2018資本論入門3月号-3
『資本論』生誕150周年 『経済学批判』から『資本論』へ
エンゲルス 『経済学批判』 について (第1部-3*)
*注:(第1部-3*)としてあるのは、資本論入門4月号に掲載される「『資本論』生誕150周年 『経済学批判』から『資本論』へ・・・第1部『経済学批判』をめぐって、第2部『資本論』の序文をめぐって」資料集の一部です。このエンゲルスの「書評」は、『経済学批判』から『資本論』へとマルクスの著作に対する包括的・中核的な役割を果たしていますので、一番最初に位置付けてあります。
編集部 まえがき
*注:本文の「小見出しと段落番号」は、編集部による注記
(1) マルクス『経済学批判』が公刊された直後1859年8月に、エンゲルスはその書評―「『経済学批判』について」をドイツ語週刊紙『フォルク』(ロンドン)に発表しています。この小論は、エンゲルスによる『経済学批判』の“概要説明”にあたりますが、その前年(1858年4月2日)、マルクスはエンゲルスへ『経済学批判』の《第1部の簡単な概略》を手紙で知らせています。
私たちは、マルクスの手紙によってエンゲルスの“概要説明”が密接不可分の関係にあることを伺い知ることができます。いま、マルクスの手紙の一部を紹介します。→(手紙の全文はこちらを参照してください)
「 価値。 純粋に労働量に還元される。労働の尺度としての時間。使用価値は―主観的に労働のusefullness《有用性》として考察されるにせよ、または、客観的に生産物の utility《効用》として考察されるにせよ―ここではただ、さしあたりまったく 経済的形態規定のそとにある、価値の“素材”的前提としてあらわれるにすぎない。価値としての価値は、労働そのもののほかになんの「素材」ももっていない。価値のこういう規定は、ペティではじめて暗示的にあらわれ、リカアドでは純粋に仕上げられているのだが、ただブルジョア的富のもっとも抽象的な形態であるにすぎない。〔*注1〕・・・」
「 価値の一般的性格と、ある一定の商品の素材的定在との矛盾等々から―これらの一般的性格は、のちに貨幣の形であらわれるものと同じものである―貨幣のカテゴリーが生ずる。」
「 価値の一般的法則にしたがえば、このばあい、一定量の貨幣は、ただ一定量の対象化された労働を表現するにすぎない。貨幣が尺度であるかぎり、貨幣自身の価値の可変性はどうでもいいことである。」
「 もっとも抽象的な諸規定でも、さらにくわしく研究すれば、つねにいっそう具体的な一定の歴史的土台を指示するものである。(これは of course 《あたりまえのこと》だ、なぜならば、抽象的な諸規定は、歴史的土台から、この規定性において抽象されたものだから。)」
「 単純な貨幣流通は、それ自身のうちに自己再生産の原理をもっていない、そこでそれは、自分をこえてゆけというのである。貨幣においては、―その諸規定の展開が示すように、― 流通にはいりこんでそのなかで自分を保ちながら、同時に流通そのものをうみだしつつある価値―資本―を呼びだすことが措定されている。この移行は同時に歴史的でもある。」
(2) 〔*注1〕は、編集部による注記ですが、このマルクスの手紙の 「 使用価値は―主観的に労働のusefullness 《有用性》 として考察されるにせよ、または、客観的に生産物の utility 《効用》 として考察されるにせよ―ここではただ、さしあたりまったく経済的形態規定のそとにある、価値の“素材”的前提としてあらわれるにすぎない。価値としての価値は、労働そのもののほかになんの「素材」ももっていない。」 は、
―エンゲルスが「書評」で指摘している
「<2> 本書のねらいはむしろ、最初から、経済科学の総体の体系的総括に、ブルジョア的生産およびブルジョア的交換の諸法則の連繋的展開におかれている。経済学者はこれらの諸法則の通訳、弁護者にほかならないのであるから、このような展開は同時に全経済学文献の批判でもある。」―これに該当する一連の文脈です。エンゲルスの“概要説明”を研究することによって、より深く、慎重さをもってマルクスに接近することが可能となります。
