クロノスの星    (土 星)
 ヘルメス、アフロディテなどという短いよび方は、のちになってはじめてあらわれたもので、この点、ギリシア人は同じようにじぶんたちの主な神々に惑星を奉納したバビロニア人の先例にならったものと思われる。最近の推定によると、ピュタゴラス学派もすでにバビロニアの学問の初歩に、多少通じていたらしい。
 なお、タレスの時代のギリシア人の天文学的観念が、まだどんなに幼稚であったかは、彼の学説といわれるものでも、大地は一つの円盤であり、この周囲をめぐってオケアノスが流れ、その円盤の上に天が水晶の鐘のように円盤をつくっているということから、明らかである。こういう事情のもとでは、天体の回転運動などはまだ問題にもならなかった。この学説と矛盾しないために、タレスの時代の人びとは、星がおりていくときは大洋に沈み、その大洋のなかを円盤の縁にそって、のぼるときの地点にまで、泳ぎ帰るというように考えた。
 さらに数学について書いたギリシア人たちは、2、3の重要な幾何学の定理、たとえば二等辺三角形の底辺の角は等しいという定理、また三角形は一辺とその隣接角によってきまるという定理を、夕レスの発見にしている。このあとのほうの定理を用いて、タレスは海岸から船までの距離を計算したといわれている。
 しかし、
タレスの幾何学の知識は、そのうちどれだけが彼の独創で、どれだけがエジプト人からの借用であるかは、きめることはできない。数学の有名な応用は、彼の陰影測定である。これは高くそびえた対象の高さを測量する一つの方法で、タレスはそれによって当時の人びとを感心させたと言われている。この方法の要点は、一本の棒を立てて、棒の影と棒の高さとが等しくなる時刻を求め、ちょうどその時刻に目的の対象、たとえばピラミッドの影をはかれば、その影の長さによって、その対象の高さもすぐ計算できるというところにあった。
 グノーモン(影の長さによって正午をきめる道具)をギリシア人に伝えたのは、タレスのいちばん大事な弟子である、ミレトスのアナクシマンドロスだといわれている。ストラボンによると、アナクシマンドロス(紀元前610—546年)は、最初の世界地図をもつくった。もちろんそれは当時の地理的知識のおよぶ範囲での世界である。
 彼の同郷人で足跡の広い旅行家であったヘカタイオス(紀元前550年頃に生まれる)は、この新しい地理学を大いに発展させて、世人の驚嘆をよんだと言われている。ヘカタイオスは世界地図をつけた地理学書をあらわした。彼は最古のギリシア地理学者で、ヘロドトスの先駆者とみられている。当時の地図はもう今日には伝わってぃない。それは多分中世初期の車輪地図のようなもの、つまり何ら科学的価値のない、大体の方位を示すだけのものであったらしく、そのため、のちにヘロドトスの冷笑を買うことになった。
 自然科学に関する研究では、タレスがイオニア人のあいだに先鞭をつけたことは、すべての記事が一致しているが―アリストテレスも彼を哲学的自然研究の「創始者」とよんでいる―いまやそれは全現象界をある原因から説明しようとする試みをもよびおこした。それ以来最終の原因からくだした説明が、哲学の目的になったが、事物の本性から言っても、当時そのような遠大な問題が、こういう説明によってみごとに解決されるわけはなかった。ギリシア哲学の起源の問題について一言すると、有名なギリシア哲学史家ツェラーは、ギリシア哲学は独立に成立したもので、東洋に由来するものでないとの意見を取っている。ツェラーは、「ここに科学を自らの手でつくることのできる民族があったとすれば、それはギリシア人をおいてほかになかった」と、言っている。

