<コラム7>コリン・レンフルーの貨幣制度 20170705
-商品の物神的性格の研究-
→ コリン・レンフルー『先史時代と心の進化』
(1)「心の先史学」要約. (2)抄録.
(3)物質的関与と貨幣 (4)象徴と価値
→ 価値のひたいの上には・
→ 「ヨハネの黙示録」新約聖書第13章
→ 商品の物神的性格とその秘密
『先史時代と心の進化』 (3)
物質的関与と貨幣の読み取りかた
コリン・レンフルー:『先史学と心の進化』「貨幣制度」
「硬貨に認められた価値は、第六章で論じた「制度的事実」だ。硬貨に利用された高価な物質の「本来的」価値は(金であれ銀である青銅であれ)新たな形の物質的関与を象徴し、それによって行為者である人間は、こうした硬貨に認められた価値を利用して自分の日常を組み立て、世界を動かす方法を構築する。」
カール・マルクス『資本論』「商品の物神的性格」
「労働生産物が、価値である限り、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。」
<目 次>
1. 資本論ワールド編集部 まえがき
コリン・レンフルー『先史時代と心の進化』 抄録
3. 文字の使用と心の発達 ・・・物質的象徴の進化
4. 貨幣制度と識字能力 ・・・貨幣の読みとりかた
5. 硬貨の鋳造と物質的関与
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資本論ワールド編集部まえがき
『資本論』の最も難解と言われている「商品の物神的性格」について、コリン・レンフルー理論とともに探求してゆきます。
1. コリン・レンフルー理論の基盤には、「心の進化・脳科学」が開拓した20世紀の基礎科学があります。
西洋世界で伝統的な「二元論-宇宙や世界の構成要素を精神と物質との2実体とする考え方-」がどのように止揚・克服され、対象の統一原理として概念化されるか、・・・・このことにしっかりと認識した地盤に立つことが新しい科学には求められています。それはマルクスの目指した『資本論』の論理学でもあります。
また、二元論克服の道筋は、西洋科学が歩んできた歴史でもあったのです。
近代から現代にいたる、ラヴォアジェ元素観の確立、ドルトン相対原子質量説による物質構成の発見、熱の仕事当量に由来するエネルギー転化の証明、シュヴァン細胞理論による植物と動物の統一生物学の誕生、マルクスとエンゲルスによる「歴史」の発見、ダーウィン進化論による生物種の統一、非ユークリッド幾何学による空間創出、そしてアインシュタインによる質量とエネルギーの等価性を表す関係式:
エネルギー E =質量 m ×光速度 c の2乗(E = mc2 )など。
『資本論』「商品の物神性」の「謎解き」は、商品(労働生産物)と価値(交換価値として現象)の間の二元論的観念と人々の自己了解に対するの批判的暴露であり、商品世界の秘密の「見える化」の手続きでした。
マルクスは、宗教批判のフェティシズム理論を構築して「商品の物神性」を解明しました。しかしながら、キリスト教神学になじみの薄い日本では、「マルクス経済学」に活かされず現在に至っています。これらの現状を踏まえながら、私たち資本論ワールドでは、コリン・レンフルー理論(物質的象徴と物質的関与・制度的事実)の協力を得て、新たな商品物神性・フェティシズム批判の構築が可能ではないか考えています。
2. 『資本論』第1章第4節商品の物神的性格第8段落を見ましょう。
→ペティ『租税貢納論』第5章
〔価値のひたいの上には〕
「 したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間的労働の、単に物的な外被(がいひ)であると考えられるからではない。逆である、彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。
〔新訳聖書『ヨハネの黙示録』、ペティ『租税貢納論』〕
価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。労働生産物が、価値である限り、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観を逐(お)い払うものではない。」
「この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行なわれているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚(とら)われているものにとっては、あたかも空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、終局的なものに見えるのである。」
3. この第8段落は、難解です。
「価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字(しょうけいもじ)に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探(さぐ)るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物であるからである。」
