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   ムギとヒツジ
   貨幣性商品の考古学

  
      古代メソポタミア文明 (第2回)
 



20160611 第1回参照・引用文献        
西アジアの考古学』 『ムギとヒツジの考古学』 同成社
『シュメール・人類最古の文明』『文明の誕生』 中公新書
古代オリエント商人の世界』 山川出版

上記の著書から引用・参照し、引用本文を一部変更・挿入を行っています

商品生産の考古学(1)
先史時代と心の進化』と物神性



  
商品生産の考古学と古代貨幣商品の源流 
        
   ― 『資本論』 
価値形態論の考古学研究



 
*8月29日追記: 編集委員会では、「商品の物神性」解読のために、資本論入門7月号(その2)において「貨幣形成」にすすむ社会的生産関係を説明してきました。この検討を通じて、新しい課題が鮮明となってきました。それは、まさにここで議論されている「商品生産の考古学と古代貨幣商品の源流」です。
  『資本論』では、第2章交換過程で一定の総括がなされていますが、カール・マルクスの時代-19世紀は、西洋考古学が端緒として開始された段階でした。考古学は、20世紀初頭から急速に発展し、今日の基盤が形成されました。『資本論』と同時に「価値形態論の考古学」が研究されてゆくことが期待されます。



◆目次
 1.  商品生産の考古学
 2.  ムギとヒツジの商品化と貨幣性機能商品の出現
 3.  古代貨幣商品の源流


 

  第1部 商品生産の考古学

  第1章 西アジアの多様な自然環境~ユーフラテス河とティグリス河
  第2章 農耕と牧畜の始まり
  第3章 商品生産の考古学、都市文明とは何か


  第1章 西アジアの多様な自然環境
        ~ユーフラテス河とティグリス河


 西アジアは、大きく3つに区分される。
 
A地区 トルコのアナトリアからザグロスまでの北方山系
 
B地区 地中海沿岸から紅海に沿って南北にいたる地溝帯周辺台地
 
C地区 メソポタミア低地の内陸台地と平原・ユーフラテス河とティグリス河の両河地帯


 西アジアは、温暖な気候の地中海沿岸部から乾燥砂漠が広がる内陸部、さらに海抜5000mを超える高山地帯など多様な自然環境に囲まれている。自然の資源分布も多種多彩となり、旧石器時代から活発な資源の交易活動が展開された。

 
A地区は、北方山系ではトルコのポントス山脈からカスピ海南のアルボルズ山脈、アフガニスタンにいたる。これと並行してその南では、トルコ中央部のアナトリア高原とその南部のタウロス山脈、両河の上流北方地帯から東側のザグロス山脈へとつながり、最東部のイラン・カビール高原などの高原地帯が広がっている。
 この西アジア山岳地帯の自然は、西からの季節風によって、冬季には年間600mm以上の降水があり、ポントス山脈やタウロス、アルボルズ山脈などでは1500mmを超える。その大半は冬季の積雪によるものである。
年間の平均気温は20度から30度であって、高山地帯では20度以下になる。また、山岳地帯では自然資源が豊富にあり、建築材としての石灰岩、アナトリアの黒曜石のほか、銅、鉄、鉛そして金の産地も知られている。森林地帯ではマツ、ナラ、カシそしてスギなど各種の木材が早くから遠隔地交易に利用された。


 
B地区は、地中海沿岸から紅海に沿って南北にいたる地溝帯周辺台地、死海地溝帯は、イスラエルの死海、ヨルダン渓谷、レバノン・ベッカ高原からトルコにいたる地方で構成される。初期人類の出アフリカの東アフリカに共通する亜熱帯植物など冬季の最低気温が10度前後もある地溝帯の自然環境は、旧石器時代の原始農耕に適していた。レバノン山など3000m級の山脈地帯では年間1500mmの雨量に恵まれ、レバノン山脈の良質のスギ資源の開発は古代西アジアの交易の中心地であった。また死海地溝帯地域一帯では100万年から50万年前の石器群遺跡が点在し、多様な石器変化が観察されている。