なお、「労働のusefullness《有用性》」「生産物の utility《効用》」は、歴代イギリス古典派経済学者の人々が商品の使用価値規定に際して、連想的に定義づけを行っている用語です。
「アダム・スミスあるいはその他だれか名声ある公認経済学者が、交換価値と使用価値にどんなになやんだか、またそれらを整然と区別し、それぞれをそれに独自の明確さにおいてとらえることが彼らにとってどんなに困難であるかを、彼らの書物でよみ、その上でマルクスの明瞭で簡単な説明と比較してみればよい。ところで、使用価値と交換価値とが展開された後、商品は、それが交換過程にはいりこむと、この二つのものの直接的統一としてあらわされる。どんな諸矛盾がここで生じるかは、38、39頁(『経済学批判』新潮社版p.71-72〔注2〕)を参照されたい。ただここで注意しておきたいのは、これらの矛盾は、たんに理論的、抽象的に興味があるばかりでなく、同時に、直接的な交換関係、単純な物々交換の性質から生じる諸困難を、すなわち交換のこの最初の粗硬な形態が必然的におちいる“不可能を反映している”ということである。・・・」
(3) エンゲルスの書評のもう一つの特徴は、マルクスとヘーゲル哲学の関係を具体的に解明していることです。
「<2> マルクスは、ヘーゲルの論理学の皮をむいて、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見を包有している核をとりだし、かつ弁証法的方法からその観念論的外被をはぎとって、それを思想の展開の唯一のただしい形態となる簡明な姿につくりあげる、という仕事をひきうけえた唯一の人であったし、また唯一の人である。」
― 『資本論』理解に不可欠なヘーゲル弁証法の手引き書の役割を果たしていると言えます。―
「ヘーゲルの考えかたを他のすべての哲学者のそれから特徴づけるものは、その基礎によこたわる偉大な歴史的精神であった。・・・彼は歴史のうちに一つの発展を、一つの内的関連を立証しようとこころみた最初の人であって、彼の歴史哲学のうち多くのものが今日われわれにどんなに奇妙におもわれようと、根本的見解自体の壮大さは今日でもなお驚嘆にあたいする。」
以上のように、エンゲルスの“概要説明”を研究することによって、マルクスの“方法論”をヨーロッパの伝統の中で把握してゆく筋道を捉えることができます。
・・・~ ・・・~ ・・・~
エンゲルス 『経済学批判』 について
◆目次・・・1~18の段落番号と小見出しは、編集部が作成・・・
<1>
1. 「ドイツ経済学」の置かれた歴史的背景
2. 『経済学批判』序文―「唯物論的歴史観」
3. 人間の意識はその存在に依存する
4. 唯物論的見解の歴史的事例研究について
5. 革命の敗北と研究の最初の成果
<2>
6. 『経済学批判』のねらい
―経済科学の総体の体系的総括の展開は、全経済学文献の批判すること
7. ヘーゲルの後継者たち
8. 自然科学的唯物論の特徴
9. 科学はどのようにとりあつかわるべきであったか? ―ヘーゲルの方法
10. ヘーゲルの考え方
11. 弁証法-画期的な歴史の見方
12. マルクス―ヘーゲル論理学・弁証法的核の“方法の完成”
13. 「経済学の批判」のマルクスの方法―「歴史的に、論理的に」
14. 経済的関係から新しい関係の設定 ーレトリック論(1)ー
15. 経済学は物を取り扱うのではなく、
人と人との関係、階級と階級の関係をあつかう
16. 経済学上の論争― 使用価値と交換価値の展開
―ドイツ弁証法の「歴史的に」「論理的展開」ーレトリック論(2)ー
17. 物々交換の不可能性と貨幣商品による解決
18. 論理的展開は、歴史的説明―現実との不断の接触を必要とする
........................................................
