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資本論用語事典2021 2017資本論入門10月号
「資本の経済学」と 資本物神性の成立過程 

古典派経済学の「労働価値説」
機械的怪物Ungeheuer の出現
 資本の経済学(2) 2023.08.05 機械的怪物
資本物神性の成立-

    使用価値の 「抽象化(捨象)  過程
   ― 資本の生産過程と G―W―G´資本の経済学」形成過程 -

機械によって機械を生産する一つの機械的怪物が現われ、「客観的な生産有機体」の成立・資本主義的蓄積の一般的法則ー資本の経済学(いわゆるマルクス経済学)の成立

資本物神性と「使用価値」概念の解体・変容


   資本論ワールド 序文

1. 「巨大なる ungeheure」から「機械的怪物Ungeheuer 」へ
    G―W―G´資本の経済学(2)

A 第1章第1節 冒頭 「巨大なる ungeheure 商品集積」

  冒頭商品に「巨大なる ungeheure 商品集積〔商品集合、商品の集まり〕 Warensammlung」とあります。 このドイツ語 un・geheure の 「un」 は、形容詞につけてその反対・否定を意味しますので、 「 geheure (geheuer) :親しめる、 なじんだ 」 などの反対語となります。このようにいったん理解してから、「ungeheure(ungeheuer) 」 の単語を調べなおすと、 以下の訳語に出くわします。
  ungeheuer:(形容詞)
 1. とほうもない、ものすごい、恐ろしい、非常な
 2. 薄気味悪い、不気味な、(nichit geheuer:geheuerでない)
 さらに名詞形 Ungeheuer として 〔Uが大文字〕
  1. 怪物、怪獣
  2. 巨大なもの
  となります。(以上、小学館大独和辞典)
  したがって、「巨大なる商品集積」は、「ものすごい、恐ろしい(怪物的な)商品の集まり(商品集合)」として現われることになります。この文脈は直接的には、第4節の「商品の物神性」への導入・布石となっています。 この観点が、いままで見過ごされていました。というのも、『資本論』第1版では、-『経済学批判』と同じように-第1章は、第2版とは違って「節」ごとに区分されていません。
  第2版でマルクスは、「妖怪のような対象性」 を追加することで、節をまたがって 「ungeheuer 文脈の継続性」 を明示することを行なっているのです。
すなわち、

 ① 「 われわれはいま労働生産物の残りを調べてみよう。もはや、妖怪のような同一の対象性以外に、すなわち、 無差別な人間労働の、いいかえればその支出形態を考慮することのない、人間労働力支出の、単なる膠状物 Gallert というもの以外に、労働生産物から何物も残っていない。」(第1節 岩波文庫p.73)
 そしてこの「妖怪文脈」は、第4節 商品の物神性 へと続いてゆきます。

 ② 「それゆえに、商品生産にもとづく労働生産物を、はっきり見えないようにしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移って見ると消えてなくなる。」 (第14節 岩波文庫p.137)のである。

 さらに、第5章 労働過程と価値増殖過程の第2節 価値増殖過程 第25段落では、いよいよ「怪物 Ungeheuer」が登場します。
   生気ある怪物 Ungeheuer に転化する

 ③ 「 資本家は、新たな生産物の素材形成物として、または労働過程の諸因子として役立つ商品に、貨幣を転化することによって、諸商品の死んだ対象性に生きた労働力を合体させることによって、価値を過去の対象化された死んだ労働を、資本に、自分自身を増殖する価値に、胸に恋でもあるように “作業し”はじめる生気ある怪物 Ungeheuer に、転化するのである。」(岩波文庫(二)p.37)


 B 機械的 mechanisches 怪物Ungeheuer の登場

 そして、第13章 機械装置と大工業 第1節 機械装置の発達 「機械経営」では、
 ④ 「 配力機装置を介してのみ中心的な自動装置からそれぞれの運動を受取る諸作業機の組織された体系となれば、機械経営はそのもっとも発達した態容(Gestalt:すがた)をもつことになる。ここでは個々の機械にかわって一つの機械的 mechanisches 怪物Ungeheuer が現われ、その体躯は工場の建物をいっぱいに充たし、そしてその悪魔的な力は、初めは、その巨肢の荘重ともいうべき整った運動によって隠されているが、その無数の本来の作業器官の熱病的な狂想旋舞において爆発する。」 (岩波文庫(二)p.341)に至ります。

 ⑤ 労働手段が機械装置として受取る物的存在様式は、自然力をもって人間力に代え、自然科学の意識的応用をもって経験的熟練に代えることを必然にする。工場手工業においては、社会的労働過程の構成は純主観的であり、部分労働者の組合せである。機械体系において大工業は、労働者にたいして、既成の物的生産条件として存在する、一つの全く客観的な生産有機体をもつことになる。
 機械装置は、直接に社会化された労働、すなわち、共同的な労働によってのみ機能する。かくていまや、労働過程の協業的性格は、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然性となる。

 

 ・関連質料
 0. 資本主義的蓄積の一般的法則 機械装置と機械的怪物Ungeheuer の出現
     http://www.marx2016.com/bs_ungeheure_roudousya.html
 1.『資本論』の社会的分業とヘーゲル市民社会の「労働の分割(分業)」
        http://www.marx2016.com/ht_hegel_bungyou.html
 2. コラム15>『国富論』における市民社会の概念と分析視角
      ・内田義彦『経済学の誕生』 /  『経済学史講義』
       http://www.marx2016.com/kk_utida_keizaigakunotanjyou.html
 3. HP2019資本論用語事典2021 小島レポート(1)
      マルクス生誕200年記念 特別報告 2018.10.20
            『資本論』の物神性について(1)
       http://www.marx2016.com/000.html
 4. 向坂逸郎著『マルクス経済学の方法』 と 「方程式論       
   http://www.marx2016.com/bs_sakisaka_marx-keizaigakunohouhou.html
      *比例関係と方程式論の歴史的形成過程(3)
            ーヘーゲル比例論と方程式論の歴史的形成過程
 5. 労働力商品と資本の経済学
      ① 労働力商品の ”使用価値” と価値
      ② 資本の経済学-第3篇絶対的剰余価値の生産
 6.『資本論』第1巻第4編 相対的剰余価値の生産
      第11章 協 業と第13章 機械装置と大工業2017.10.03
      https://www.marx2016.com/bs011_sihon-seisankatei01.html


