2016年
『資本論』入門 3月号 (2020.03.10)
バーボン・ロック経済論争と対話篇入門
『資本論』第1章第1節 ★岩波・向坂訳、
★ドイツ語版、 ★英語版
★目次 下線部をクリック
1. はじめに 『資本論』の全体像について
2. 第1節商品の2要素 第1篇商品と貨幣、第1章商品
3. 3つの論点-巨大な商品集積、富の成素形態、商品の分析
4. 社会の富の成素形態と経済の細胞形態について
5. 商品の分析とソクラテスの産婆術
6. バーボン・ロックの経済論争(貨幣・利子論争)について
7. 第2段落、第3段落とバーボン(注2)、(注3)の対話篇
8. 本文の段落構成とバーボン(注)の配置問題
9. バーボン・ロック経済論争の背後にある「価値」論争
10. 物の使用価値と交換価値の担い手:“商品体”
11. 「商品に内在的な、固有の交換価値」の「一つの背理」とバーボン
12. ついに、老バーボンの登場・・・「老」がついているのは何故?・・・
資本論ワールド編集委員会 ご挨拶
先月に続き、3月号をお届けいたします。
お陰様で、今月も盛りだくさんの貴重な資料を掲載することができました。一つひとつが、『資本論』の理解を深めてゆく手助けになるものと期待しています。
本日『資本論』第1章の入門にあたり、編集委員会よりひとことご挨拶を申し上げます。資本論ワールドは、4つの骨格から構成されています。第1に古代ギリシャ思想、第2に中世キリスト教神学、第3に西洋科学史の伝統、第4にヘーゲル哲学に結実した弁証法の4本柱です。
『資本論』第1章は第1節の冒頭から、ギリシャ思想の古典古代へと旅路が始まります。「社会の富の成素形態である」商品世界の異次元旅行です。ソフィストとソクラテスの産婆術から生みだされ、プラトンとアリストテレスによる「詭弁論」の解剖が展開されます。
バーボン・ロック論争を通じて、ギリシャ思想の「背理法(誤謬論)contradictio in adjecto 」の実例を体験します。
そして商品世界を背後から支えているのが、自然宇宙の「量的比例関係 das quantitative Verhaltnis, であり、比率 die Proportion」です。タレス・ピタゴラス等古代人によって発見された比例方程式の世界観が科学的に形成され、古代ギリシャ思想の伝統がドイツ哲学へと伝承され、シェリング・ヘーゲル哲学に引き継がれてゆきます。
資本論ワールドの世界旅行を旅する皆さんが、この壮大な西洋思想家たちの伝統と「巨人たちの肩に乗ったマルクス」を実感していただければ、編集委員会一同、望外の喜びです。それでは、“快適なご旅行を”
『資本論』入門 3月号
事務局:
創刊号に続いて、本日から『資本論』入門を始めます。
1週間程度の予定で、議論を展開していただくスケジュールですので、ご協力をお願いします。本日は、ゲストに北部資本論研の小島さんにおいでいただきました。レポーターの小川さんと3人で対談スタイルで進めてまいります。
第1章第1節から始め、最初に事務局から『資本論』本文と関連資料を説明いたします。その後に、レポーターから問題提起をいただいて進行してゆきたいと思います。
小島:
北部資本論研の小島です。2月の『資本論』入門や「翻訳問題」について、資本論研の仲間からたくさんの質問を預かってきました。これからしっかりと勉強させていただきますので、よろしく。
小川レポーター(資本論ワールド編集委員):
第1章のレポーター役の小川です。よろしくお願いします。
1. はじめに 『資本論』の全体像について
事務局:
初めに、『資本論』の全体像について、報告します。
1859年に、『経済学批判』が刊行され、「商品と貨幣」について画期的な分析が行われました。
エンゲルスによる『経済学批判』の解説があり、簡潔にして力強いアピール文をHPに掲載しています。ぜひこちらも参照してください。
1867年に『資本論』第1版が出版され、『経済学批判』の主要なテーマを引き継いでいます。その後1873年に第2版が出されました。
この第2版では、第1版の第1章商品と貨幣「(1)商品」が、4つの節に分割・再編集され、現在の体裁となっています。
ここで特に強調しておきたいことがあります。
「第1章(1)商品」が4つの節に分割されたことによって、かえって第1章の全体の見通しが悪くなっていることです。『経済学批判』や第1版では、「商品」の分析に始まり、価値形態論や「商品の物神的性格」まで「ひと続きの記述になって」一貫性が維持された論述の体裁となっています。
しかし第2版では、第1~第4節へと分割されたことによって、相互の連携が薄まっています。4つに分離された第1~第4節それぞれの独立性が強まってしまいました。そのため、「第1章商品」論としての全体的な一体感に欠けてしまった印象があります。なぜなら、第1節から最後の第4節までを一気に読み通すことが難しいからです。この点の注意喚起と同時に、私たちが討論を進めてゆくにあたっても、充分に配慮する必要があります。
また、岩波書店版『資本論』、ドイツ語原書、英語版それぞれの第1章第1節を『資本論』
シリーズに掲載してありますので、必要に応じてご利用ください。
では、以上を踏まえながら、さっそく第1章第1節から読んでみます。
2. 第1節商品の2要素
第1篇商品と貨幣、第1章商品、第1節商品の2要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)
〔Die zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert (Wertsubstanz, Wertgröße) 〕
第1節・第1段落 (以下1-1と略す)
資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」(注1)として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。(注1)カール・マルクス『経済学批判』
(注1)『経済学批判』で該当する個所は、以下のとおりです。
「市民(ブルジョア)社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在であることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値(*注1)という二重の観点で現われる。」
『経済学批判』の(*注1)では、アリストテレスからの引用がありますので、参考にまでに報告します。このアリストテレスの(*注1)は、『資本論』では、第2章交換過程で引用されています。