エンゲルス『経済学批判』について
小島恒久訳 マルクス・エンゲルス選集7 新潮社
<1>
1. 「ドイツ経済学」の置かれた歴史的背景
科学のあらゆる領域においてドイツ人は、ずっと以前から、その他の文明諸国民と肩をならべており、たいていの領域では彼らよりすぐれてさえいることを示している。ただ一つの科学だけは、その大家の列に一人のドイツ人の名をも数えていなかった。それは経済学である。その理由はあきらかである。経済学は近代ブルジョア社会の理論的分析であり、したがって発達したブルジョア的状態を前提とするが、この状態はドイツでは、宗教改革戦争と農民戦争以来、とくに三十年戦争以来、数世紀ものあいだあらわれることができなかったのである。オランダがドイツ帝国から分離したことは、ドイツを世界商業からおしのけて、その産業的発展を最初からきわめて貧弱な状態におしこめてしまった。そしてドイツ人が苦労して徐々に内乱の荒廃から回復しつつあったあいだに、またドイツ人がたいして大きくもないそのブルジョア的エネルギーのすべてを、あらゆる小君主や帝国小領主がその臣下の産業に課した関税障壁と気違いじみた商業取締りとにたいする効のない戦いに使いへらしていたあいだに、さらにまた帝国諸都市が同職組合(ツンフト)商売と貴族支配のうちに衰微しつつあったあいだに、―そのあいだに、オランダ、イギリス、フランスは世界商業で第一席を獲得し、つぎつぎに植民地を建設し、そしてマニュファクチヤ産業を最高の繁栄にまで発展させ、ついにはイギリスが、その石炭層と鉄鉱床とにはじめて価値をあたえた蒸気の利用によって、近代ブルジョア的発展の先頭にたつにいたった。だが、1830年までドイツの物質的、ブルジョア的発展をしぼりつけていた滑稽なほどふるくさくなった中世の残滓にたいする闘争が、なおおこなわれねばならなかったあいだは、どのようなドイツの経済学も生れえなかった。
関税同盟の成立とともにはじめて、ドイツ人は、経済学をともかくも理解することだけはできる状態にたっした。このときから実際に、イギリスとフランスの経済学の輸入が、ドイツ市民階級のためにおこなわれはじめた。まもなく、学界と官僚層とは輸入された素材をわがものとし、「ドイツ精神」にとってあまり自慢にもならないしかたでそれに手をくわえた。こうして、文筆を弄する産業騎士、商人、学校教師、官僚のよせあつめからドイツ経済学の文献がうまれたのであるが、そのくだらなさ、浅薄さ、無思想、冗漫さ、剽窃という点では、ただドイツの小説がこれと肩をならべうるだけであった。実際的目的をもつ人々のあいだから、まず産業家たちの保護関税学派ができあがった。その権威であるリストは、彼の栄誉ある全著作があの大陸封鎖の理論的創始者であるフランス人フェリエのひきうつしであるにしても、いまなおドイツのブルジョア経済学文献がうんだ最良のものである。この傾向にたいして40年代には、バルト海諸地方の商人たちの自由貿易学派がおこって、イギリスの自由貿易論者の議論を、たわいもない、だが打算的な信仰の下に口まねした。最後に、この学問の理論的方面をとりあつかわねばならなかった学校教師や官僚たちのあいだには、ラウ氏のような批判ぬきのひからびた押花蒐集家や、シュタイン氏のような外国の文章をなまかじりのヘーゲル流に翻訳した利口な投機者や、あるいはリール氏のような「文化史」の領域での美文家的落穂ひろいが生れた。こうして、そこから結局でてきたものは官房学であり、折衷的=経済学的なソースをかけられた、さまざまなくだらないものの雑炊であって、司法官試補が国家試験のためにおぼえておけばやくにたつというしろものであった。
2. 『経済学批判』序文 ― 「唯物論的歴史観」
このようにドイツの市民階級、学校教師群、官僚群がなお、イギリスとフランスの経済学の初歩をおかすべがらざる教義として暗記し、いくらかでも理解しようとしてつかれはてていたあいだに、ドイツのプロレタリア党があらわれた。この党の全理論体制は経済学の研究からうまれたものであり、科学的で独立したドイツ経済学もまたこの党の登場した瞬間にはじまるのである。このドイツ経済学は、本質的に唯物論的歴史観にもとづいている。この史観の概要は右にあげた著作の序文のなかで簡単にのべられている。この序文の要点はすでに「フォルク」紙にのせられているから、それについてみられたい。