すなわち
① 価値のひたい → 新約聖書「ヨハネの黙示録」、ペティ『租税貢納論』
② 社会的象形文字
③ 言語と同様に社会的な生産物
難解なこれら3つは、一見比喩的に使用された語句のようにも読み取れますが、それぞれは歴史的・人類史的な背景を担っている語句でもあります。ここに注目しながら探索を進めてゆきましょう。
① 価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。
→ペティ『租税貢納論』第5章
■ 新約聖書「ヨハネの黙示録」
古代社会では、奴隷のひたいに「しるし」を刻印し、その奴隷の所有者が誰かを一目で分かるようにする習慣がありました。また、新約聖書「ヨハネの黙示録」第13章には次のようにあります。
「小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、すべての者にその右手かひたい(額)に刻印を押させた。それで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である 。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は666である。」
(「666:獣の数字=皇帝ネロ」を推量させるヘブライ文字による数字化)
② 価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字に転化する。
→ 古代エジプトのヒエログリフ(聖なる文字)などの象形文字からの転用と思われます。象形文字には、意味を表わす文字と話される音を表わす文字があります。「価値が労働生産物を転化する」という場合、「これは価値がある」と話されるように、「話される音」を示すことが推測されます。「意味を表わす文字」と違って、すなわち、直接には内容の理解が可能となるような「意味が表わされる」ことになりません。
③ 使用対象(商品)の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物である。
→ 言語について、チョムスキーは「人間言語は認知システムの一つであり、人間の心/脳において言語学 は認知心理学の一部、究極的には人間生物学の一部であることになる。より具体的には、人間がもつ心/脳の「心的器官」の一つが言語機能であり、・・・」としています。(『言語と認知』)
また、 「商品所有者にとっては、商品は直接には、交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである。それゆえに、彼はこれを、その使用価値が彼に満足を与える商品にたいして譲渡しようとする。・・・そしてこの交換が価値として相互に関係させる。さらにこれを価値として実現する。」 (『資本論』第2章交換過程)
このように、使用対象の価値としての規定は、社会的な生産物であり、労働生産物が相互に交換されてゆくことで成立する社会の構成要素を表わしています。
以上のように、①から③の解釈を行ったとしても、“なぜ、わざわざ解釈が必要となるような説明方式を行っている理由” が明らかになりません。どうも、マルクスの説明には釈然としない「論理展開?」が多すぎるとの批判がついて回るように思われます。これは、「商品の物神的性格」全体、フェティシズムについても言えるようです。
キリスト教文化の伝統を有しない私たちには、「商品のフェティシズム」についてさらなる探索が必要とされるように思われます。そもそも、「フェティシズム世界=感覚的にして超感覚的な二元論の世界」が解明されなければなりません。そのためには、分析道具となる新たな概念装置の構築が必要です。
以下の報告は、上記の象形文字や「言語」の解読にむけた概念装置の探索となります。
コリン・レンフルー「文字で書かれた歴史」そして「貨幣制度と識字能力」(『先史時代と心の進化』)から抄録したものです。この抄録は「6月新着情報」に続いて、「物質的象徴」の研究事例として参考になります。なお、「資本論入門6月号・商品の物神性と心の進化・脳科学(次回・第2回)」においても、再度研究を深めてゆく予定です。
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コリン・レンフルー 『先史時代と心の進化』 抄録
「文字で書かれた歴史」
〔 1. 歴史時代の意義 〕
「 一般に先史時代は、文字が登場して歴史時代が始まると同時に終わると考えられている。確かに文字の使用は、歴史時代の基礎である。しかし、もう少し突っ込んで考えられてみると、「歴史時代」は文字が生まれるのと同時に始まるわけではないことがわかる。事情はもっと複雑だ。発達を推し進めるものとして本書で今まで検討してきたプロセスや意識的な活動は、ここで終わったわけではない。わずかな変化とともに、続いていったのだ。そのような意味で、歴史時代は単なる延長、つまり先史時代の続きと考えてもよいだろう。主な違いは、いわば過去という一大スペクタクルの観察者である私たちが、これからは文献史料がもたらしてくれる新鮮な視点や明快さで、観察を続けられるという点である。