  〔
タレスの始原物質-水
 彼らの世界観にたいする最初の表現は、詩人たちにおいて見られる。紀元前8世紀に生存したヘシオドスはとくに有名であり、その叙事詩『仕事と日々』のなかで、世界生成の問題を提出した。ヘシオドスにとっては、世界生成論は諸神論にほかならなかった。その当時は、世界開闢論と諸神系譜論が、まだ神話の衣のなかで一つに溶けあっていた。ついでタレスと彼の直接の後継者は、まだ物質の概念以上に出ることができないために、いっさいの事物はただ一つの始原物質から発生することができるという仮説で満足した。タレスはこういう始原物質にあたるものは、水以外にないと考えた。なぜなら、水はその性質から判断すると、土と空気の中間にあるように見えたからである。この説はある観察によって、支えられていた。たとえばタレスの多くの意見が生まれたというエジプトは、たしかにナイル河の産物とみられていた。さらに植物は水気の多い土から発生したではなかったか。後世になって、いっそう精密な観察がおこなわれるようになってからも、右の説はたえず信奉者をもっていた。十七世紀のすぐれた科学者ファン・ヘルモントもまだこの説にとらわれていた。近代の入り口に立つラヴォアジエとシェーレの二人がはじめて、これまでいつでも不十分な観察に立っていた、水が土に転化するという信念を、異論のない実験によって、とうとう打破することができた。
 世界を人間との関連にかいて説明しようとする試みは、タレスの時代以来一流の思想家のたえず取り上げたところであった。ここではその哲学的思考の成果が、自然科学のその後の発展に影響をおよぼした範囲内でのみ、こういう試みは興味がある。自然科学はその後まもなく現象間の法則的関係を発見するという、もっと謙虚であるが、だれでも手出しのできる目的に専心することになった。人びとがこの目的をはっきり見定めるにしたがって、たとえば錬金術や占星術にあらわれたようなよけいな空想分子は取りのぞかれ、人びとはしだいに今日の形の科学に近づくようになった。
 
イオニア自然哲学とともに「一つの新しい要素が人間の精神生活に入った」 ここにはじめてたゆまぬ精神活動によって、各自の成果に達するという、自己自身の信念をもった科学上の個性があらわれた。ほんとうの科学のその後の発展にとって、こういう個性の出現は欠くことのできない前提であった。
 純粋な哲学的考察方法は、精密研究にくらべて、固有な欠点があるにもかかわらず、経験科学をたえず剌激した点では、無視することのできない功績をもっている。ギリシア的古代が発展させた多くの哲学観はずっと近世の自然科学にまで影響を与えた。たとえば、物質の多様性をただ一つの始原物質に還元するという試みは、今日までつづいている。はじめはイオニア哲学者によって、空気あるいは水のような周知の物質の一つが、そういう始原物質であるときめられた。その後アリストテレスは空気、水、土、火を、同一の根元の、異なった現象形態と理解した。その結果この周知の物質をたがいに転化させることが、可能であると考えられるようになった。中世において、卑金属を貴金属に変える努力が、とくにアリストテレス哲学によって支えられていたのもそのためであった。(※本巻376注[1]および378ページ訳註(※五)を見よ。)

   〔
元素説の源

 元素説の源をたどれば、アクラガス(アグリゲンツム)のエンペドクレス(紀元前440年頃)に達する。彼は元素を永久的、白立的であり、たがいに転化させることはできないとした。この元素は、二種の起動力、すなわち、親和(※愛)およびヘラクレイトスが万物の父とよんだ戦い(※憎)の二つによって混合されて、事物につくりあげられる。分解というのは、目に見えないが、一つの物質の小分子が他の物質の小分子から、分離することによっておこなわれるとした。エンペドクレスは、感覚もやはりこういう方法で生ずるとした。
 エンペドクレスはとくに自然物についても、多くの正しいあるいは注目すべき意見をたてることができた。たとえば、彼はピュタゴラス派が中心火をおいて、地がその周囲を回転するとしたのを排し、地の中心を火のような流体と仮定して、温泉や火山はその熱をこれから受け取るとといた。さらに地中の火が山岳を押し上げたとといた。シチリア島で発見された大きな骨から、エンペドクレスは先史時代に巨人族がいたと推論した。彼はじぶんの見解を『自然について』という詩で述べたが、残念なことに、今日では、わずかな断片しか残ってない。しかし、このわずかな断片から、エンペドクレスが植物の本性についても考えたことがわかる。彼は植物に霊魂があるととなえた。霊魂のあるしるしとして、彼は今日では機械的に説明される現象、たとえばふるえること、日光のほうへ枝をのばすこと、また大枝を曲げると弾きかえすことをあげた。植物には両性がそなわっているという説も、エソペドクレスにはじまっているし、後世に何度もくりかえされた、世界の周期的変革に関する説さえ、すでにこの哲学者に見いだされる。したがって、私たちは現存する古代ギリシア哲学の断片から、近世地質学のもっとも重要な仮説の一つ、つまり、私たちの地球は何度かの変転をへたものであり、その度ごとに、動物や植物は滅んで、別の新しい種がかわりにあらわれたという学説も、すでに古代に予想として、存在していたことが推定できる。「こういう説の根拠となった事実は、おそらくたくさんはなかったであろうが、それだけに、正しいところを早くに見ぬいた眼光は、じつに鋭かったといえる。」
   ■機械論の原理による自然説明のはじめての試み 
  ・・・以下、省略・・・
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