「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的な生活過程一般を制約する」という命題、すなわち、歴史にあらわれるすべての社会的、国家的諸関係、すべての宗教的、法律的体制、すべての理論的見解は、それに照応するそれぞれの時代の物質的生活諸条件が理解され、かつ前者がこれらの物質的諸条件からみちびきだされるばあいにのみ理解されうる、という命題は、たんに経済学にとってばかりでなく、すべての歴史科学(そして自然科学でないすべての科学は歴史科学である)にとっても一つの革命的発見であった。「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなくて、人間の社会的存在が彼らの意識を規定する」。この命題はきわめて簡明であるから、観念論的な妄想にとらわれていない人ならだれにでもおのずから理解されるにちがいない。だがこのことは、理論にとってだけでなく、実践にとってもまた、きわめて革命的な帰結をもっている。「社会の物質的生産諸力は、その発展の一定段階において、それらがこれまでその内部で運動してきたところの現存の生産諸関係と、あるいはその法律的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するに至る。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に変ずる。こうして社会的革命の時代があらわれる。経済的基礎の変化とともに、巨大な全上部構造が、あるいはより緩慢に、あるいはより急激に、変革される。……ブルジョア的生産諸関係は社会的生産過程の最後の敵対的形態である。ここに敵対的というのは、個人的敵対の意味でではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生ずる敵対の意味においてである。だが、ブルジョア社会の体内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をつくりだす」。
こうしてわれわれの唯物論的テーゼをさらに追求していって、それを現代に適用すれば、ただちに、強大な革命への、あらゆる時代でもっとも強大な革命への展望が、われわれの前にひらかれるのである。
3. 人間の意識はその存在に依存する
しかしまた、より詳細な考察ですぐあきらかになることは、人間の意識はその存在に依存するのであってその逆ではないという一見してきわめて簡単な命題が、その最初の帰結においてただちに、すべての観念論を、もっとも隠蔽された観念論すらをも、じかにうちのめすということである。すべての歴史的なものについての伝来的かつ慣習的ないっさいの見解は、この命題によって否定される。政治的論議の伝統的なやり方はすべて地におちる。憂国の高潔な心は憤激して、こういう無節操な見解に反抗する。だから、このあたらしい見方は、必然的に、ブルジョア階級の代表者たちだけでなく、自由、平等、友愛( liberté, egalité, fraternité )という呪文で世界を土台からかえようとおもったフランスの社会主義者たちの群までもおこらせてしまった。その上、この見方は、ドイツの俗流民主主義的な慷慨家からも大変な激怒をかった。それにもかかわらず、彼らはこのんでこのあたらしい思想を剽窃して利用しようとこころみた。しかもまれにみる誤解をもって。
4. 唯物論的見解の歴史的事例研究について
唯物論的見解をただ一つの歴史的事例について展開するだけでも一つの科学的な仕事であり、それには数年にわたる静かな研究を必要としたであろう。というのは、このばあい、たんなる言葉だけではなんのやくにもたたないということ、大量の、批判的に精選され、完全にこなされた歴史的材料だけが、このような課題を解決することができるということは、あきらかだからである。二月革命はわれわれの党を政治的舞台になげだし、そのために、党が純粋に科学的な目的を追求することを不可能にした。それにもかかわらず、この根本的見解は、赤い糸として、党のいっさいの文献的作品をつらぬいている。
これらの文献的作品のすべてにおいて、行動はいつでも直接的な物質的動因から生じたのであって、これにともなう言葉から生じたのではないということ、反対に、政治的、法律的な言葉が、政治的な行動やその結果とおなじように、物質的動因から生じたということが、それぞれ個々のばあいについて証明されている。
5. 革命の敗北と研究の最初の成果
