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 文献資料
  大内兵衛著 
『経済学』 

    岩波書店 1951年発行

要約/ 使用価値の「無関心」と大内兵衛『経済学』
『資本論』とヘーゲルの「無関心」について

   


  第2編 社会経済の基礎概念
 (抄録)

   第4章 商品、その価値


   
【1】  商品は経済社会の細胞である

 
われわれの分析しようとする資本主義社会においても、われわれの生活にはいろいろの財貨を必要とするが、われわれ自身は、この一物をも生産しない。すべてそれを市場からお金を支払って買って来る。米でも、洋服でも、その他何でも同じことである。しからばそういうものは、市場になぜあるのか。誰かがそれを生産してお金に対して売るためにそこに提供してあるからだ。すべての財貨は、ここでは商品(commodity)である。こういう商品がないと一切の消費がなく、一切の生活がない。そこで、いったい商品とは何だろう。ここで注意せよ。商品は昔からあったものではないということを。昔の人は自ら井戸を掘って飲み、自ら耕して食ったようである。それならば、商品は現代資本主義社会に限ってあるものか、そうでもない。たしかにそれ以前からあった。すでに資本主義は商品の売買から発生したことをわれわれは知っている。あの場合、私有と分業とがあった。そしてたくさんの独立した生産者があった。そういう生産者はその生産物を交換した。それが商品であった。そこで、われわれは、そういう資本主義以前の社会で商品はどうして発生するか、商品はどういう社会的性質をもつか。話をそこから始めよう。



   
【2】  商品における 使用価値 価値

 米は白いデン粉であり、洋服は羊毛でこしらえた布地でできている。米は人間が食うものであり、洋服は着るものである。そして、この両者が商品となったとき、米は1石25円であり、洋服は1着50円である。そこで、
商品は、一見したところ、使用価値(value in use)と交換価値(value in exchange)とを同時にもっているものと思われる。果たしてそうだろうか。これは大いに論争のあるところであるが、私は、商品をして商品たらしめるもの、すなわち、交換される財貨たらしめるものは、財貨のもつところのいろいろな使用価値ではなく、その財貨の生産に費やされた労働であると思うものである。労働を費やしたことが価値の原因であって、その価値が、財貨の交換において交換価値となって現われるのだと思う。右において、25円、50円または2石イクオール1着、1着イクオール2石〔 米2石=洋服1着、洋服1着=米2石 〕というのは、いずれもこの価値の現われである。この主張を、次にもう少しくわしく説こう



 いま2石の米が1着の洋服と交換されるとしよう。これによって米の所有者は洋服の所有者となり、洋服の所有者は米の所有者となる。そしてそれにより、双方ともに各々の欲望を満足しうる。洋服を出したものは米が食える。米を出したものは洋服が着られる。これらすべては財貨の使用消費に関する事実である。
使用または消費の際におこる財貨の価値評価がこの内にあることは明らかである。けれどもそれらの価値または評価は交換のうちには存しない。というのは、米および洋服のもとの所有者(生産者にして売手)は、それらを交換に出す前にそれらについての使用を断念している。また、米および洋服の新しい所有者(消費者にして買手)がそれらの物を使用するのは、交換がすんでからのことだ。だから交換において成立する洋服1着イクオール米2石、米2石イクオール洋服1着、米2石50円、洋服1着50円という事実は、右のような当事者の使用価値とは関係なくでき上るものでなくてはならぬ

 さて、洋服も米もその
生産に一定の費用( cost )がかかった。その費用は結局は人間の労働である。洋服屋も農夫もその所有の財貨を他人に与える場合、このことを考えないわけにはいかない。双方ともその交換する財貨についての自分の労働のことをも考え、相手の労働のことをも考え。そして双方ともそれを交換した方が自分の欲しいものを自分で生産するよりもよいと思うときにのみ交換が成立する

して見みれば
交換において評価される価値、交換される財貨の実態は、その財貨の生産に投じられたところの労働であるといってよい。前にあげた50円、米2石、洋服1着というようないろいろの表現はいずれも、交換される財貨のもつ価値をそれと交換されるもので現わしたものである。それらは、そういう財貨の価値の交換の場における名前である。その名前はそれらがもっている労働の量を交換する相手の財貨で現わしたものである