   資本論ワールド 編集部

 Ⅰ  『資本論』は、次の宣言で始まっています。
  「 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「 巨大なる商品集積(注1)」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態 〔Elementarform:元素の形式〕 として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。 」 
 この宣言の形式・内容には、ある特徴が伺えます。
 まず、「巨大なる商品集積(注1)」の(注1)では、マルクス自身の『経済学批判』の参照を指示しています。
 次に、『経済学批判』の冒頭文章で ー 「市民社会(ブルジョア社会)の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在sein elementarisches Daseinであることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値(注1)という二重の観点で現われる。」 ―― このように、「使用価値と交換価値(注1)」の(注1)で、古代ギリシャ・紀元前4世紀のアリストテレスの著作が引用されています。
  「 何故かというに、各財貨の使用は二重になされるからである。・・・・その一つは物そのものに固有であり、他の一つはそうではない。例えていえば、サンダ ルの使用は、はきものとして用いられると共に交換されるところにある。両者共にサンダルの使用価値である。何故かというにサンダルを自分のもっていないもの、例えば食物と交換する人も、サンダルを利用しているからである。しかし、これはサンダルの自然的な使用法ではない。何故かいうに、サンダルは交換されるためにあるのではないからである。他の諸財貨についても、事情はこれと同じである。」(アリストテレス 『国家について』 )  すなわち、(1) 『資本論』の(注1)で『経済学批判』を参照し、 (2) 『経済学批判』の(注1)でアリストテレスの著作『国家について』(現行アリストテレス全集では『経済学』)の参照を指示しています。(1)と(2)の注で、共通している点と相違点が伺える道具立てが行われています。

 共通点- 『資本論』と『経済学批判』 ①個々の商品はこの富の成素形態・成素的存在.  ② 商品の分析-使用価値と交換価値(注1)という二重の観点.
 相違点-『資本論』と『経済学批判』では、「使用価値と交換価値(注1)」の二重の観点ですが、アリストテレスでは、「サンダルは交換されるためにあるのではないから、自然的な使用法ではない」として、交換価値の観点が“あいまいの扱い”にしています。(しかしながら、『経済学批判』後段の(注12)(新潮社版p.71)では、改めて「使用価値と交換価値」の関連を規定し直しています。)  

 Ⅱ  さて、資本論ワールド探検隊では、『資本論』冒頭宣言から一連の 【 『資本論』-『経済学批判』-アリストテレス引用 】 の流れを通して、叙述形式に共通している“特徴”を観察しています。 それは、ヘーゲルの弁証法論理学を骨格にしながら歴史的に、論理的に」(エンゲルス『経済学批判』について参照)相関関係として「すじ道を展開する形式」を採用していることです。   「 本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。・・・」(ヘーゲル『小論理学』§135補遺 岩波文庫p.64)


 Ⅲ 資本主義的生産の発展資本物神性と「使用価値」概念の変容
   
ー ① 労働力商品の”使用価値”と価値  ② 資本の経済学 ー

 
『資本論』 第1章第1節の冒頭で 「1-1 資本主義的生産様式の支配的である*1 社会の富は、「*2 巨大なる商品集積」として現われ、個々のeinzelne 商品はこの富の*3 成素形態 〔Elementarform:元素形式〕 として*4 現われる erscheint。したがって、われわれの研究は*4商品の分析をもって始まる。

1.  資本物神性の成立は、マニュファクチャ期を通じて、労働生産物商品の使用価値」概念が解体・変容してゆきます。 そして、「価値形成過程」で、「自己過程的な、自動的な実体として」 価値が資本となります。
 使用価値の抽象
(度外視)過程 は、マニュファクチャ期の商品生産では、部分労働の独立化(商品化)の生産物が出現した商品分析の価値概念の形成期ー重商主義段階-にあたります。

 この部分労働による商品生産の抽象化に対して、ペティ以来アダム・スミスやリカードにいたる古典派経済学者たちは、「価値そのものについていえば、明白にそして明瞭な意識をもって、価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示しめされている同じ労働から、区別することをしていない。古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。」(『資本論』第1章注31.岩波文庫p.144)

2.  古典派経済学が当面している、この過程を追体験してゆくことが、『資本論』の研究課題-“価値概念の発展・進化”-となっています。
 第1に、重商主義から資本主義への成長転化過程を「労働価値」説/論の発展として探索してゆきます。
 第2に、「資本関係の成立」ー労働力商品と資本の経済学ーから「相対的剰余価値の生産」を探究します。  
 第3に、マニュファクチャ(工場手工業)は、完成品としての「商品」から「半製品商品(注:中間製品)」の出現により、使用価値の「抽象化」/価値態への移行-を実現します。(『資本論』批判家たちが指摘する-『資本論』の“蒸留法”(仮象)の価値存在の正体Daseinダーザインが現象してきます。 
  詳細については 「第4節 マニュファクチャの分業と社会内の分業」 参照してください
 第4に、機械装置と大工業の成立による「 機械的怪物 mechanisches Ungeheuer 」が出現します。究極的な「資本物神性」によって、資本主義社会は、歴史的な「商品Warenart」(歴史的に限られた生存寿命のある“生物種”) として完成します。


3.
  『資本論』第1章から始まる「商品と価値」の叙述形式は、資本関係の成立によって、「価値」が自己過程的な価値となり、自己過程的の貨幣G-W-G′として資本となります。ペティからジェームズ・スチュアートにいたる「商品分析」は、マニュファクチャと産業革命期・・・使用価値生産の増大から大工業の隆盛―自己過程的な、自己増殖する自動的な実体・・・を通じて、アダム・スミスやリカードを経由しながら、マルクスによる「資本の経済学」として生成・発展してゆきます。
 『資本論』は、これら一連の歴史的な経済過程の「商品と価値」を歩みながら、「歴史的に、論理的に生産有機体の成長過程として探究してゆきます。私たちも「重商主義から資本主義への道すじ」をたどりながら、「商品・貨幣・資本の物神的性格の生長」を解明してゆきます。
 なお、現代考古学-認知考古学の歴史的成果を経て、コリン・レンフル-理論では、古代社会から商品流通による貨幣形成にいたる一連の「制度的事実」,「物質的象徴」,「物質的関与」によって“価値概念”を構築しています。「歴史的に、論理的に」 神秘的な物神性論が白日の下に解明されています。


4.
  資本制生産では、以下の歴史的な経済過程をたどってゆきます。

   (目次)
    
 重商主義から資本主義へ
 1. 商品流通(第3章)
 2. 労働力商品と貨幣の資本への転化 (第4章)
    G―W―G´ 「資本の経済学」の形成過程
  
 マニュファクチャから産業革命と大工業へ ー相対的剰余価値の生産ー
 3. 協業 (第11章)
 4. 分業とマニュファクチャ (第12章)
  5. 機械装置と大工業 (第13章)

  (6.価値実体の隠ぺい・労働の価値)