 
C地区は、アナトリア山脈に水源をもつティグリス・ユーフラテス両河川が北西から南東にかけて流れている。この両河川にはさまれた地域をメソポタミアという。長さ1100km、幅300km、面積35万k㎡にわたる広大な地域である。メソポタミアは、現在のバグダード付近を境にして南北にわけられる。北部はかつてのアッシリアを中心に、天水農耕地帯となっている。南部は両河とも流れが弱まり、かつてのバビロニア地域である。西アジアの内陸部として全般に降雨量が少ないが、両河地帯を囲むように西方から北方、東方にかけて弓形の山脈地帯は「肥沃な三日月地帯」と言われ天水降雨に必要な年間400mm以上の降雨がある。
 メソポタミア低地では肥沃な泥()とナツメヤシと石油地帯の特産である天然アスファルトなどの数少ない資源を有している。
集落や都市化に必要な資材の大半は輸入に頼らざるをえない


 第2章 農耕と牧畜の始まり

 第1節 旧石器時代


1.
 人類はアフリカに誕生し、その後、各大陸へ移住・拡散した。西アジアの考古学資料から、西アジアに初めてヒトがやってきたのは、遅くとも150万年前のことである。それから約1万年前までの長い期間を「旧石器時代」と呼んでいる。

2. 旧石器時代区分

(1) 前期アシューリアン140万年前~、1960~1974年イスラエルのウベイディヤ遺跡の発掘で、アフリカ・トゥルカナ湖畔のオルドヴァイ遺跡に類似の最初期の石器群が発掘された。
(2) 中間アシューリアン80~60万年前、1964~1977年シリアのラタムネ遺跡でフリントや石灰岩礫の石器群の発掘。出土動物骨にウマ、ゾウの大型ほ乳類がある。
(3) 後期アシューリアン50~40万年前から始まる。道具の変化速度が増し石器のスタイルが明確化したことにより、細かい編年が可能となった。
(4) 晩期・末期アシューリアン25万年~15万年に区分される。遺跡の分布から資源開発の領域が拡大していることが分かる。石刃系石器群と槍先につける尖頭器が多く出土した。

3.  中部旧石器時代(中期旧石器時代)と上部旧石器時代(西アジア・欧州の区分。ほぼ後期旧石器時代)
 ・中部旧石器時代の遺跡では、イスラエルのタブン巨大洞窟で、3つの異なる石器群が発見された。ネアンデルタール人や原クロマニョン人の遺跡群として知られている。 ・上部旧石器時代の遺跡では、1930年代にユダヤ砂漠のエミレー洞窟で(エミレー)尖頭器が発見された。ザクロス地域では、オーリナシアン石器群が発掘された。



 第2節 新石器時代 ~商品生産のあけぼの~


1.
 定住へ ―― 続旧石器時代

 最終氷期の2万年前頃に最寒冷期を迎える。冷涼かつ乾燥した気候のもとで、幅1.2cm未満の石刃、細石刃で作られた細石器が用いられていた。前1800~12500年頃までのレヴァント地方の代表的な細石器インダストリーが、パレスチナのケバラ洞窟で出土している。 ところが、1991年に画期的な遺跡が発表された。死海の底から渇水のために発見された
イスラエルのオハロⅡ遺跡である。炭素測定法によれば前17000年前頃で、長らく水没していたために、有機物の遺存状態が非常によかった。野生のオオムギやコムギ、30種類以上の果実、動物ではカゼル、シカ、トリ、キツネそして大量の魚の骨と一緒に繊維質のロープ断片が発見され、網漁が行われていたことが推測された。 このように、多彩な発掘現場から次第に定住的な狩猟採集生活へ人類が定着してゆくことが伺えてきた。

2. 炭素年代法によれば、前11000年から8300年頃に、フリント石刃の石鎌の穀物収穫具や石皿、石鉢、石杵などの製粉具が発掘され、盛んに穀物生産が始まっていることが推察された。また、トルコ産の黒曜石が南レヴァント地方で発見され、材料の入手にあたっては広範囲の交易がおこなわれていたことが示唆される。こうして、定住性や資源の集約的利用、広範囲の交易など新石器文化の基礎となる諸要素が準備されていったものと考えれられる。

3. 氷河期末の温暖化とともに、長かった旧石器時代も終わりを告げる。
そして、1万年前頃、新石器時代が始まる。この頃、西アジアでは、定住村落という新しい集落システムと食料生産が、世界に先駆けて始まった。これらの生活様式は急速に進展して、西アジアの社会は本質的な変容を遂げる。
 