1848-49年の革命が敗北に終り、国外からドイツにはたらきかけることがますます不可能になる時期がやってきた時、われわれの党は亡命者同士の不断のつかみあい―というのは、これがのこされたただ一つの可能な行動であったのだ―の戦場を俗流民主主義にまかせた。俗流民主主義が思うぞんぶんおっかけあい、今日つかみあっているかと思えば、明日は仲なおりし、明後日はまた内輪同士の恥をすっかり人まえにさらけだしていたあいだに、また俗流民主主義がアメリカ中を物乞いしてあるき、そのすぐあとでかせいできたわずかばかりのお金の分配についてあらたな醜聞をひきおこしていたあいだに―われわれの党は、ふたたび研究のための余暇がいくらかできたことをよろこんだ。われわれの党は、一つのあたらしい科学的見解を理論的基礎としてもっているという大きな強味をもっており、この見解をしあげることは党にとってじゅうぶん大きな仕事であった。そのためにこそ、党は亡命の「おえらがた」のように深く堕落するわけにはいかなかったのである。
この研究の最初の成果が、われわれのまえにあるこの書物である。
<2>
6. 『経済学批判』のねらい
―経済科学の総体の体系的総括の展開は、全経済学文献の批判すること
本書のような著作においては、経済学から個々の章をとりだしてたんに脈絡もなく批判をくわえるとか、経済学上の論争問題をあれやこれやときりはなしてとりあつかうとかいうことは、問題になりえない。本書のねらいはむしろ、最初から、経済科学の総体の体系的総括に、ブルジョア的生産およびブルジョア的交換の諸法則の連繋的展開におかれている。経済学者はこれらの諸法則の通訳、弁護者にほかならないのであるから、このような展開は同時に全経済学文献の批判でもある。
7. ヘーゲルの後継者たち
ヘーゲルの死以来、一つの科学をそれ自体の内的関連において展開しようとするこころみは、ほとんどなされなかった。公認のへーゲル学派は、師匠の弁証法からもっとも簡単な技巧の操作だけをまなびとり、それをありとあらゆることに、しかもしばしばこっけいなほどの拙劣さで適用した。この学派にとっては、へーゲルの全遺産は、どんなテーマでもそのたすけをかりればうまくくみたてられるまったくの雛型にすぎず、また思想と実証的な知識とが欠けている時に都合よく姿をあらわす以外には目的をもたない言葉といいまわしとの目録にすぎなかった。そこで、あるボンの教授がいったように、これらのヘーゲリアンはなに一つ理解していないが、いっさいのものについて書くことができる、ということになった。たしかにそのとおりでもあった。だがそれでもこれらの諸君は、そのうぬぼれにもかかわらず、自分たちの弱点をはっきり意識していたので、大きな問題からはできるだけ遠ざかっていた。古めかしい旧弊な科学は、実証的知識にすぐれていたために、その地位を維持していた。そしてフォイエルバハが思弁的概念に解雇を申しわたしたときにはじめて、ヘーゲル風は次第におとろえて、古い形而上学の王国がその固定的な諸範疇をもって科学のうちに復活したようにおもわれた。
8. 自然科学的唯物論の特徴
これには、その当然の理由があった。まったくの空語にまよいこんでしまったヘーゲルの後継者たちの支配につづいて、当然に、科学の実証的内容がふたたびその形式的側面よりもおもきをなす時代がやってきた。だがそれと同時にまたドイツは、1848年以来のおどろくべきブルジョア的発展に応じて、まったく異常なエネルギーをもって自然科学に没頭した。そして、思弁的傾向にこれまでなんら重要な意義をみとめなかったこれらの自然科学の流行とともに、ふるい形而上学的思惟方法もまた、ヴォルフ流の極端に浅薄なものにいたるまで、ふたたび蔓延してきた。ヘーゲルは忘れられ、あたらしい自然科学的唯物論が発展した。この唯物論は、18世紀の唯物論と理論的にはほとんど区別がなく、ただたいていは自然科学上の、とくに化学および生理学上の材料をもっと豊富にもっているという点ですぐれているにすぎなかった。われわれは、ビュヒネルやフォークトに、先カント時代の固陋な俗物的考え方がきわめて浅薄なものになって再生産されているのをみいだす。また、フォイエルバハを信奉するモレショットでさえ、いつみてもきわめて滑稽な様子で、もっとも単純な諸範疇のあいだにはさまってうごきがとれなくなっている。凡庸なブルジョア的悟性の鈍重な挽馬は、当然にも、本質を現象から、原因を結果から分つ溝のまえで、とほうにくれてたちどまる。だが、抽象的思惟のようなひどい断絶地をしいて疾駆しようとするならば、ひとは挽馬をもちいてはならないのである。
9. 科学はどのようにとりあつかわるべきであったか?