しかし、実はそこにはもっと深刻な違いがある。それは、書くという行為(外部記憶装置の利用)によって、人間が物質世界と関与する新たな道が開けるという点だ。情報は、様々な方法で保管し処理できるようになる。厳正科学の誕生が現実味を帯び、そこから新たなテクノロジーの生まれる可能性が出てくる。新たな種類の社会的関係が発達し、さらには新たな形のアイデンティティさえうまれてくるかもしれない。そして何より、明解な理論の発達など、新たな思考形式が登場して記録されるようになる。文字の使用がもたらす一番の衝撃は、歴史時代を生み出したことではなく、新たに哲学や数学、自然科学、文学、それに社会政治理論などの分野を切り開いたことなのである。」・・・
「 この場合、文字で書かれた言葉は物質的現実によってしっかりと支えられている。都市の成長と発達は、文書に記録されるか、少なくとも現在の都市の姿の基礎となっている。農村地帯の風景は、数千年に及ぶ農業の歩みを、耕地制度や、道路、灌漑用水、牧草地などの形で保持している。「産業考古学」は、その名の通り、採取産業や手工業の歴史をひもとく。軍事史の記録は、城塞や戦争考古学によって実証される。対象となる事件が起きたのと同時かその直後に書かれた記録という、狭い意味での「歴史」は、具体的で物質的なものを中心とする大量の情報によって捕捉されて初めて、広い意味での「歴史」、すなわち文字で書かれた過去について私たちが集団として知っていることの説明となるのである。」
〔 2. 文字の使用と心の発達・・・物質的象徴の進化 〕
文字を書くという表記行為によって、新たな思考方法が生まれる可能性が出てくる。マーリン・ドナルドが「理論的思考」と呼んだものが登場するのは、多くの場合、外部記憶装置が関係しており、その最も代表的な例が文字表記である。マヤ族が適切な表記法を考案せずに、あの素晴らしい暦法を発展させたとは、どうにも考えにくい。実際、暦はある意味、表記法の一つと言える。もちろん、これは非常に特殊な表記法で、数学を表わす記号と、日や月の名前を示す象形文字が必要となる。こうした文字は、マヤ族にとっては実際に話されている日や月の名前(現代で言えば「月曜日」とか「火曜日」など)を示していたに違いないが、その読み方が実際に表音文字でつづられているわけではない。
表音文字とは、話される音を表わす文字で、たとえばメソポタミアの楔形文字や、クレタとミケーネのミノア線文字Bがこれにあたる。マヤの文字は主に表意文字だ。これはエジプトのヒエログリフなどのように意味を表わす文字であり、読むときは、その文字に昔から付けられていた名前で呼ぶ。
考古学者デニス・シュマント=ベスラによると、メソポタミアではすでに新石器時代に、粘土製の計算機を使った計算方法が発達して計算表記法になり、それが後にメソポタミア南部(つまりシュメール)のウルクで見つかった紀元前3500年ころの「原文字」粘土板で最初に現われる文字になったという。ウルクの粘土板に書かれたシュメールの表意文字は、さらに発展して楔形文字となり、後にアッカド語文書で使われた(アッカド語はセム系言語で、メソポタミアで非セム系言語のシュメール語に取って代わった)。楔形文字は、メソポタミアの粘土製で用いるのに理想的な文字で、一部は表音文字となって発音を記録したが、かつての象形文字から派生したため、まとまった考えを示す表意文字も残っていた。・・・・
現代人の心を生み出した大きな要因として、現在私たちが考えているものに、思考、推論、および文学的体験がある。この三つに大きく貢献したのがギリシャ人だ。中でも顕著なのは、ソクラテスやプラトンに代表される系統的な哲学で、これはギリシャ世界の、いわゆる「ソクラテス以前」の哲学者たちを踏まえて発達したものである。それと並んで重要なのが、数学的推論と、エウクレイデス(ユークリッド)が大成した幾何学だ。ただし、これについてはバビロニアで発達した数学と、ことによるとインドで発展した初期の数学的考え方にも負うところが大きいことを認めなくてはならない。
しかし、何といっても大きいのは、ギリシャ初期の抒情詩と、特にギリシャ演劇に見られる、生の肉声を持った個人の創造である。善悪をめぐる議論や、正義に適う正しい行動にまつわる苦悩など、ソフォクレスの『アンティゴネ』に見られるテーマは、歴史家トゥキディデスが詳しく論じた議論の一部に通じるものがある。これは、現代小説における内的独白の先駆であり、それはちょうど、ギリシャ演劇を下敷きにシェークスピアやモリエールの戯曲が生まれ、彼らの作品を下敷きに現代の映画が作られているのと同じである。
ここでギリシャ文化の貢献を取り上げたのは、アルファベットを使う他の文化よりもギリシャ文化を高く評価するためではない。そうではなく、アルファベットの文字体系を採用し普及させたことで、新たに認知面で様々な経験を積めるようになり、その意味で「心」が拡大したことを説明するため、その具体例として取り上げたのである。・・
以上のことから、様々な表記体系の貢献を評価する際にアルファベットだけを過大評価するのは間違いだということがわかる。また、先にも少し触れたが、日本語の文字である「かな」は、漢字を基にして作り出された文字だが、これももちろん、理論的思考に間違いなく重要な貢献をしている。それのことは、8世紀の奈良時代に日本で花開いた「南都六宗」の仏教思想や、その後の文学作品から明らかである。」