  1. 商品流通・・・商品と貨幣の物質代謝

 「 交換過程は、商品の商品と貨幣とへの二重化を生ぜしめる、すなわち、諸商品は使用価値として、交換価値としての貨幣に相対する。商品は現実に使用価値である。その価値たることは、ただ観念的に価格に現われる。価格は、商品を、その実在的な価値態容として対立する金に、関係せしめる。逆に、金材料は価値体化物として、貨幣としてのみ働いている。したがって、貨幣は現実に交換価値である。その使用価値は、ただ観念的に相対的な価値表現の序列の中に現われるにすぎない。この表現において貨幣は、相対する諸商品に、これをその現実的な使用態容の全範囲として関係する。
商品のこれらの対立的な形態は、その交換過程の現実的な運動形態である。商品の交換過程は、こうしてつぎのような形態変化をなして遂行される。
    商品-貨幣-商品
      W - G - W
 W-Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容からいえば、社会的労働の物質代謝であって、その結果としてこの過程自身が消滅する。」 (岩波文庫第3章p.186)



  2. 貨幣の資本への転化
   
G―W―G´ -「資本の経済学」の形成過程
   
   商品の特別なる使用価値は解消”

 「 商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通である商業は、資本の成立する歴史的前提をなしている。世界商業と世界市場は、16世紀において、資本の近代的生活史を開始する。・・・
われわれには、第二の特殊なちがった形態がある。すなわちG-W―Gのという形態であり、貨幣の商品への転化および商品の貨幣への再転化であって、売るために買うことである。この後の方の流通を描いて運動する貨幣は、資本に転化され、資本となる。そしてすでにその性質からいえば、資本である。G-W-Gなる流通においては、両極は同一経済形態をもっている。それは双方ともに貨幣である。・・・
したがって、何ら質的にちがった使用価値ではない。なぜかというに、貨幣はまさに商品の転化した態容であって、この中では、商品の特別なる使用価値は解消している。 (岩波文庫第4章p.261)

  こうして、価値は自己過程的の価値となり、自己過程的の貨幣となる。そしてこのようなものとして、資本となる。価値は流通から出てくる。再びそこにはいる。その中に自己を保持し、殖える。ここから増大して帰ってくる。そして同一の循環を、つねにまた始める。G-G′貨幣をはらむ貨幣―お金を生むお金―として、資本は、その最初の翻訳者である重商主義者の口を通じて、描かれている。」 (同第4章p.271)



  
3. 協業
・・・協業者としては、一つの活動有機体の分肢
     ー第4篇相対的剰余価値の生産 第11章 協業ー
 
 「 資本主義的生産は、実際には、同一の個別資本が、比較的多数の労働者を同時に使用し、したがって、労働過程がその範囲を拡張して、比較的大きい量的規模で生産物を供給するばあいに、はじめて始まる。
 
労働様式はかわらなくても、比較的多数の労働者を同時に使用することは、労働過程の対象的諸条件における一つの革命を引起こす。その中で多数の者が労働する建物、原料等のための倉庫、多数の者に同時または交代に役立つ容器、器具、装置等々、要するに生産手段の一部分が、いまや労働過程で共同に消費される。(中略)
 共同に利用される生産手段の価値は、一般にそれらの規模と利用効果に比例しては、増大しない。・・・
 生産手段の節約は、一般に二重の見地から考察されるべきである。一方では、それらが商品を低廉にし、そのことによって労働力の価値を低下させるかぎりにおいて。他方では、それらが前貸しされた総資本にたいする、すなわちその不変的構成部分と可変的構成部分との価値総額にたいする、剰余価値の比率を、変化させるかぎりにおいて。・・・・(『資本論』(2)(岩波文庫p.253))
 同一の生産過程において、または相異なってはいるが関連のある諸生産過程において、計画的に相並び、相協力して、労働する多数者の労働の形態を、協業という。

 まず第一に、資本主義的生産過程の推進的動機と規定的目的は、能(あと)うかぎり大なる資本の自己増殖、すなわち能うかぎり大なる剰余価値生産であり、したがって、資本家による労働力の能うかぎり大なる搾取である。・・・・
 したがって、資本家の指揮は、一面では生産物の生産のための社会的労働過程であり、他面では、資本の価値増殖過程であるという、指揮さるべき生産過程そのものの二重性のために、内容から見れば二重的であるとしても、形式から見れば専制的である。・・・
 ・・・・労働過程に入るとともに、労働者は資本に合体されている。協業者としては、一つの活動有機体の分肢としては、彼ら自身は、資本の一特殊存在様式たるに過ぎない。したがって、労働者が、社会的労働者として展開する生産力は、資本の生産力である労働の社会的生産力は、労働者が、一定の諸条件もとに置かれたときに、無償で展開されるのであり、そして資本が彼らをこのような諸条件のもとに置くのである。」 (同第11章p.267)



  4. 第12章 分業と工場手工業 マニュファクチャ
    ・
部分労働の現物としての使用価値の解体

 「 分業に基づく協業は、マニュファクチャにおいて、その典型的な態容(かたち)をつくり出す。それが資本主義的生産過程の特徴的形態として支配的に行われるのは、約16世紀の半ばから18世紀の最後の3分の1期に至る、本来の工場手工業時代のことである。」 (同第12章p.272)


  ■社会内の分業と作業場内の分業
 「 しかし、社会内の分業と作業場内の分業とのあいたには、多くの類似と関連とがあるにもかかわらず、両者は、程度のみではなく、本質をもことにする。類似が、もっとも明瞭に争いがたきものに見えるのは、一つの内部的紐帯(ちゅうたい)が、種々の業種を組み合わせているばあいである。たとえば、飼畜業者は皮を生産し、製革業者は皮を革(なめしがわ)に、製靴業者は革を深靴に転化する。このばあいには、各業者は、一つの段階生産物を生産するのであって、最終の完成態容は、彼らの特殊労働の結合生産物である。
 さらに、飼畜業者、製革業者、製靴業者に、生産手段を供給する種々の労働部門がある。そこで人々は、アダム・スミスとともに、この社会的分業は、ただ主観的にのみ、マニュファクチャ的分業と区別される、と考えることもできる。すなわち、マニュファクチャ的分業のばあいには、種々の部分労働が、一見して空間的にひとまとめに見られるが、社会的分業のばあいには、部分労働が、広い面積の上に散在していることと、各特殊部門の従業者数の大きいこととによって、関連が不明にされているというように、観察者にとってのみ区別される、と(注57)



  ■社会内分業は生産物・商品が媒介
 「 しかし、飼畜業者、製革業者、製靴業者のそれぞれ独立の労働のあいだに、関連を生ぜしめるものは何か? 彼らのそれぞれの生産物の商品としての存在(ダーザイン)である。これにたいして、マニュファクチャ的分業を特徴づけるものは何か? 部分労働者が、何らの商品をも生産しないということである注58部分労働者の共同生産物が、はじめて商品に転化する(注58a)」。 (同第12章p.301)