 
以上の説明をもう一度要約しよう
商品は財貨としては使用価値をもち、また財貨としては価値をもっているが、交換において、商品の交換価値としてわれわれの見ているもの、洋服1着は米2石、また
両者ともに50円という事実は、あくまでもその価値、それの生産に必要であった労働のであって、その使用価値の面ではない

すべての使用価値は交換が行われる原因にはなるが、交換はそれ〔使用価値〕の交換ではない。従って
商品の売買というのも、使用価値と貨幣との交換ではない価値物と貨幣との交換である



   
【3】  交換される価値は何故に等質か

 商品の実体が価値であること、価値はその生産に投じられた労働であること、その大小は労働の量の大小であるということ、商品はそれの相互計量によって交換されるのだという、右のような主張のうちには、
異った商品の生産に投ぜられた異った種類の労働が、みな同質のものだ、同質のものとして計られるものだという主張が含まれている

それはおかしいという人があろうと考える。農夫の米を作る労働が価値の実体であるとして、どうしてそれで洋服を作る労働の大きさが計られるか?
洋服を作る労働と米を作る労働とは異質でないか。彼の汗とアブラは農夫のそれとは違うではないか。しかし、その点は社会的に考えてもらいたい。社会的事実は次のごとくである。すなわち人間は他人に対しては非人情である。交換する人は一々その他人のことは考えない。そしてことに交換する相手が無限に多数であれば、一々の相手の個性は社会的平均的な標準のうちに消えてしまい、誰が生産したかわからぬ商品のうちにふくまれている人間の労働は、普通人の普通の労働として計り、ただその量の大きさをもって考えることになるのである。なぜなれば、彼らは同様の商品ならば誰から買ってもよいのである。それは、誰の作品でもよいということであるからである。いいかえれば、交換という事実は、商品からそれの所有者の使用価値を切りすてると同時に、それに投じられている労働の個人性を切りすてるのである。その意味で、交換は社会的な尺度で実現するのである。むろん個々の交換には人情が伴うこともあるが、それは商品の本質ではない。商品の商品としての社会的な多数の交換では、人情は全く切りすてられて、商品は商品自身の実体の大きさだけによって評価されるのである。かくして交換社会が発達してしまえば、全社会の全商品は、たとえどんな労働が分担してそれを作ったものであっても、共通の尺度で計られてしまうのである。交換がそういう事実を、社会的に作り出すのである。そしてそういう事実の存する社会ではすべての商品は、そこに存在するところの交換価値を前提として生産されるが、そのとき、その生産のコストとしての労働はすでに等質な価値なのである



   
【4】 高級な労働も単純な労働も商品のうちでは同質の価値である

 右のようにいうと、それでは車夫の労働も学者の労働も同じ価値なのかといって、大いにいぶかる人があろう。まさにその通りなのだから仕方がない。どんな熟練労働もどんな不熟練労働も、商品のうちに体現されて売買されるときには同質のものとして、社会的平均的労働で計られ、その
単位価値の何倍という風に計算されるのである。その証拠には、今日の世の生産社会では、すべての種類の労働を、日給、週給、月給により、すなわち時間で計量して売買しているではないか。それは商品を作る労働であるからであり、商品の価値となる労働であるからである。こんなことが合理的なのは、今日の世の中では、商品の種類は何であれ、米でも洋服でも靴墨でもバイブルでも、金何円として同一尺度により計られているという事実があるからである。これは、すべての商品を作っているすべての労働が価値としてはすでに等質になっているという事実にもとづいているのである。こういっても、梅原、安井の絵の労働が例えば1時間何千円であるというのではない。それはお金では買えないものをもっているであろうと、私も信じている。しかし、彼らの作品がそれだけで売買されているならば、彼らの労働でさえ、価値として社会的平均的な労働によって計られているといって少しもさしつかえがないのである。

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【5】 価値が交換価値となるから、商品は多数の商品の価値を表現する

商品の価値は交換において交換価値となることによってはじめて社会的に現実のものたることを証明し主張する。2石の米の価値は洋服1着のそれであることは交換によってはじめてわかる。これは一つの物々交換での話であるが、実際には一つの商品は多くの商品と交換される。2石の米は、洋服1着の外、靴2足、ノート・ブック100冊等々と交換される。これは
それぞれの商品の価値は米の価値に等しいということである。商品・米は多くの商品の等価物であるということである。多くの商品は米の価値の現象的な形態である。こうなると次のようなことが起りうる。交換が発達すると、どんな商品でも多くの他の商品の価値を現わすことになる。しかし、それは商品の実体は価値であり、その点ですべての商品は同じだということを考えれば、むしろ当然のことである。