第一は、新石器化はヨルダン渓谷を中心としたレヴァント地方で最も早く始まった。
 
第二は、植物栽培もそこで開始され各地にひろがった。
 
第三は、先土器新石器時代文化が北シリアで生まれ、狩猟と放牧の牧畜社会が開始されてゆく。
 
第四は、画期的な土器の使用が始まった。
 天候に左右される植物栽培は家畜技術の確立に伴う牧畜によって補完され、次第に安定的な集落が形成されていった。また、家畜を連れた移動では、アナトリア産の黒曜石やザグロス方面の石刃加工技術の流通など放牧・遊牧社会も次第に形成された。



  第3章 農耕・牧畜社会の成立


 
西アジアでは、紀元前6000年頃までに、コムギ・オオムギの栽培とヤギ・ヒツジの牧畜に生業基盤をおく農耕と牧畜が成立した
コムギ、オオムギ、マメ類などの作物栽培とヒツジ、ヤギ、ウシ、ブタなどの家畜飼養を組み合わせた多様な混合社会が誕生した。時代は、それまでの採集狩猟の移動生活に基盤をおいた社会から大きく転換し、やがて都市社会の出現にいたってゆくことになる。

 第1節 土器の出現

1.
 土器の出現は、西アジアでは、8000年前頃に煮沸用ではなく、貯蔵用の土器として始まった。日本や東アジアでは、10000年ほど前に煮炊き用土器として発明されていた。西アジアでは、粗製土器から焼成の良好な彩文土器へと発展するにつれて、土器を専用に焼くための窯・カマが出現し、土器生産の専業化がかなり進んでいると思われる。また、同じ遺跡からは銅冶金技術と思われるものが発見されている。

2.  これら農耕・牧畜社会の成立は、決して安定的に定着したものではなく、むしろ不安定な食料生産に規定されたものとも考えられている。不安定な天水農耕による凶作年が何年も続く場合、その土地を捨てて移動した。彩文土器はその際に移動用貯蔵具として役立ち、また、土器製品自体が交易用として役立つ物産としても利用されていた。

3.  遊牧文化の成長

 気候の乾燥化が進んだ地域では、遊牧的適応が始まった。レヴァント地方の南部では、ヤギ・ヒツジの飼育が増大し、積極的に遊牧化した可能性が高くみられた。レヴァント地方内陸部のステップ地帯では、遊牧的適応がさらに進行し、ヒツジの放牧・飼育によって生計を成り立たせる遊牧民が各地に出現した。



第2節 南メソポタミア低地への移住

1.
 これまでは、北メソポタミア地方の植物栽培や牧畜の始まりを観察したが、南メソポタミアではずっと遅れて数千年経過した紀元前5500年頃から農耕が始まった。特徴的な土器が発見されたウルに近いテル・アル・ウバイドの地名からウバイド文化と呼ばれている。天水農耕の雨量はきわめて少ないため、人工的な灌漑を利用したコムギ、オオムギの栽培が開始されていた。また、ヤギやヒツジ、ウシ、ブタの動物も飼育していた。ナツメヤシなど在地産の食料の開発も行われたが、人口増加に伴う建築資材の不足などを補うため、さまざまな物資を南メソポタミア以外の地域から搬入し続けなければならなかった。

2. 
南メソポタミアの地域性と商品経済の形成

 
 ウバイド文化の発展からウルク期と呼ばれる次の時代に、世界最古の都市文明が起こってくる。西ア ジアの他地域の諸文化を圧倒して、ひとつのウルク的世界が形成された。この都市文明の出現こそが21世紀の現代文明にまで続く商品経済の大本が形成された時代であった。
 その第一に特徴は、南メソポタミアの自然環境にあった。ティグリス・ユーフラテスの2つの大河が形成する低地沖積平野は、バスラの北方で合流してアラビア湾(ペルシャ湾)に注いでいる。両河流域には山地や丘陵もなく、ひたすら平坦で広大な沖積地が広がっている。年間降雨量は100mm以下で、農耕はもとより日々の生活用水も河川に頼るしかない。灌漑水路の整備がいっさいの土台をまかなっている。

 
 人々はそうした厳しい条件の中で、河川とその周辺に生育する淡水魚やナツメヤシ、また氾濫平野でつくれるコムギやオオムギといった穀物類と、それを飼料とする家畜などに頼って生きてきた。この厳しい環境の中にあっても、この地域の特性は、穀物生産のずば抜けての生産性にあった。灌漑利用は、他地域の天水農耕に比べて単位面積当たりの収穫量が数倍から数十倍に達した。オオムギの収穫倍率は驚異的で、4000年前頃で70倍から30倍と算出されている。一粒まくと70粒から30粒収穫できたのである。(土壌の塩化によって収穫量は次第に減少していった。)