  5. 機械装置と大工業
    ・
個々の機械にかわって、一つの機械的
怪物

「 すべての発達した機械装置は、三つの本質的に異なる部分から成る
動力機、配力機構、最後に道具機、または作業機がそれである。動力機、配力機構のこの両部分は、道具機が労働対象を捉えて、これを目的に合致するように変化させうるように、道具機に、運動を伝えるためにのみ存在する。機械装置のこの部分、道具機こそ、18世紀の産業革命がそこから出発するものである。」 (同第13章p.328)・・・
 「 配力機装置を介してのみ、中心的な自動装置から、それぞれの運動を受取る諸作業機の組織された体系となれば、機械経営はそのもっとも発達した態容をもつことになる。ここでは個々の機械にかわって、一つの機械的怪物が現われ、その体躯は、工場の建物をいっぱいに充たし、そしてその悪魔的な力は、初めは、その巨肢の荘重ともいうべき整った運動によって、隠されているが、その無数の本来の作業器官の熱病的な狂騒旋舞において爆発する。」 (同p.341)・・・

 「 かくして、大工業は、その特徴的な生産手段である機械そのものを、自己の支配下に置き、機械によって機械を生産せざるをえなかった。かくて初めて、大工業はそれに適合する技術的基礎を創出して、自分自身の足で立ったのである。19世紀の最初の数十年間における機械経営の増大とともに、機械装置は、実際に道具機の製造を、次第に支配するにいたった。」 (同p.345)・・・
 「 機械体系において大工業は、労働者にたいして、既成の物的生産条件として存在する、一つの全く客観的な生産有機体をもつことになる。・・・機械装置は、直接に社会化された労働、すなわち、共同的な労働によってのみ機能する。かくていまや、労働過程の協業的性格は、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然性となる。」 (同p.348)


 6. 価値実体の隠ぺい・システム-資本制生産における“労働力商品”の物神性
   第17章 労働力の価値または価格の労働賃金への転化

 「 ブルジョア社会の表面においては、労働者の賃金は、労働の価格として、一定量の労働にたいして支払われる一定量の貨幣として、現われる。ここでは労働の価値ということが言われ、この価値の貨幣表現が、労働の必要価格、または自然価格と呼ばれる。多面では、労働の市場価格、すなわち、その必要価格を上下して変動する価格が論じられる。」(岩波文庫(三)p.49)
 「商品市場で直接に貨幣所有者に相対するものは、実際には、労働ではなく労働者である。労働者が売るのものは、その労働力である。彼の労働が現実に始まるや否や、それはすでに彼のものではなくなり、したがって、もはや彼によって売られることはできない。労働は価値の実体であり、価値の内在的尺度であるが、それ自体は何らの価値をももたない。」(岩波文庫(三)p.52)
 「労働の価値」という表現においては、価値概念が全く消し去られているのみではなく、その反対物に転倒されている。それは一つの想像的表現であって、たとえば土地の価値というようなものである。しかし、これらの想像的表現は、生産関係そのものから生ずる。それらは本質的な諸関係の現象形態を示す範疇である。・・・」
(岩波文庫(三)p.52)

 ・・・以上、 資本主義的生産の発展過程の概要、終わり・・・

   ***   ***   ***




資本論用語事典2021
  資本物神性
の成立過程






   使用価値の「抽象化(捨象)」過程と
      資本物神性の成立 


  目次
  第1部 重商主義から資本主義へ ― 第3章 貨幣または商品流通
    第1章 商品流通 
    第2章 貨幣の資本への転化・・・価値は自己過程的の価値となり、自己過程的の貨幣となる
  
  第2部 マニュファクチャから産業革命と大工業の成立
        ・・・相対的剰余価値の概念と機械装置の発達・・・
    第3章 協業 (第11章)
    第4章 分業とマニュファクチャ(第12章)
        ・・・使用価値の抽象化と人間労働の部分労働化
    第5章 機械装置と大工業(第13章)
        ・・・機械によって機械を生産する一つの機械的怪物


 

  第1部 重商主義から資本主義へ ― 第3章 貨幣または商品流通

    第1章 商品流通 

  1) 商品の物質代謝

 交換過程は、諸商品を、それが非使用価値である持ち手から、使用価値となる持ち手に移すかぎり、社会的な物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他のそれと代わる。商品はひとたび使用価値として用いられる個所に達すると、商品交換の部面から消費の部面にはいる。ここでわれわれの関心事となるのは、前の方の部面のみである。したがって、われわれは全過程を、その形式的側面から、したがって、ただ商品の形態変化または社会的物質代謝を媒介する、その変態をのみ、考察しなければならぬ。


 
  2) 交換過程―商品の二重化

 商品は、まず最初は金メッキもされないで、砂糖もふりかけられないで、あるがままの姿で交換過程にはいる。交換過程は、商品の商品と貨幣とへの二重化を生ぜしめる、すなわち、一つの外的な対立を生ぜしめる。この対立の中に、商品は、使用価値と価値の内在的対立を示しているのである。この対立において、諸商品は使用価値として、交換価値としての貨幣に相対する。他方において、対立の両側は商品である。したがって、使用価値と価値の統一である。しかしながら、この差別の統一は、両極のおのおのにおいて逆に表示されている。そしてこのことによって、同時に、両極の相互関係が示されているのである。商品は現実に使用価値である
その価値たることは、ただ観念的に価格に現われる
。価格は、商品を、その実在的な価値態容として対立する金に、関係せしめる。逆に、金材料は価値体化物として、貨幣としてのみ働いている。したがって、貨幣は現実に交換価値である。その使用価値は、ただ観念的に相対的な価値表現の序列の中に現われるにすぎない。この表現において貨幣は、相対する諸商品に、これをその現実的な使用態容の全範囲として関係する。商品のこれらの対立的な形態は、その交換過程の現実的な運動形態である。


  3) 商品の形態変化 W-G-W

 この全過程は、ただ彼の労働生産物を他の人の労働生産物と交換すること、すなわち生産物交換を媒介するだけである。 商品の交換過程は、こうしてつぎのような形態変化をなして遂行される。

    商品-貨幣-商品
      W-G-W

 W-Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容からいえば、社会的労働の物質代謝であって、その結果としてこの過程自身が消滅する。 W-Wすなわち、商品の第一の変態または売り。商品価値の商品体から金体への飛躍は、私が他のところで名づけたように〔岩波文庫版『経済学批判』110ページ〕、商品のSalto mortale〔生命がけの飛躍〕である。この飛躍が失敗すれば、商品は別に困ることもないが、商品所有者は恐らく苦しむ。
社会的分業は、彼の労働を一方的に偏せしめると同時に、彼の欲望を多力面にする。まさにこのゆえに、彼の生産物が彼にとって用をなすのは、交換価値としてだけであることになる。しかしその生産物が一般的な社会的に通用する等価形態を得るのは、貨幣としてだけである。




   第2章 貨幣の資本への転化 

     (『資本論』第2篇第4章第1節資本の一般定式)


  1 商品流通と資本

 商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通である商業は、資本の成立する歴史的前提をなしている。世界商業と世界市場は、16世紀において、資本の近代的生活史を開始する。 商品流通の素材的内容、すなわち各種使用価値の交換は、これを見ないことにして、この過程が作り出す経済的な諸形態のみを考察するならば、われわれはその最後の生産物として貨幣を見出す。商品流通のこの最後の生産物は、資本の最初の現象形態である。