― ヘーゲルの方法
こうしてここでは、経済学それ自体とはなんの関係もない他の一つの問題が解決されなければならなかった。科学はどのようにとりあつかわるべきであったか? 一方には、ヘーゲルがのこしたままのまったく抽象的、「思弁的」なすがたにおけるヘーゲルの弁証法があり、他方には、ありきたりの、いまやふたたび流行となった、本質的にヴォルフ的=形而上学的な方法があって、ブルジョア経済学者たちもまたこの方法で彼らの支離滅裂なぶあつい本を書いていた。後者は、カントととくにへーゲルによって理論的にうち破られていたので、ただ惰性と他の簡単な方法のなかったことが、その実際上の存続を可能にしえたのである。他方、ヘーゲルの方法は、そのままの形態では絶対に役にたたなかった。それは本質的に観念論的であったが、ここで必要なことは、これまでのすべての世界観よりもいっそう唯物論的な世界観を展開することであった。ヘーゲルの方法は純粋思惟から出発したが、ここでは、もっともうごかしがたい諸事実から出発さるべきであった。それ自身の告白によれば「無から無をつうじて無にいたった」ところの方法は、このすがたのままではこのばあいまったく不適当であった。それにもかかわらず、この方法は、現存のすべての論理的用具のうちで、すくなくとも結びつきうる唯一のものであった。この方法は批判されてもいなければ、克服されてもいなかった。この偉大な弁証法家の論敵のうちだれ一人としてこの方法の壮大な構造に破口をうがちえたものはなかった。この方法がわすれられたのは、ヘーゲル学派がそれをどうすることもできなかったからである。だから、なによりもまず必要なことは、ヘーゲルの方法を徹底的な批判にゆだねることであった。
10. ヘーゲルの考え方
ヘーゲルの考えかたを他のすべての哲学者のそれから特徴づけるものは、その基礎によこたわる偉大な歴史的精神であった。その形態がいかに抽象的であり、観念論的であるにしても、彼の思想の展開はつねに世界史の発展と平行してすすみ、そして後者は本来ただ前者の証明でなければならなかった。たとえただしい関係がそれによってゆがめられ、かつさかだちさせられたとしても、やはりいたるところで実在的内容が哲学のなかにはいりこんでいた。ましてヘーゲルは、彼の弟子たちのように無知をほこることなく、あらゆる時代をつうじてもっとも博学な頭脳の一人であったという点で彼らとはちがっていたのであるから、なおさらそうなったのである。彼は歴史のうちに一つの発展を、一つの内的関連を立証しようとこころみた最初の人であって、彼の歴史哲学のうち多くのものが今日われわれにどんなに奇妙におもわれようと、根本的見解自体の壮大さは今日でもなお驚嘆にあたいする。彼の先駆者や彼のあとで歴史について一般的省察をあえてした人々を彼と比較してみるがいい。現象学においても、美学においても、哲学史においても、いたるところこの偉大な歴史観がつらぬかれており、いたるところで素材が歴史的に、すなわち抽象的にゆがめられてはいても歴史との一定の関連においてとりあつかわれている。
11. 弁証法-画期的な歴史の見方
この画期的な歴史の見方は、あたらしい唯物論的見解の直接の理論的前提であった。そしてすでにこのことによって、論理的方法にとってもまた一つの接合点が生じたのである。この忘れられた弁証法が、すでに「純粋思惟」の立場からこのような諸結果に到達していたし、なおそのうえに、それが従来の論理学と形而上学のすべてをやすやすと始末していたのであるから、弁証法にはいずれにしても詭弁や穿鑿(せんさく)以上のものがあるにちがいなかった。だが、この方法の批判は、いっさいの公認哲学が躊躇してきたし、またいまもなお躊躇しているものであって、けっして容易なことではなかったのである。
12. マルクス ― ヘーゲル論理学・弁証法的核の “方法の完成”
マルクスは、ヘーゲルの論理学の皮をむいて、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見を包有している核をとりだし、かつ弁証法的方法からその観念論的外被をはぎとって、それを思想の展開の唯一のただしい形態となる簡明な姿につくりあげる、という仕事をひきうけえた唯一の人であったし、また唯一の人である。マルクスの経済学批判の基礎によこたわる方法の完成を、われわれはその意義においてほとんど唯物論的根本見解におとらない成果であると考える。