「貨幣制度と識字能力」・・・貨幣の読み取りかた
〔 1. 硬貨の鋳造と物質的関与 〕
識字能力は、近い過去に起きたことをいろいろと知るのに使える手段であり、ついでに言えば、今日の代表的な世界宗教は、すべてが識字能力と、各宗教が持つ聖典や経典とに支えられている。今まで見てきたように、様々な理論的思考への道を開くことで、識字能力は過去を形成するのを助け、未来を形作る後押しをする。 しかし、同じように決定的な役割を果たす要因は、ほかにもいくつかある。文字で書かれた言葉を基本とするものではなく、もっと早い時期に変化の経路を決めるのに決定的な役割を果たした物質的関与と共通点を多く持つ要因があるのだ。
その一つとして真っ先に挙がるのが金銭である。世界で初めて硬貨が鋳造されたのは紀元前六世紀の小アジア(現代のトルコ)だが、この時期にエーゲ海地域で初めてアルファベット文字体系が採用され始めたのは、おそらく偶然の一致だろう。いずれにせよ、長期的な影響は同じく強烈だった。
硬貨の鋳造には、重さを量った金や銀(または両者の合金であるエレクトラム)の小さな金属片を用い、これに発行権限を示す印として、習慣としてリディア王クロイソスの肖像を刻印する。この発行権限の持つ権威によって、金属の価値が、広く承認された価値の標準単位と等価であることが保障されると考えられていた。この考えが広まると、すぐにアテネの「グラウクス」硬貨やコリントの「ポーロス」硬貨がギリシア世界の通貨として認められた(「グラウクス」は「フクロウ」、「ポーロス」は「若馬」の意味で、そのデザインがコインの表に刻印されていたことから、そう呼ばれた)。
〔 2. 制度的事実としての貨幣制度 〕
ローマ帝国では価値の低い青銅硬貨が導入されたが、中世が終わると、ほとんど何でも買える「小銭」の概念が広まった。どの事例であっても、硬貨に認められた価値は、第六章で論じた「制度的事実」だ。硬貨に利用された高価な物質の「本来的」価値は(金であれ銀である青銅であれ)新たな形の物質的関与を象徴し、それによって行為者である人間は、こうした硬貨に認められた価値を利用して自分の日常を組み立て、世界を動かす方法を構築する。
こうしたことは、すべて識字能力よりもずっと以前に起こったのかもしれない。貨幣制度に識字能力の活用が必要になる部分がまったくないからだ。実際、「金銭」と呼べそうなものが西アジアでかなり早い時期に発達していた証拠がある。この地で銀が、紀元前2000年ころのバビロニアの時代にはすでに交換物質として認められるようになっていたのだ。この意味では、金銭は第8章で見た商品連関において、他の品物の価値を測る基準として使える高価な品物というだけにすぎない。硬貨は金銭の特殊な形態であり、管理権限を持つ者が基準となる単位で発行した品物(たとえば銀)に印章や紋章を刻むことで、その基準単位が特定の重さと基準価値を満たしていることが証明されているものなのである。
こうしたことは、すべてかなり早い時期に起きたのだと想像される。しかし、こうしたシステムが動くには、たとえばインダス文明のように、少なくとも度量衡の制度が存在し、正確な計算システムがなくてはならない。識字能力がなくとも硬貨の発行は機能すると考えられるし、実際、後代には一部の国が識字能力に関係なく硬貨を発行している。しかし現実には、硬貨の発行よりも識字能力の方が登場は先なのである。同じことは中国にもだいたい当てはまる。中国の硬貨発行は西洋とは別に起源を持ち、印刷紙幣が登場したのも、実は西洋よりも数百年早い(現存する最古のものは、1374年発行のものだ)。
17世紀になってヨーロッパに紙幣が導入されたことで、抽象化へ向けてさらなる一歩が踏み出された。具体的には、金本位制度という経済の理論的構成体を利用し、将来的には金本位制度にも依存しない経済制度へと移行していくことになる。私たち全員の人生で金銭が圧倒的な役割を演じていることは、少なくとも西洋世界では明らかである。西洋資本主義社会では、労働という概念は(他の社会では違うかのかもしれないが)もっぱら給与という概念と、受け取った給料を財やサービスに換えられることを基盤としている。
このシステム全体は、識字能力に支えられてはいるが、完全に依存しているわけではない。このシステムで求められるのは、価値を計算でき、国の枠を超えて理解できる概念だ。必要な情報は、今日ではたいてい電子的な方法でやり取りされている。しかし、電子的な情報は、もはや「文字を書く」という方法で記号化されはしない。おそらくたいていは、まったく異なるタイプの外部記憶装置と見なされるだろう。
ここでの議論の要点は、先史時代に始まった認知的発達に起源を持つプロセスが、現代世界の諸活動の基盤として今も機能している点を明示することにある。私たちの生活は、五千年前の青銅器時代に生きていた祖先とほとんど変わらない制度的事実によって、今も支配されている。先史時代の構築段階で生じた
物質的現実は、現代の有文字社会の物質的現実に統合されているのである。」
・・・・以上、終わり・・・