 歴史的には資本は、土地所有に、いたるところでまず第一に貨幣の形態で相対する。貨幣財産、商人資本および高利貸資本として。だが、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を顧みる必要はない。同じ歴史が、毎日われわれの眼の前で行なわれている。すべての新資本が、最初に舞台を、すなわち、市揚を、商品市場、労働市場または貨幣市場を、踏むのは、なおいつでも貨幣としてである。この貨幣が、一定の過程をつうじて資本に転化されることになるのである。



   2. 貨幣の資本への転化

 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣は、まず第一には、ただそのちがった流通形態によって区別されるだけである。 商品流通の直接の形態はW-G-Wである、すなわち、商品の貨幣への転化および貨幣の商品への再転化であり、買うために売ることである。しかしながら、この形態とともに、われわれには、第二の特殊なちがった形態がある。すなわちG-W―Gのという形態であり、貨幣の商品への転化および商品の貨幣への再転化であって、売るために買うことである。この後の方の流通を描いて運動する貨幣は、資本に転化され、資本となる。そしてすでにその性質からいえば、資本である。

  3 使用価値の解消としての貨幣存在

 W-G-Wなる循環は、一つの商品の極から発出して、他の商品の極をもってとじられる。この商品は、流通から出て消費に帰着する。したがって、消費、すなわち欲望の充足、一言でいえば、使用価値が、その最終目的である。これに反して、G-W-Gなる循環は、貨幣の極から発出して、結局同じ極に帰着する。したがって、その推進的動機と規定的の目的は、交換価値そのものである。
 単純なる商品流通においては、両極は同一の経済形態をもっている。それらはともに商品である。それらは、また同一価値量の商品でもある。しかし、それらは、質的にちがった使用価値であって、たとえば穀物と衣服である。生産物交換、すなわち社会的労働の表わされているちがった素材の交替が、ここでは運動の内容をなしている。
 G-W-Gなる流通においては、それとちがっている。この流通は、一見しては無内容に見えるというのは、同じものの繰返しであるからである。両極は同一経済形態をもっている。それは双方ともに貨幣である。したがって、何ら質的にちがった使用価値ではない。なぜかというに、貨幣はまさに商品の転化した態容であって、この中では、商品の特別なる使用価値は解消している*注)。 
  
 〔*編集部注:G-W-Gは、各極 G-WとW-Gは互いに等価であるが、流通G-Gのなかで使用価値 W は捨象され、GーGに吸収・抽象化されていることを意味する。〕



  4 価値増殖と使用価値の抽象化 (第2部 商品生産過程の変革・序論)

 はじめ100ポンドが綿花と交換され、ついで再び同一綿花が、100ポンドと交換される、したがって、まわり路をして貨幣が貨幣と、同一物が同一物と交換されるというのであって、これは無意味でもあり、また無目的の操作でもあるように見える。一方の貨幣額と他方の貨幣額とが区別されうるのは、一般にただその量によってのみである。したがって、G-W-Gなる過程は、その内容を、両極の質的な相違から受取るのでなく 〔*編集部注:使用価値が抽象化されていること〕、ただその量的な相違から受取るのである。なぜかというに、その両極はともに貨幣であるからである。結局流通からは、はじめ投入されたより多くの貨幣が取去られる。100ポンドで買われた綿花は、たとえば再び100ポンドプラス10ポンド、すなわち110ポンドで売られるこの過程の完全なる形態は、したがって、G-W―G′であって、このばあい G′= C+ΔGすなわち、最初に前貸しされた貨幣額プラス増加分である。

この増加分、すなわち、最初の価値をこえる剰余〔増加、超過のこと〕を、私は、剰余価値surplus value :*超過・増殖価値要注意剰余は余りのこと・・・戦前からの翻訳用語)と名づける。したがって、最初に前貸しされた価値は、流通において自己保存をするだけでなく、ここでその価値の大いさを変化させ、剰余価値(Mehrwert (surplus value):*超過・増殖価値)を付加する。すなわち、価値増殖をなすのである。そしてこの運動が、この価値を資本に転化する。



  5 過程の主体として自己増殖 G-W-G′  
     ヘーゲル「小論理学」 実体、主体と関係性 150節~154節参照  

 流通G-W-Gにおいては、両者、すなわち、商品と貨幣とは、ただ価値そのもののちがった存在様式としてのみ機能し、貨幣はその一般的の存在様式として、商品はその特別の、いわばただ仮装した存在様式としてのみ機能する。価値は、たえず一つの形態から他の形態に移行して。この運動の中に失われることがなく、かくて自動的な主体に転化される。増殖する価値が、その生涯の循環において、かわるがわるとる特別の現象諸形態を固定すれば、人は、資本は商品であり、資本は商品である、という声明を受け取ることになる。しかし、実際においては、価値はここでは一つの過程の主体となる。この過程で価値は、貨幣と商品という形態の不断の交代の下にあって、その量自身を変化させ、剰余価値として、原初の価値としての自分自身から、突き離し、自己増殖をとげる。なぜかというに、価値が剰余価値を付け加える運動は、彼自身の運動であり、彼の増殖であり、したがって、自己増殖である。価値は、自分が価値でありから、価値を付け加えるという神秘的な性質を得る。価値は生ける赤児を生む、あるいは少なくとも金の卵を生む。(岩波文庫p.269)



  6  自動的な実体

 商品の価値は、単純なる流通において、その使用価値にたいしては、せいぜい貨幣という独立的形態を得るのであるが、ここでは突如として自己過程的な、自動的な実体として表される。この実体にとっては、商品と貨幣とは、ともに単なる形態である。しかしながら、さらに加わる。商品関係を表示するかわりに、価値は、いまや、いわば自分自身にたいする一つの私的関係にはいる。価値は、原初の価値としては、剰余価値として、自分自身から区別される。父なる神が、子なる神として自分自身から区別されるように。そいて両者はおないどしである。そして事実上一身をなしている外にない。何故かというに、10ポンドという剰余価値によってのみ、前貸しされた100ポンドは資本となるからである。それが資本となるや否や、すなわち、子が産まれ、そしてこの子によって父が生まれるや否や、その区別は再び消え、両者はともに一つとなる。110ポンドとなる。

  7  自己過程的な価値と貨幣

 こうして、価値は自己過程的の価値となり、自己過程的の貨幣となるそしてこのようなものとして、資本となる。価値は流通から出てくる。再びそこにはいる。その中に自己を保持し、殖える。ここから増大して帰ってくる。そして同一の循環を、つねにまた始める。G-G′貨幣をはらむ貨幣―お金を生むお金―として、資本は、その最初の翻訳者である重商主義者の口を通じて、描かれている。