 
 これらの穀物資源と牧畜業によって、他地域との交易経済が賄われ都市文明への道筋が作られていった。考古学的遺物から、大規模に遠隔地交易が発達していたことがわかっている。銅をはじめとする金属類、装身具、円筒印章などの材料となったラピスラズリなどの貴石類、神殿など大型建築物用の木材などが大量に、しかも恒常的に持ち込まれていたがわかっている。さらに、農耕具や武器をつくる基本的な材料であったフリントや、主食のパンをつくるために必要な石臼の材料であった玄武岩、住居用の基礎石として用いた石灰岩といった、生活の基本中の基本ともいえる物資すらも外界からの搬入にたよっていたのである。

 
 一方で、旧石器時代以来北メソポタミア地方ではこうした基本的生活物資に恵まれ、さらに降雨量にも恵まれて、基本的に自給自足的な生計を営んできた世界であった。こうして人々の南メソポタミアへの移住の増加と集住化につれて、北メソポタミアとの交易が必須となり、またその条件も穀物資源の確保によって与えられていたのである。


第2部 ムギとヒツジの商品化と貨幣性機能商品の出現

 第1章 多様な貨幣性機能商品の出現


 <資本論ワールド 編集部>

 私たちは、ここまで最新の考古学による成果を頼りに、100万年に及ぶ西アジアの人類史と古代史をめぐってきた。西アジアを舞台にした経済活動の集約地点として、都市文明が位置づけられることになった。都市文明とは、文字文明の始まりであり、「
貨幣性機能商品」の出現である。数世紀にわたる考古学の蓄積により、文字の始まり自体が、経済活動によってひき起こされた文明・文化であったことが証明されてきた。
そして「貨幣性商品」を歴史的・時代史的に確定することで、原始・古代世界の商品生産の源流を追跡することが可能となる。私たちは、この研究分野を「
貨幣性商品の考古学」と名づけることにする。
『資本論』の価値形態論に対応する考古学の成立である。


 「ユーフラテス河はアナトリア東部のアララト山付近の水源から河口付近の都市バスラまで約2800キロメールもある西アジア最長の河川で、船舶交通が発達した。文明生活を営むのに必要な金属、銅の鉱石がペルシャ湾を遡って運ばれて来た。交易の大動脈であったことはウルドゥ河(ペルシャ語で「銀の河」の意味)の別名が物語っている。シュメル諸都市だけでなく、前2000年紀〔西暦による紀元前2000年から紀元前1001年までを指す。4000年前以降〕のはじめからヘレニズム時代までオリエント世界第一の都市とうたわれたバビロン市もまたユーフラテス河畔の都市であった。
 ユーフラテス河下流のウルク市は交易活動を円滑にするために、中流の、河が南東へ流れを変える湾曲点の西側に植民都市をもっていた。ここはアマヌス山脈の木材やタウルス山脈の銀などをウルクに送る拠点であった。木材は筏イカダにして流していた。
 ティグリス河は水源から河口まで約1900キロメートルで、アッシリアの古都ニネヴェ市やアッシュル市はティグリス河畔に発展した。イラク共和国の首都バグダードもティグリス河畔にある。」(『文明の誕生』より)


 第2章 ムギとヒツジの考古学

 紀元前5500年頃、メソポタミア中・南の低湿地に農耕集落が進出した。一方、都市が成立しはじめたのは、それから約2000年後のことであった。この間、西アジアにおけるムギとヒツジの分布も、そしてその意味も、大きく変わっていった。この2つの変化こそが都市文明成立のひとつの要因といわれている。

  (1)南北関係の逆転

 西アジアの農耕牧畜はメソポタミア以北の地域で成立・発展してきた。後発の地域であったそのメソポタミアが、やがて西アジア世界をリードするようになる。この間のもっとも根本的な要因となったのは、基本的生産量の逆転であった。 メソポタミア平原では、この時期に非常な勢いで集落が増加している。ウルクのような超巨大集落も生まれている。これを支えたのが、灌漑農業に基づくムギの量産であった。ヒツジの頭数においても北側旧世界を凌駕しはじめたのである。この南北関係の逆転こそが、メソポタミアの都市化の原因であり、また結果でもあった。