13. 「経済学の批判」のマルクスの方法―「歴史的に、論理的に」
すでに獲得された方法によってさえ、経済学の批判はなお二様に、すなわち歴史的または論理的におこなうことができた。歴史においても、その文献上の反映においても、発展は、概してもっとも単純な諸関係からより複雑な諸関係にすすんでいくのであるから、経済学の文献史的発展は、批判がむすびつきうる自然なみちびきの糸をあたえ、そしてそのばあいに経済学的諸範躊は、概して、論理的展開におけると同じ序列であらわれるであろう。この形態は、まさに現実の発展が追求されるのであるから、一見より明瞭だという長所をもっている。だが実際には、この形態はそれによってせいぜいより通俗的になるにすぎないであろう。歴史はしばしば飛躍的にかつジグザグにすすむのであって、このばあい、さほど重要でない多くの材料がとりあげられねばならないばかりでなく、思想の道程もしばしば中断されねばならないのはなんのためかということが、いたるところで追求されなければならないであろう。そのうえに、経済学の歴史はブルジョア社会の歴史なしにはかかれえない。したがって仕事はかぎりのないものとなるであろう。というのはあらゆる準備の仕事が欠けているからである。こうして論理的なとりあつかいかただけがふさわしいものであった。ところがこの論理的なとりあつかいかたは、じつは、ただ歴史的な形態と攬乱的な偶然性とをはぎとった歴史的なとりあつかいかたにほかならない。この歴史のはじまるところから。おなじく思想の道程がはじまらなければならない。そしてその後のこの道程の進行は、抽象的で理論的に一貫した形態での歴史的経過の映像にほかならないであろう。だがこの映像は、修正された映像であり、それぞれの契機が完全に成熟し、典型的に発展したところで考察されうることによって、現実の歴史的経過そのものが示す諸法則にしたがって修正されたものである。
14. 経済的関係から新しい関係の設定 ーレトリック論(1)ー
この方法ではわれわれは、歴史的に、事実上われわれのまえにある最初の、そしてもっとも単純な関係から、したがっていまのばあいには、われわれのみいだす最初の経済的関係から出発する。この関係をわれわれは分析する。それが一つの関係であるということのうちに、すでに、それが相互に関係しあう二つの側面をもつということがふくまれている。これらの側面のそれぞれは、それ自体として考察される。そこから、それらがたがいに関係しあうしかた、それらの交互作用があらわれる。解決を要求する諸矛盾が生じるであろう。だがわれわれがここで考察するのは、われわれの頭のなかだけで生じる抽象的な思想過程ではなくて、いつのときにか実際に生じた、あるいはいまなお生じつつある現実の事象であるから、これらの矛盾もまた実際に発展して、おそらくその解決をみいだしているであろう。われわれはこの解決のしかたを追求しよう。そうすれば、それが一つのあたらしい関係の設定によっておこなわれたこと、このあたらしい関係の相対立する二つの側面を、いまやわれわれが説明しなければならないことなどが、わかるであろう。
15. 経済学は物を取り扱うのではなく、人と人との関係、階級と階級の関係をあつかう
経済学は商品をもって、すなわち、諸生産物―それが個々人のものであれ、原生的共同体のものであれ―が相互に交換されるのを契機としてはじまる。交換にはいりこむ生産物は商品である。だが生産物が商品であるのは、ただ、生産物という物に、二人の人間または二つの共同体のあいだの関係が、このばあいはもはや同一個人のなかに結合されていない生産者と消費者のあいだの関係が、むすびつくからである。ここにわれわれはただちに、全経済学をつらぬき、ブルジョア経済学者たちの頭脳に有害な混乱をひきおこした一つの特有な事実の一例をもつのである。経済学は物をとりあつかうのではなく、人と人との関係を、究極においては階級と階級とのあいだの関係をとりあつかうのである。だがこれらの関係は、つねに物にむすびつけられ、物としてあらわれる。もちろんこの関連は、個々のばあいには、若干の経済学者たちにぼんやりとわかっていたのであるが、それが経済学全体に妥当することをマルクスがはじめて発見し、それによってもっとも困難な諸問題をひじょうに簡単明瞭にしたので、いまやブルジョア経済学者たちでさえもそれを理解することができるであろう。