  ・・・ 以上、第1部終わり ・・・




 第2部 マニュファクチャから産業革命と大工業の成立
       
      ・・・相対的剰余価値の概念と機械装置の発達・・・

  ■ 目 次
  第1章 はじめに―第1部から第2部へ
  第2章 相対的剰余価値の概念 (第10章)
  第3章 協業 (第11章)
  第4章 分業とマニュファクチャ (第12章)
         ・使用価値の抽象化と人間労働の部分労働化
  第5章 機械装置と大工業 (第13章)
         ・機械によって機械を生産する一つの機械的怪物

・・・・

 第1章 はじめに―第1部から第2部へ ・・・第2部商品生産過程の変革・・

 *はじめに
 私たちは第1部「商品流通」において、商品の交換過程(商品-貨幣-商品W-G-W)は、W-Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容-使用価値-からいえば、社会的労働の物質代謝であることをみてきました。商品の発生と歴史的過程からは、したがって「労働生産物の商品への転化が行われると同じ程度に、商品の貨幣への転化が行われる(第2章)」ことになります。すなわち、

 1) 「 直接的な生産物交換は、一方において単純なる価値表現の形態をもち、他方においてまだこれをもたない。かの形態は、A商品x量=B商品y量であった。 直接的な生産物交換の形態は、A使用対象x量=B使用対象y量である。」
 2) 重商主義の初期段階は、W-G-Wとしての使用価値生産から 「交換価値そのものとしての貨幣 」の取得を目的とした生産に比重が移行してゆく段階でした。
 「直接的な生産物交換においては、すべての商品は、直接にその所有者にとっては交換手段、その非所有者にとっては“等価”である。もちろん、それが非所有者にとって使用価値であるかぎりにおいてである。・・・この形態の必然性は、交換過程にはいる商品数が増大し、多様化されるとともに発展する。課題は、その解決の手段と同時に発生する。・・・しかし、商品交換の発達とともに、一般的等価形態は、もっぱら特別な商品種に付着する、すなわち、結晶して貨幣形態となる。」

 3) 貨幣形態の成立から、必然的に、素材転換である使用価値の物質代謝W-G-Wに代わって、貨幣の増殖すなわちG-W-G′という第二の商品流通へと転換が始まります。貨幣の増殖は、ここでは最初の価値量Gからの増大G′(G+Δg)を目指す重商主義段階へと推移してゆきます。
  「商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通である商業は、資本の成立する歴史的前提をなしている。世界商業と世界市場は、16世紀において、資本の近代的生活史を開始する。」ことになります。


  第2章 相対的剰余価値の概念 (第10章)

 1) 従来の本源的蓄積による生産様式(第24章)では、新たな世界商業と世界市場の商業的要求に到底応ずるものではありません。「 労働の生産力を高め、労働の生産力の増大によって労働力の価値を低下させ、またかくして、この価値の再生産に必要な労働日部分を、短縮するためには、労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを、変革しなければならない 」 時代の要請―ある革命が起こらなければなりません。

 2) 「 商品の絶対的価値は、それを生産する資本家にとっては、それ自体としてはどうでもいいことである。彼が関心をもつのは、商品の中に含まれ、販売されて、実現されうる剰余価値のみである。剰余価値の実現は、前貸しされた価値の補填を、おのずから含んでいる。そこで、相対的剰余価値は、労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は、おなじ発展に反比例して低下するのであるから、したがって、同じく同一の過程が、商品を低廉にするとともに、それに含まれる剰余価値を、高める 」 ことになります。

 3) 資本主義的生産の内在的法則が、資本の外的運動に現われ、競争の強制法則として貫かれ、したがって推進的動機として、競争の科学分析は、資本の内的本性が把握されるときに、初めて可能なのであり、それは、天体の外観的運行が、その実際の、しかし、感覚的には知覚されえない運動を知る者にのみ、理解されうるのと全く同じとなります。したがって、私たちは、相対的剰余価値生産の具体的な理解を「歴史的に、論理的に」研究してゆくことになります。

  第3章 協 業    (『資本論』第11章 協業より)

 1)  資本主義的生産は、実際には、同一の個別資本が、比較的多数の労働者を同時に使用し、したがって、労働過程がその範囲を拡張して、比較的大きい量的規模で生産物を供給するばあいに、はじめて始まる。比較的大きい労働者数が、同じ時間に、同じ空間で(あるいはこう言ってもいい、同じ労働場所で)、同じ商品種類の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くことは、歴史的にも、概念的にも、資本主義的生産の出発点をなす。

 2)  同一の生産過程において、または相異なってはいるが関連のある諸生産過程において、計画的に相並び、相協力して、労働する多数者の労働の形態を、協業という。


 3) 結合された労働の作用

 一騎兵中隊の攻撃力、または一歩兵連隊の防御力が、各個の騎兵および歩兵によって、個々に展開される攻撃力および防御力の総計とは、本質的に異なっているように、個々別々の労働者の力の機械的総計は、多くの人手が、同時に同一不分割の作業で協働するばあい、たとえば、荷物を揚げたり、クランクを廻したり、道路から障害物を除いたりせねばならないばあいに展開される社会的な力能とは、本質的に異なっている。このばあいには、結合された労働の作用は、個々別々の労働によっては、全然生み出しえないか、あるいは、はるかにより長い時間をついやしてか、または矮小な規模において生み出されうるに過ぎないであろう。ここでは、協業による個別生産力の増大のみが問題なのではなく、それ自体が集団力であらねばならない、一生産力の創造が問題なのである。

 4)  一方において、協業は労働の空間範囲を拡張することを可能にするので、ある種の労働過程にとっては、労働対象の空間的関連によっても、すでに協業が必要とされる。たとえば、土地の干拓、築堤、灌漑、運河や道路や鉄道の建設、等々の場合がそうである。また他方において、協業は、生産の規模に比して、生産領域を空間的に縮小することを可能にする。このように同時に労働の作用範囲を拡大しながら、その空間範囲を縮限することによっては、多額の空費(faux frais)が節約されるのであるが、この縮限は、労働者の密集、種々の労働過程の凝集、および生産手段の集積から生じるものである。


 5) あらゆる事情のもとにおいて、結合労働日の特殊なる生産力は、労働の社会的生産力、または社会的労働の生産力なのである。それは協業そのものから生ずる。他人との計画的な協業において労働者は、彼の個体的諸制限を脱して、彼の社会的能力を展開するのである。

 6)  資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から発生し、この過程に属する一特殊機能たるに止まらず、同時に社会的労働過程の搾取の機能である。 したがって、資本家の指揮は、一面では生産物の生産のための社会的過程であり、他面では、資本の価値増殖過程であるという、指揮されるべき生産過程そのものの二重性のために、内容から見れば二重的であるとしても、形式から見れば専制的である。