  (2)農作物の商品化と「貨幣性機能商品」の出現

 その要因は、農作物の「商品化」である。灌漑耕法による圧倒的に高い生産性を背景に、穀物生産の商品化が進行した。ただし、
貨幣によって売買されるという意味での商品化ではない。穀物の「流通財化・交換財化・支給財化」という意味での商品化である。この好例が、粘土板文書にしばしば記録された、家畜への餌の「支給財」としてのオオムギである。

 本来食用であるオオムギなどが、家畜の餌にまわせる社会が登場したのである。
 こうした商品化の背景には、農産物自体の加工品化・二次産品化という側面もあった。たとえば、ビールや各種の乳製品がそうである。しかしその一方では、商品作物自体の導入・成立という事情もあった。その典型が、ソルガムやゴマなどの外来作物である。これらの商品作物の多くは夏作物であった。冬作物中心の西アジアに裏作として導入されたことが、それらの作物の商品化を促した。その後に導入された稲、綿花、サトウキビなども夏作物であった。
北アフリカから西アジア一帯の農耕文化がメソポタミア地域で交差した結果といえる

  
  (3)家畜の商品化


 家畜もまた、「商品化」の道をたどった。集落内で消費される動物性食糧としての家畜から、「生産財・交換財・支給財」としての家畜へのシフトである。ヤギやヒツジの場合、群れの委託契約という意味での商品化も顕著であった。一方、ウシは、鋤の成立を契機に耕作用家畜としての側面をもつにいたった。
 このように従来の食糧資源としてのヒツジから、
商品性(交換価値)の物資として「価値」としてのヒツジへ ― 家畜自体のもつ意味が揺らぎはじめた使用価値の抽象化のが、都市形成期のメソポタミアであった


  (4)商品化のシステム ― 多様な貨幣性機能商品の出現


 農作物や家畜の商品化を支えたのが、運送・簿記・度量衡などの経済システムである。穀物の場合、とくに運送の問題が大きい。ウバイド期にける船の利用、ロバの家畜化、そしてウルク後期頃における車輪の発明であった。輸送手段の確立は、農作物商品化の大きな原動力であった。
 
簿記・会計のシステムも、トークンやブッラを用いた物資の記録・管理は先土器新石器時代から行われていたが、これが絵文字また楔形文字として精度を上げていったのが都市形成期である。シュメールで発掘された粘土板は、その8割以上が経済文書(とくに、穀物や家畜の出納簿)によって占められている。
その意味で、
文字を生んだのは書記ではなく、商品化されたムギとヒツジであったといっても過言ではない。
 
 ウルク期前半に現われた土器のうち、型造りで厚手かつ多孔質であり、しかも容量がほぼ一定しているものが、爆発的に増加している。その用途が、粘土板文書に記録されているが、農閑期日雇い労働者への日当が穀物で支給されていた。その際の1日分の支給量がこの土器の容量とほぼ一致するらしい。これらから、粗製土器は、日雇い労働者への日当支給用容器ではなかったかと考えられている。

  (5) 新石器化の完成

 ウルク後期(紀元前3300~3100年頃)、メソポタミアでは都市が成立し始めたと言われている。これまでみてきように、ムギとヒツジに関わる南北関係の逆転が大きな要因であり、それらの商品化の進行であった。つまり、食糧資源としてのムギ・ヒツジから商品価値としてのムギ・ヒツジにシフトしていく過程、そしてその価値が南北で逆転しはじめた過程 ― これこそが、メソポタミア南部における都市化の実態であったと考えられる。


第3部 金属加工業の成長と
        古代貨幣商品の源流


 第1章 シュメール都市国家群の成立


 考古学による発掘によれば、イラク南部のウバイド文化(紀元前5500~3500年頃)は、新石器時代から銅器時代の遺跡がこの時期を代表する。灌漑農業による飛躍的発展、車輪の導入、銅器時代などが始まっている。紀元前4000年頃から始まるウルク文化へ引き継がれた。
 ウルク文化(紀元前4000年頃~紀元前3000年頃)は、金石併用・銅器時代から青銅器時代初期にかけて南メソポタミアで栄えた。シュメールの都市ウルクに由来するが、この時期に都市国家が多数勃興し、都市文化が栄えた時代であった。青銅器が使用され始め、楔形文字による記録が多数発掘されている。この時期には、ペルシャ湾から地中海まで交易が広く行われ、各地に植民地が形成された。