  
【6】 交換のうちから特定の商品が貨幣となる

 どんな商品でも、他の多くの商品と等価物となり、多数の商品の価値を表現することができるという一般的事実があれば、その事実のうちには、ある特定の商品が特に選ばれて、ヨリたびたびそういう等価物となるという事実もあるに相違ない。腐らないもの、火にやけないもの、水にとけないもの、分割し易いもの、容積の小さくて価値の大きいもの(従って運搬し易いもの)、誰でも所有したいと思うような美しいもの、そういうものが、
あらゆる商品のヨリ一般的な等価物となるであろう。あらゆる商品の価値の現象形態となるであろう。それが貝であるか、布であるか、米であるかはその社会の実状によることであるが、いよいよ交換が発達して見ると、いろいろの金属がそのうちで特に優勢となった。金属のうちでも銀、金が一番優勢となった。そうきまると、それが貨幣(money)である。「貨幣は自然的に(本来)金銀である」(ガリアニ)。あらゆる労働の生産物のうちで、金銀が一般的人間の労働としての価値の現象形態となるのにいちばん適しているのである。こうしてできた貨幣はもはや商品というのは適富でない、むしろ価値の尺度(measure of value)、交換の手段(means of exchange)として、貨幣という特殊な名をもつのである。それは、もっぱら社会的な要具である。これは誰かの知恵が作り出したものではない。交換が、自らのために作り出したものである。



  
【7】 価値は貨幣によって価格として表わされる

 こうして貨幣ができると、それをもっていれば、いつでも何でも買えることがわかる。と同時に、それをもっていてもそれは食べられない。そこで貨幣はつねにすべての人の手から世の中に投げ込まれて、それによって使用されるものとなる。貨幣は「天下のまわりもの」となり、長途をあるく「お足」となる。それは本来金銀の一定重量たるポンド、両、貫、匁(もんめ)であるが、それによって自己の大きさを量り知ることができるように、それによって他の商品の価値をも、微細な点まで、表わすことができる。事実
あらゆる商品の価値を貨幣の量によって表わすことが社会的な習慣となる。これを商品の価格(price)という。商品の価格とはその価値を貨幣で表現したものである。米1石25円、金1匁5円ならば、これは米2石の価値は10匁の金の価値に等しいということである。このとき、金はすでに貨幣である。貨幣として価値尺度である。このとき、金10匁を出すならば、それは米2石、洋服1着と交換される。これは、金が貨幣として交換の手段となっているからである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    第7章 資本主義


  【1】 現代の商品は単純商品ではない
 われわれは、これまで、商品と貨幣の性質、その価値、それと価格との関係などについて考えてきたが、それは単純な商品、すなわち、その生産者がその所有者であり、彼がそれを自ら交換するところの商品についての話であった。いわばそういう互角な立場の人々がその財貨を交換する社会においておこる経済のかんたんな原理の話であった。
 ところが、今日の社会では、こういう事実は存しない。存しても例外的である。何よりもすべての生産物がその生産者のものであるというような事実はない。そういうと、諸君はびっくりするかも知れぬが、ともかくも事実を見たまえ。今日いろいろの商品を現実に生産している労働者( labourers, working men )は、生産者に違いないが、その彼らに、何か属するか。彼らはその生産物の一片をも所有しない。それらの生産物はすべて労働とは必ずしも関係のない生産手段の所有者のものである。これは疑のない事実である。そこで、われわれの問題は、そういう生産手段の所有者の所有する商品の価値は何か、かりにその実体は労働であるとして、その生産手段の価値との開係はどうなるのか、ここでもまた商品の価格はその価値と原理的に一致するのか。そういうことが疑問である。