 7)  資本の生産力
 労働過程に入るとともに、労働者は資本に合体されている。協業者としては、一つの活動有機体の分肢としては、彼ら自身は、資本の一特殊存在様式たるに過ぎない。したがって、労働者が、社会的労働者として展開する生産力は、資本の生産力である。労働の社会的生産力は、労働者が、一定の諸条件のもとに置かれたときに、無償で展開されるのであり、そして資本が彼らをこのような諸条件のもとに置くのである。労働の社会的生産力は、資本にとって、何らの費用をも要しないのであるから、また他面では、労働者の労働そのものが、資本のものとなる前には、労働者によって展開されないのであるから、この生産力は、資本がほんらい具有する生産力として、資本の内在的生産力として現われるのである。

 8)  協業によって展開された労働の社会的生産力が、資本の生産力として現われるように、協業そのものは、分立した独立労働者、あるいはまた小親方の生産過程に対立する、資本主義的生産過程の一特殊形態として現われる。それは、現実の労働過程が、資本に従属することによって受ける、最初の変化である。この変化は自然発生的に生ずる。その前提である、同一の労働過程で、比較的多数の賃金労働者を、同時に使用することは、資本主義的生産の出発点をなす。この出発点は資本そのものの出現ダーザインと一致する。ゆえに、一方で資本主義的生産様式が、労働過程の社会的過程への転化のための歴史的必然として現われるとすれば、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程をその生産力の増大によって、より有利に搾取せんがために、資本が用いる一方法として現われる。

 9)  協業の単純なる態容そのものは、そのさらに発展した諸形態とならんで、特別の形態をなすにしても、協業が、つねに資本主義的生産様式の基本であることに変わりはない。



 第4章 マニュファクチャ内の分業と社会内の分業

       (『資本論』第12章分業とマニュファクチャ(工場手工業)より)

 1) マニュファクチャ的分業と社会的分業 
 われわれは最初にマニュファクチャ・工場手工業の起源を、次にその単純要素である部分労働者とその道具とを、最後にマニュファクチャ・工場手工業の全体機構を考察した。ここでは、マニュファクチャ的分業と、すべての商品生産の一般的基礎をなす社会的分業との関係に、簡単に触れておこう。 ただ労働自体のみを眼中に置くならば、農業、工業等のような大部門への社会的生産の分割を一般的分業、これらの生産部門の種および亜種への分割を特殊的分業、一作業場内の分業を個別的分業、と呼んでいる。(注50)

 2) 社会的分

社会内の分業と、それに対応する個人の特殊職業部面への限定とは、マニュファクチャ内の分業のように、反対の出発点から発展する。一家族の内部に、さらに発展しては、一種族の内部に、性と年齢の差異から、したがって、純粋に生理的な基礎の上に、自然発生的な分業が発生し、それは、共同体の拡大、人口の増大、また殊に種々の部族間の闘争と一部族の他部族による征服にともなって、その材料を拡張する。
 他方、前に述べたように、種々の家族、部族、共同体が接触する地点に、生産物交換が発生する。文化の初期にあっては、独立して相対するものは、私個人ではなく、家族、部族等だからである。異なる共同体は、それらの自然環境のうちに、異なる生産手段と生活手段を見出す。したがって、それらの生産様式、生活様式、および生産物は、種々に異なっている。


 3) 社会的分業と商品交換
 共同体の接触に際して、相互の生産物の交換を、したがって、これらの生産物の商品への漸次的転化を惹き起こすものは、この自然発生的差異である。交換は、諸生産部面の区別をつくり出すのではなく、異なる諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の、多かれ少なかれ、たがいに依存し合う部門に、転化させるのである。ここに、元来相ことなる、また相互に独立した諸生産部面間の交換によって、社会的分業が成立する。生理的分業が出発点をなすところにおいて、一つの直接に結ばれた全体の特別の諸器官が、互いに分離し、分解し、この分解過程には、他の共同体との商品交換が主要衝動を与える。そして、これらの諸器官は、独立化されて、種々の異なる労働の関連が、商品としての生産物の交換によって媒介される点にまでたちいたる。一つのばあいは、前に独立していたものが非独立化されるのであり、他のばあいは、前に独立していなかったものが独立化されるのである。

 4) 商品生産の分割と部分労働の形成
 商品生産および商品流通は、資本主義的生産様式の一般的前提であるから、マニュファクチャ的分業は、すでにある発展度まで成熟した、社会内の分業を必要とする。逆に、マニュファクチャ的分業は、反作用的に、かの社会的分業を発展させ、倍加させる。労働用具の分化とともに、これらの用具を生産する産業もますます分化する(注54)。従来は本業または副業として、他の諸産業と関連しており、同一の生産者によって行なわれていた産業も、マニュファクチャ的経営がこれを捉えれば、ただちに分離と相互的な独立化とが生ずる。

 それが一商品の一特殊生産段階を捉えれば、この商品の種々の生産段階は、種々の独立の産業に転化する。製品が、諸部分生産物の単に機械的に組み合わされた全休であるばあいには、部分労働は、それ自身を再び独自の手工業として独立化しうることは、すでに示唆したところである。一つの工場手工業の内部において、より完全に分業を行なうために、同じ生産部門が、その原料の相違に応じて、または同じ原料のとりうる種々の形態に応じて、種々の、部分的には全く新たなマニュファクチャに分かたれる。



 5) 一国の特別の地方に、特別の生産部門を拘束する地域的分業は、あらゆる特殊性を利用するマニュファクチャ的経営によって、新たな刺激を受ける(注55)。マニュファクチャ時代の一般的存在条件の範囲の一部をなす、世界市場の拡大と植民制度とは、この時代に、社会内の分業のための豊富な材料を供給する。

 6) 社会内の分業と作業場内の分業
 しかし、社会内の分業と作業場内の分業とのあいたには、多くの類似と関連とがあるにもかかわらず、両者は、程度のみではなく、本質をもことにする。類似が、もっとも明瞭に争いがたきものに見えるのは、一つの内部的紐帯(ちゅうたい)が、種々の業種を組み合わせているばあいである。 たとえば、飼畜業者は皮を生産し、製革業者は皮を革(なめしがわ)に、製靴業者は革を深靴に転化する。このばあいには、各業者は、一つの段階生産物を生産するのであって、最終の完成態容は、彼らの特殊労働の結合生産物である。さらに、飼畜業者、製革業者、製靴業者に、生産手段を供給する種々の労働部門がある。 そこで人々は、アダム・スミスとともにこの社会的分業は、ただ主観的にのみ、マニュファクチャ的分業と区別される、と考えることもできる。すなわち、マニュファクチャ的分業のばあいには、種々の部分労働が、一見して空間的にひとまとめに見られるが、社会的分業のばあいには、部分労働が、広い面積の上に散在していることと、各特殊部門の従業者数の大きいこととによって、関連が不明にされているというように、観察者にとってのみ区別される、と(注57)