 
富の蓄積が進むにつれて、都市化が進行し、鉱物資源の需要増大による遠隔地交易がますます発展していった。メソポタミア南部では、容器を作る材料となる石を約300km離れたイランの山地から取り寄せていた。いっそう価値の高いカーネリアン(紅玉髄)は、イラン高原を越えてパキスタン方面から、ラピスラズリはアフガニスタンから、円筒形印章の原料となる凍石は遠くインダス文明のパキスタン・インド地方からも輸入された。
 都市国家で銅に対する需要が次第に高まってくると、東方諸国から大々的に輸入された。主に南イランやその対岸のオマーン半島に豊かな鉱床があり、ペルシャ湾貿易が盛んになった。全長2800kmのユーフラテス河は西アジア最長の河川で、別名
ウルドゥ河(シュメール語で「銀の河」の意味)と呼ばれていた。

 
メソポタミア南部は、河川の流路変更と洪水の発生という氾濫平野であり、年間降雨量は100mm以下であった。日々の生活用水も河川に頼り、灌漑水路による農耕牧畜社会であった。しかし、北部地方の天水農耕に比べて単位面積当たりの収穫量は数倍から数十倍に達し、コムギ・オオムギなど穀物類は豊富でナツメヤシなどと主要な輸出財であった。シュメール都市国家群は、自らの生存のために大規模な物資集散と再配分システムの構築に取り組み、異文化間を貫徹するひとつの経済システムをつくりあげていった。
考古学の発掘成果によれば、その中枢的役割を担っていたのが、神殿であった。

 第2章 都市中枢の神殿文化

 ウルク期の都市と呼べる遺跡では、一般の住居に比べるときわだって規模の大きな神殿と想定される建築群が集落の中心部から発見されるのが常である。町の中心部に発見されるエアンナ神殿、アヌ神殿などの神殿名をとった初期王朝が成立している。神殿複合体と呼ばれるさまざまな建物が発見され、巨大な建築群には大型倉庫が併設され、都市の公共的役割を担っていたことが確認されている。
 特徴的なことは、ウルクのエアンナ神殿域で、ウルク絵文字粘土板や数字粘土板などの記録文書が発見されていることである。また、物資の数を数えるのに用いたトークンと呼ばれる小型の土製品もエアンナ神殿域に集中して出土している。これらの遺物が経済活動と深く関わっており、神殿と呼ばれる遺構と経済活動との深い結びつきを示唆しているのである。
 
また、西アジア世界では、後々のユダヤ教やキリスト教、イスラム教にいたるまで、古来より神そのものを形に表現することに強いタブーが存在していたことがうかがえる。


 第3章 神殿と経済活動の広がり

 第1節 神殿の経済機能と文字の発生

1.
 ウバイド期終末に南メソポタミアに出現しウルク期後期に明確に確立した神殿は、さまざまな意味で新石器時代以来の「神殿」とは大きく異なっていたのである。神殿のプランの基本は前代の一般住居の様式から発達したが、こうした神殿は集落の中心の高台に、他の一般住居とは圧倒的に隔絶した規模で存在した。
内部の中央室には神の座する腰壁とそれに対面して礼拝者達が神に捧げものをする供献台が配され、神殿の内外壁はさまざまな装飾で飾りたてられていた。神殿で執り行われたのは宗教的儀礼であったが、この儀礼に密接に経済活動が絡んでいたことは確実である。また、経済に関わる遺物が各地の神殿で出土することや、大規模な倉庫が付設される例があることは、経済活動の存在を裏付けるものである。

 
ウルク絵文字
2.
 ウルク後期の遺跡から発見される遺物のうち、最も注目される遺物のひとつはウルク絵文字粘土である。ウルク絵文字は後の楔形文字の直接の祖形となったことが知られている。現在明確に認識できる世界最古の文字で、狭義の「歴史」(文字で書かれた歴史)がここに始まったことになる。

3. ウルク絵文字がなぜ発明されたのかについては、ここ30年間ほどの研究で、考古学者や古文献学者の間でひとつの確たる合意が形成されるようになった。それは、大量で複雑なモノの動きを記録する必要性から生まれた、という結論である。出土したウルク絵文字粘土のほとんどすべてがモノと数字を表示しているだけである。メソポタミアにおける文字の始まりが、経済というきわめて実用的な動機から発生していることは興味深いものがある。
 ウルク絵文字粘土板や数字粘土板はウルク後期になって初めて出現するようになるのだが、長期間にわたる経済活動の一つの帰結として文字が発生したものと思われる。つまり文字の発生以前に文字の前史が想定されるわけである。