   
【2】 資本主義的商品の特徴

 現代の商品は単純な商品でないとすれば、それは何というべきか。資本主義的商品というがいいと思う。なぜなれば、それは前述のように生産手段と労働との所産であり、その生産手段の所有者の所有物であり、その生産手段は資本の目的をもつところの資本の特殊な形であるからだ。資本主義的商品は、そういう資本家の所有物である。それは彼らの計算において取引せらるべき商品たる生産物である。そういう商品は、単純商品と二つの点で大きい差異がある。第一に、単純商品の労働は自己労働である。資本主義的商品の労働は他人労働である。第二に、前者においては労働力が買取られるという事実はないが、後者においては労働力は買取られた上で資本家が使用するのである。かんたんにいえば労働力が商品になっているのである。この二つの差は重要である。なぜなれば、これにより商品についての評価の原理が異ってくるからである。すなわち、前者においては、商品の所有者はその商品のもっている労働をなるべく高く売りたいと考える。それは自らの労働であるから、所有者として富然の経済主義である。後者においては、労働もさることながら、とくに生産手段をなるべく高く売りたいと考える。それは彼の所有物であるから、所有者として富然の経済主義である。


  【3】 資本主義においては商品は利潤をうる手段として生産される
    
 資本主義的商品は右のごとく単純商品とその性質を異にするが、生産の目的に照して考えれば、その商品の特徴は一層明らかとなる。単純商品では、交換はたとえ売買の形をとっていても、自己の生産物を他人の生産物と代えるのが目的であり、それによって生産者は彼の消費するものを得た。それは C-M・・・M-C であった。商品から出発して他の商品に到着し、その商品は商品とはならず消費財となった。だから、商品の生産者の目的のうちには、間接であっても、ともかくも彼の消費があった。ところが、資本主義の場合には、資本はまず貨幣をもって出現するのである。そして生産に必要ないろいろのものを買い、それで商品を生産し、それを売って、また貨幣をうるのである。それは M-C・・・C-M である。両端にあるものは貨幣であるから、商品生産の目的のうちには彼の消費は入っていない。そこで、この揚合、このあとの貨幣が第一の貨幣と同額であるならば、あるいはそれより小量であるならば、資本家は決して生産しない。それは彼にとって全く無意味であろう。だから、事実において、M-C・・・C-M は M-C・・・C-M´であり、M<M´ でなくてはならぬ。単純商品の生産における経済主義、勤勉、労働は何をもたらすか。それはヨリ多くの富または価値を、しかし、その富その価値は消費されるべき財である。資本主義的商品の生産における経済主義、勤勉、労働は何をもたらすか。やはりヨリ多くの富または価値を、しかし、その富または価値はあくまで貨幣である。ヨリ多くの貨幣である。この貨幣をわれわれは、利潤 ( profit ) という。資本主義は利潤を目的とする生産である。資本主義的商品はその目的を達するための手段として生産せられる商品である。


   【4】 資本は商業によって蓄積される

 われわれはさきに財貨の交換から商品がどうしてできるか。商品のうちから貨幣がどうしてできるかを語った。また、その貨幣がどうして退蔵されるかについてもそのとき語った。そこで、ここにはそうして退蔵された貨幣を多量にもっている人があるとしよう。そして、ある種の商品の価格が、われわれの考えうるような理由によって、下落したとしよう。彼がこれを買いしめるならばその商品の価格が上るのであり、その高い値で、それを彼が徐々に売るならば、彼のために、はじめ彼が投じた貨幣は、利潤を生むであろう。貨幣が資本となるのは、はじめは、こんなかんたんなことからであった。こんな商売からであった。商売とはかけ引だとか、金儲けは投機だとかいうのは、こういうことに含まれている事実についての認識であった。とにかく、こういう商売によって、貨幣は貨幣として金の卵を生む鶏となった。これは貨幣の性質の大々的な変化である。こういう風になった貨幣は、もはや、われわれが右にのべたような単純なものではない。それの子を生むという力は重大である。そういうとき、貨幣は元本、元手( stock )または資本( capital )とよばれるのである。


   【5】 貸付貨幣も資本になる

 商業が貨幣に新しい力をもたせるようになると、そしてその力は貨幣の量が大きいほど累進的に大きいということも、直ちにわかる。そうなると、貨幣を退蔵している者は自ら商業を営まずに、商人にそれを貸付けるようになる。いわゆる金融( finance )であって、この貨幣は利子( interest )を生むところの資金( fund )である。一種の資本である。中世の末から近世にかけて、世界いたるところ大きい冒険的な商人ができた。海運がそれに結びついた。金貸しもそれに結びついた。富とは、いまや、消費または享楽すべき財ではなくなった。貨幣、金となった。富者とは金持である。お金とは不思議なものである。それは一切の財貨たりうるだけではない、それはほっておいても自然に自己増殖するものである。