  7) 社会内分業は生産物・商品が媒介
 しかし、
飼畜業者、製革業者、製靴業者のそれぞれ独立の労働のあいだに、関連を生ぜしめるものは何か? 彼らのそれぞれの生産物の商品としての存在(ダーザイン)である。これにたいして、マニュファクチャ的分業を特徴づけるものは何か? 部分労働者が、何らの商品をも生産しないということである(注58)。部分労働者の共同生産物が、はじめて商品に転化する(注58a)

 社会内の分業は、種々の労働部門の生産物の売買によって媒介され、マニュファクチャにおける諸部分労働の関連は、種々の労働力が、それらを結合労働力として使用する、同一資本家に売られることによって、媒介される。マニュファクチャ的分業は、資本家の手中における生産手段の集積を前提し、社会的分業は、多数の相互に独立した商品生産者のあいたにおける、生産手段の分散を前提する。


 (58a) 「第2版への注。社会的分業とマニュファクチャ的分業とのこの区別は、アメリカ北部諸州には、実際的に例証された。南北戦争中〔1861~1865年〕に、ワシントンで新しく案出された税の一つは、 「あらゆる工業生産物」にたいする6%の消費税だった。質問、工業生産物とは何か? 立法者の答え、ある物が生産されたというのは、「それが作られた場合」であり、それが作られたものであるといえるのは、売れるようにでき上がっているばあいである。多くの中から一例を挙げよう。ニューヨークやフィラデルフィアのマニュファクチャは、以前には雨傘を、すべての付属物とともに「作って」いた。
  しかし、雨傘は、全く異質的な構成部分の組成物であるから、これらの構成部分は次第に、相互に独立に かつ異なる場所で経営される諸業種の製品となった。いまやそれらの部分生産物は、独立の商品として雨傘マニュファクチャに入って行き、雨傘工場は、それらを一つの全体に組み立てるに過ぎなくなった。北部諸州は、この種の商品を“assembled articles”(集合品)と命名したが、それは租税の集合場所としてのこれらの商品には、とくにふさわしいものだった。かくて、雨傘は、まずその各要素の価格にたいする6%の消費税を、それから、さらに、それ自身の総価格にたいする6%の税を『集めた』のである。」

 → 新着情報10月号 - 「分業とマニュファクチャについて」、注 54, 55, 56, 57, 58
 → 〔*編集部注2:半製品の用語について〕








 第5章 機械装置と大工業 
      ―(『資本論』第13章機械装置と大工業第1節機械装置の発達)
   機械装置と機械的怪物の出現

1)  生産様式の変革は、工場手工業にあっては労働力を、大工業にあっては、労働手段を出発点とする。したがって、まず第一に研究すべきは、何によって労働手段は、道具から機械に転化されるか、あるいは、何によって機械は、手工用具から区別されるか、ということである。

2)  すべての発達した機械装置は、三つの本質的に異なる部分から成る。 p.476
動力機、配力機構、最後に道具機、または作業機がそれである。動力機、配力機構のこの両部分は、道具機が労働対象を捉えて、これを目的に合致するように変化させうるように、道具機に、運動を伝えるためにのみ存在する。機械装置のこの部分、道具機こそ、18世紀の産業革命がそこから出発するものである。

3)  本来の機械体系が個々の独立の機械に代わって初めて現われるのは、種類を異にするが、たがいに補足しあう一連鎖をなした道具機によって行なわれる、一系列の相関連する種々の段階過程を、労働対象が通過するばあいである。ここでは、マニュファクチャに特有な分業による協業が、再現するのであるが、しかし今では、部分作業機の組合せとしてである。 おのおのの部分機械は、次につづく部分機械に、その原料を供給するのであるが、またそれらは、すべて同時に働くのであるから、生産物は、絶えずその形成過程の種々の段階の上にあるとともに、一つの生産過程から、他の生産段階に移りつつあるのである。
 マニュファクチャにおいて、部分労働者の直接的協業が、種々の特別の労働者群のあいだの、一定の比率をつくり出すのと同様に、組織された機械体系においては、部分機械相互の不断の協働が、それらの数、それらの大きさ、およびそれらの速度のあいだに、一定の比例関係をつくり出す。 マニュファクチャにおいては、各特殊過程の分立が、分業そのものによって与えられた原理であるとすれば、これに反して、発達した工場においては、諸特殊過程の連続が支配する。 (p.486)


4)  配力機装置を介してのみ、中心的な自動装置から、それぞれの運動を受取る諸作業機の組織された体系となれば、機械経営はそのもっとも発達した態容をもつことになる。ここでは個々の機械にかわって、一つの 機械的怪物 〔ein mechanisches Ungeheuer〕 が現われ、その体躯は、工場の建物をいっぱいに充たし、そしてその悪魔的な力は、初めは、その巨肢の荘重ともいうべき整った運動によって、隠されているが、その無数の本来の作業器官の熱病的な狂騒旋舞において爆発する。 (p.488)


5)  一産業部門における生産様式の変革は、他の部門における変革をひき起こす
このことが、直ちにあてはまる産業部門は、社会的分業によって分立していてそのおのおのが独立の商品を生産してはいるが、しかしなお、一つの総過程の段階として、絡み合っているような諸部門である。たとえば、機械紡績業は、機械織物業を必要ならしめ、両者はともに漂白業、捺染業、染色業における機械的・化学的革命を必要ならしめた。また他方では、綿紡績業における革命が、綿実から綿繊維を分離するための繰綿機の発明を促し、これによって初めて、今日必要とされる大規模木綿生産が可能となった。またことに、工業および農業の生産様式における革命は、社会的生産過程の一般的条件、すなわち交通運輸機関における革命をも必要ならしめた。 (p.489)


6)  かくして、大工業は、その特徴的な生産手段である機械そのものを、自己の支配下に置き、機械によって機械を生産せざるをえなかった。かくて初めて、大工業はそれに適合する技術的基礎を創出して、自分自身の足で立ったのである。19世紀の最初の数十年間における機械経営の増大とともに、機械装置は、実際に道具機の製造を、次第に支配するにいたった。とはいえ、大規模な鉄道建設と汽船の大洋航行とが、原動機の製造に使用される巨大な機械を出現させたのは、ようやく最近数十年間のことだった。(p.491)


7)  労働手段が機械装置として受取る物的存在様式は、自然力をもって人間力に代え、自然科学の意識的応用をもって経験的熟練に代えることを必然にする。工場手工業においては、社会的労働過程の構成は純主観的であり、部分労働者の組合せである。機械体系において大工業は、労働者にたいして、既成の物的生産条件として存在する、一つの全く客観的な生産有機体をもつことになる。単純な協業においては、また分業によって分化された協業においてさえも、社会化された労働者による個別的労働者の駆逐は、なお多かれ少なかれ偶然的なものとして現われる。機械装置は、後で述べる若干の例外を除いては、直接に社会化された労働、すなわち、共同的な労働によってのみ機能する。かくていまや、労働過程の協業的性格は、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然性となる。
  
   ・・・以上・・・