 
 トークン・ブッラの経済機能

4.
 文字の前史を考えたとき注目される遺物が粘土製のトークン、ブッラと呼ばれている遺物群である。
1966年、フランスのアミエはスーサから出土した遺物を調べていたときに、中空の粘土ボールの中にいくつもの土製品が詰められた奇妙な遺物に注目した。ボールの外面には土製品と同じ形のへこみがつけられていて、このへこみの形が粘土板文書に押されている数字と同じ形であることに気づいたのであった。粘土ボールには印影が捺されて(捺印されて)いたので、彼はこうした遺物にギリシャ語で印影の意味を持つブッラという名前を与えた。そしてこれらの遺物はモノを管理するための簿記的遺物で、後の粘土板に連なるものではないかと考えたのである。

5. スーサから出土した遺物の中から、ウルク後期の外面に印影が押捺され、中にはトークンの詰まった中空のブッラがあった。この用途は、モノを送る際の商品送り状のようなものと考えられている。つまり、送り手はそのモノを運ぶ仲介者にモノの数量分のトークンを入れて捺印したブッラをもたせ、仲介者が届け先にモノとともにブッラを届ける。受取り手は送られてきたモノに疑義が生じたとき、ブッラを壊して送り手がどれだけのモノを送っているのか確認できるという仕組みである。ブッラは商品送り状としてだけでなく、モノを管理する際の申し送り状のようなものとして広く使われたと考えられる。
 ブッラには、外面に数字が書かれているため、ブッラを壊さなくてもひと目でモノの数量が判る仕組みになっている。印影だけが外面に押捺されたブッラに比べて、少しだけ粘土板に近づいたといえる。その後、数字と印影が押された厚手で楕円形の数字粘土板が登場してくる。数字情報が外に描かれるようになる。そして、ついに絵文字粘土板が出土するようになる。
 スーサの数字記号はウルクと同じで、文字の横に数字が配されていることもウルク絵文字粘土板と同様である。

6. ウルク後期には、ブッラなどの遺物群が西アジアのきわめて広範囲の地域に広がっていることは、その地域全体がひとつの経済概念を共有していたことを示している。南メソポタミアを中心とする物資交換のためのネットワークが形成されたのである。コムギ・オオムギなどの穀物を他地域へ送り出し、木材や金属類などを入手する遠隔地交易が発達していたのである。



 第2節 古代貨幣商品の源流 銀通貨の誕生


  最古のシュメール都市国家群は、紀元前3300年(約5000年前)頃から1000年ちかく続いた。
  
参考:シュメール初期王朝時代:紀元前2900年~2300年頃
      ウル第三王朝:紀元前22世紀~紀元前21世紀の100年間


 
古代オリエント世界で使用された銀は、トルコ地方のアナトリアからイランにかけての山岳地帯から産出
した。アナトリア東部のユーフラテス河には優良な鉱山が集中していて、「銀の山」として知られていた。
 
 ウルの商人の家から発掘された文書(紀元前1800年頃)に次のような事項が記載されていた。
『古代オリエント商人の世界』(ホルンスト=クレンゲル:山川出版社」)によれば、

「11着の衣服、その価値は銀で3分の1マヌーに2と3分の2シクル。5着の衣服、その価値は銀で6と2分の1シクル。5着の衣服、その価値は銀10と3分の2シクル。27着の衣服、その価値は6分の5マヌーに4と2分の1シクル15ウッテトゥ。合計50着の衣服で、その価値は1と3分の2マヌーに7と3分の1シクル15ウッテトゥ。」という具合である。 この例が示すように、この当時はすでに銀が物の価値を表わす普遍的手段となっていた。銀は耐久性のある、とくに有用な「通貨」、実用品だった。

 
鋳造銀貨が出現するにはなお1000年以上も待たなくてはならないけれども、その重さで価値が表されるこういう銀は、もう疑いなく貨幣と呼んでよい。
 
いちばんよく使われた重量単位はシクル(またはセケル)[シュメール語ではギン]だった。
この言葉自体は「目方を量る」という動詞から派生したもので「つり合いのとれたもの」とか「重さ」とかを表わす。
そしてだいたい8グラムに相当する。シクルの下の単位はウッテトゥ[シュメール語でシュ]、つまり「穀粒」である。これは疑いなく穀粒1粒の重さを表わそうとするもので、44ミリグラムだった。」