   【6】 資本は自己発展の力を内包している

 資本は、利潤を目的として使用される貨幣であり、利潤はそれ自身貨幣であるから、資本はその活動において自己増殖するが、その増殖したものはまた貨幣であって、一番自然な用途はやはりもう一度資本たることにある。かくして資本は増殖、蓄積、増殖という順序をもって自らの存在を再生産するのである。「金持と灰ふきはたまればたまるほどきたない」。笑ってはいけない。誰でも金をもつとこういうことになるのである。



   
【7】 商業資本主義から産業資本主義へ

 商業資本は少年のごとく冒険的に勇敢であって、それは世界の歴史に新しい生面を開いた。それは右のごとき理論的性格のおかげである。しかし、こういう資本主義にはおのずから限界がある。それは、市場の拡大がなければ、利潤の源泉はすぐに涸れてしまうからである。一定の大いさの商品の交易においては、市場の競争が十分になればすべての商品の現実価格はその自然価格に近づくから、商業利潤の余地はなくなる。商業資本はその行きづまりを打破するために、その資本を工業に投じ多量の商品を作るようになる。マニュファクチュアーは資本の新しい方法となった。そこでは生産の方法が変わって来た。そこで資本は、自己増殖の方法について新しい方法を発見した。すなわち、そこでは、生産に必要な道具、器具を改良し、また他人を労働者として雇入れてそれらの生産手段を動かさせると、それにより生産の能率が増加し、それによって、少量の労働をもって多量の生産物ができるということがわかって来た。そこで、資本たる貨幣の目的、附加資本としての利潤をえようという目的のためには、資本をそういう生産手段に投じ、それを工場( factory ) で運営し、そこで製造した商品を売る方がよいということになって来た。



   
【8】 産業資本主義

 かくのごとくにして資本が交換の市場から生産の野に進出して来、社会のあらゆる生産が資本の目的によって貫かれた商品生産となって来ると、商品の体系の構成も変わってくる。すなわち、いままでは人間の消費する消費物が生産物の主要部分であったのに、いまや、人間が直接には消費しないで生産のみに使われる財貨、いわゆる生産手段または生産財( means of production goods )が、商品として重要になってくる。これらのうちには、大きい機械がとくに重要になる。そしてそれらは、一年では消耗しないで数年も十数年ももつものである。自然高価でもある。そういう高価なものに資本の主要部分が投じられる。そういう形をとった資本は、その量が大きいばかりではなく、それがもとの貨幣として回収されるのに長年月を要する。いいかえれば不変資本( fixed capital )がふえる。こういう不変資本のふえることを資本の高度化と呼ぶ。高度の資本の企業では、どうしても、企業の計画も、とくにその製品の供給計画、従ってまたその代金の回収計画が多年にわたらざるをえない。そうなると、そういう高度の産業をもった資本主義社会の商品の需要供給もまた自然長期にわたってその均衡をうることになる。従って産業資本主義の社会では商品の価格は富然に長期の波動をもつ。



   
【9】 資本主義経済に固有の諸問題

 こうなってくると、われわれが、いままでに研究して来た商品論、貨幣論、価値論、価格論、需要供給論、価格変動論など、いずれも大きい疑問を投げかけられることになる。
 第一に、人間の労働力はどうして商品なのか、商品であるとするならば、その価値はどうしてきまるのか。
 第二に、生産手段とくに機械その他はどういう凪にしてどういう割合で商品の価値に入りこむのか。
 第三に、商品の価値のうちには生産手段の価値と労働の価値とが共存するとして、生産手段に優劣があり、その構成に差等があっても、それらによって製作される商品には、すべて同一の価格が与えられるのか。
 第四に、ある商品の需要供給がそんなに長期にわたって変動するならば、現実価格は自然価格または価値と一致する価格をはるかに離れるのでないか。
 第五に、要するに、資本主義商品の価格は、その価値とは開係のないものではないか。
 その他いろいろのことが、新しい問題となるようである。
 われわれは編を改めて、とくに資本主義の社会の経済について研究しよう。



  ・・・以下、省略・・・