16. 経済学上の論争― 使用価値と交換価値の展開
ドイツ弁証法の「歴史的に」「論理的展開」ーレトリック論(2)ー
さてわれわれが、商品を、しかも二つの原始的共同体間の原生的な物々交換においてかろうじて発展したばかりの商品ではなく、完全に発展しつくした商品を、そのことなる側面について考察するならば、それはわれわれに、使用価値と交換価値という二つの観点のもとにあらわれる。そしてここでわれわれは、ただちに経済学上の論争の領域にはいりこむのである。こんにちの完成した段階にあるドイツの弁証法的方法が、ふるい浅薄な居酒屋談義的な形而上学的方法よりすくなくとも、鉄道と中世の運輸手段とがくらべものにならないくらいに、すぐれているということについて適切な実例をしりたいとおもう人は、アダム・スミスあるいはその他だれか名声ある公認経済学者が、交換価値と使用価値にどんなになやんだか、またそれらを整然と区別し、それぞれをそれに独自の明確さにおいてとらえることが彼らにとってどんなに困難であるかを、彼らの書物でよみ〔編集部注1〕、その上でマルクスの明瞭で簡単な説明と比較してみればよい。
17. 物々交換の不可能性と貨幣商品による解決
ところで、使用価値と交換価値とが展開された後、商品は、それが交換過程にはいりこむと、この二つのものの直接的統一としてあらわされる。どんな諸矛盾がここで生じるかは、38、39頁(『経済学批判』新潮社版p.71-72〔注2〕)を参照されたい。ただここで注意しておきたいのは、これらの矛盾は、たんに理論的、抽象的に興味があるばかりでなく、同時に、直接的な交換関係、単純な物々交換の性質から生じる諸困難を、すなわち交換のこの最初の粗硬な形態が必然的におちいる不可能を反映しているということである。こうした不可能の解決は、他のすべての商品の交換価値を代表する属性が特殊な一商品
― 貨幣 ― にゆだねられるということのうちにみいだされる。貨幣あるいは単純な流通は、そこで第2章に展開される。しかも、(一)、価値の尺度としての貨幣、そこではさらに貨幣ではかられた価値、すなわち価格が、より詳細な規定をうける。(二)、流通手段としての貨幣、および(三)、この二つの規定の統一としての、現実の貨幣としての、物質的、ブルジョア的富全体の代表者としての貨幣が展開される。これで第1分冊の展開はおわり、貨幣の資本への転化は第2分冊に留保されている。
18. 論理的展開は、歴史的説明―現実との不断の接触を必要とする
この方法では、論理的展開は、純粋に抽象的な領域にとどまる必要はまったくないことがわかる。反対にそれは、歴史的説明を、現実との不断の接触を必要とする。だからまた、このような例証がきわめて多様に挿入されており、しかも社会的発展の種々の段階における現実の歴史的経過についても、また経済学の文献についても指示がなされている。そしてこれらの指示のうちに経済的諸関係にかんする諸規定の明確なしあげがはじめから追求されている。個々の多かれすくなかれ一面的な、あるいは混乱したとらえかたの批判は、このばあい、本質的にはすでに論理的展開自体のうちにあたえられており、また約説されうるのである。
第3の論説では、われわれはこの書物の経済学的内容そのものにたちいるであろう*。
*この第3の論説は、新聞の発行が停止されたためにもはやかかれなかった。
1859年8月6日および20日づけのドイツ語週刊紙『フォルク』(ロンドン)にのせられた書評。
底本には、Karl Marx, Zur Kritik der politischen konomie. Dietz Verlag, 1951. 所収のものを使用した。・・・翻訳者・・・
・・・以上で、『経済学批判』について、終わり・・・