 考古学資料によると、前2345年頃にラガシュ市を支配していたルガルアンダ王がディルムン(ティルムン:バーレーン周辺)から商人ウルエンキを通じて銅のインゴット(鋳塊:鋳型に流し込んで固化した金属塊)を購入した。1マナは約500グラムで、14マナつまり7キログラム以上の銅を買った記録がある。ウルエンキが持ってきた銅がふさわしい量と純度の銅か確認するために、量り直された記録もあった。シュメール都市国家では、青銅器製作に必要な錫をアフガニスタン西部からペルシャ湾経由で輸入していた。錫は銅と合金して青銅をつくるほかに、金属の接合剤として「はんだ」としても使われていた。



  
『文明の誕生』 (小林登志子:中央公論新社)によれば、

  このようにシュメールで
「お金」の代用をしたのは銀の「秤量貨幣」であった。すでに初期王朝時代に、物価の総体基準や売買の対価などとして使われた。法律では銀を基準として物価や賃金、罰金規定が示されている。
 ラガシュ市のルガルアンダ王治世の記録には、「一人の男奴隷は20ギンの銀であり、連れてきた。羊毛用ヒツジの牧人ルガルダがこの奴隷を連れて行った。一人のイギヌドゥは値段が15ギンの銀であり、連れてきた。園丁のアンアムが連れていった」と書かれ、奴隷などが銀でエラム地方から購入されている。アッカド王朝時代には、「ハル」と呼ばれた銀製品がある。銀製のらせん状で、輪のこともある。ハルはアッカド王朝時代から古バビロニア時代にかけて使われ、「銀貨以前の銀貨」とも考えられている。運ぶのに簡単なので、旅行時などに携帯し、いざ支払いともなれば、らせん状は必要な重さに切ることができた。
 
 
ウル第3王朝時代には、次のような記録がある
 「各々8シュケルの銀の「輪」2つ。王がシュルギ神の醸造所に関して、ビールを飲んだとき。ウタ・ミシャラム、役人。アル・シャルラキでプズル・エラによって支払われたものである。」
 この文書では、「輪」が行政府の役人によって酒代の支払いに使われている。このように、メソポタミアではおもに銀が秤量貨幣として使われ、錫、銅などが交換媒体に使われたが、全体としては物々交換の社会であってヒツジやオオムギなどでも支払われていた。

 それでも、物品の価格は銀で表示された。初期王朝時代やウル第3王朝時代にはオオムギ1グル(約300リットル)=銀1ギン(約8.3グラム)の換算が公的な標準であった。イシン・ラルサ時代に、ウルク市を支配していたシン・カシヂ王は王碑文のなかで、「我が王権の時代において、我が国土における価格として、銀1ギンにつき、大麦3グル、羊毛12マナ、銅10マナ、植物油3バンとの交換を定めた」と、市場の標準価格を定めている。大麦1グルが銀1グルとの価格体系は崩れているのがわかる。
 
 エシュヌンナ市で編纂された『エシュヌンナ「法典」』では、第1-2条が生活物資の公定価格、第3-11条と14条が各種公定賃金というように、物価についての規定からはじまるという特徴がある。
 第1条には次のように書かれている。
 「1クルの大麦が銀1シェケルに相当し、3カの上質油が銀1シェケルに相当し、1(スト)カのごま油が銀1シュケルに相当し、1(スト)5カの豚油脂が銀1シェケルに相当し、4(スト)の瀝青が銀1シュケルに相当し、6マナの羊毛が銀1シュケルに相当し、2クルの塩が銀1シェケルに相当し、1クルのカリウムが銀1シェケルに相当し、3マナの銅が銀1シェケルに相当し、2マナの青銅が銀1シェケルに相当する。」
   
   
*1マナ=60シェケル=約500グラム、 1クル=約300リットル、 1スト=10カ=約10リットル、 1カ=1リットル

・・・・3節 総括として、・・・
『資本論』の商品の物神的性格の考古学研究

  → コリン・レンフルー「先史時代と心の進化

    1. 心の先史学 要約
    
2. 心の先史学 抄録
    
3. 貨幣制度・・・物質的関与と貨幣の読み取り方