(*注1)アリストテレスの注:
「何故かというに、各財貨の使用は二重になされるからである。・・・その一つは物そのものに固有であり、他の一つはそうではない。例えていえば、サンダルの使用は、はきものとして用いられると共に交換されるところにある。両者共にサンダルの使用価値である。何故かというにサンダルを自分のもっていないもの、例えば食物と交換する人も、サンダルを利用しているからである。しかし、これはサンダルの自然的な使用法ではない。何故かというに、サンダルは交換されるためにあるのではないからである。他の諸財貨についても、事情はこれと同じである。」
3. 3つの論点
― 巨大な商品集積、富の成素形態、商品の分析
レポーター:
討論の素材を提供する立場から、一つずつ問答形式で議論を進めてゆきたいと思います。
最初に3つほど論点を提案します。
1. 社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、
2. 個々の商品はこの富の成素形態として現われる。
3. したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。
第1に、「社会の富が巨大なる商品集積として現われる」とは、どういうことか。
第2に、「個々の商品はこの富の成素形態として現われる」とは、どういうことか。
第3に、「商品の分析をもって始まる」とは、『経済学批判』の「商品は、おのおの、使用価値と交換価値という二重の観点で現われる」という事態の分析から始まると、考えられるがどうか。
では、第1について報告します。
「社会の富」については、2月創刊号にアダム・スミス「諸国民の富の性質・・・」がありますので、一度目を通しておいてください。
アダム・スミスはじめ、イギリス経済学者達の言葉でいえば、富や商品は、「まず第一に人生にとって必要であり、有用であるか、あるいは快適であるなんらかの物、すなわち人間の欲望の対象、最広義においていう生活手段」ということになります。(『経済学批判』参照)
そして、最広義としての生活手段が「巨大な商品集積」として溢れるように現象していると、考えられます。
小島:
資本論研では、「巨大な商品集積」について具体的なイメージが浮かばないという意見が多い。だいたい、「巨大な」と「商品集積」がどうしても結びつかない。考えられるのは、「山積みされた商品の塊が巨大となっている」ということか・・・。
事務局:
『資本論』の英語訳では、「巨大な商品集積」を「 an immense accumulation of commodities 」としています。accumulation は、通常「蓄積」の意味で使われますので、「集積」に近い。
他の訳書では、「巨大な商品の集まり、商品の集合、膨大な商品集成」などとなっています。
レポーター:
どの解釈も50歩100歩の感じですね。いまいち、ぴたっとしませんね。
僕の意見は、「商品価値が妖怪のような対象性であり」、そしてずっと先の第4節「商品の物神的性格」にヒントが隠されていると考えています。次回に「妖怪のような」話題でもう一度戻ってはいかがでしょう。
ここでは結論を急がずに、いったん<疑問1:巨大な商品集積>として保留にしましょう。まだまだ、難問が「山積み」ですから。
4. 社会の富の成素形態と経済の細胞形態について
では次に、第2「個々の商品はこの富の成素形態」についてです。
「成素形態」については、2月号の翻訳問題で紹介されていますので、参考にしていただくとして、今日は、この「成素形態Elementarform」がどのような機能を担っているか、について報告します。
『資本論』第1章を読み進むにつれて、
「成素 Element」と「要素 Element」が文脈によって使いわけされていることが解ります。
そもそも、第1節の表題にあるように「商品の2要素」は、Die zwei Faktoren 〔要因〕 der Ware となっています。
ちょっと先回りして、第2、第3節を先に見てみます。
第2節2.1:「上衣・亜麻布等、自然に存在しない素材的富のあらゆる要素 Elementが現存するようになったことは、特別な人間的要求に特別な自然素材を同化させる特殊的な目的にそった生産活動によって、つねに媒介されなければならなかった。」
第2節2.2:「上衣・亜麻布等々の使用価値、簡単に商品体は、自然素材と労働という二つの要素zwei Elementenの結合である。」
第2節2.3:「上衣や亜麻布という使用価値の形成要素Bildungselementは、裁縫であり、機織である。まさにそれらの質がちがっていることによってそうなるのである。それらの実体が上衣価値であり、亜麻布価値の実体であるのは、ただそれらの特殊な質から抽象され、両者が同じ質、すなわち人間労働の性質をもっているかぎりにおいてである。
第3節3.1: 1 拡大された相対的価値形態
一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の成素zahllosen andren Elementen der Warenweltに表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる。こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として〔als Gallerte(ガレルト:膠状物、ゲル・ゼラチンで、細胞・原形質のゲル状の生命物質) unterschiedsloser menschlicher Arbeit〕現われる。
第3節3.2: 貨幣形態という概念の困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態なるものの、すなわち、第三形態の理解に限られている。第三形態は、関係を逆にして第二形態に、すなわち、拡大された価値形態に解消する〔解消される〕。そしてその構成的要素konstituierendes Element〔成素形態Elementarform〕は第一形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣1着または A商品x量=B商品y量である。
したがって、単純なる商品形態は貨幣形態の萌芽〔der Keim(胚、胚芽) der Geldform〕である。
このように「要素Element」は、二通りに使われているのが解ります。一般的な「要素」として使われる場合:2.1、2.2、2.3 と「成素形態としての構成要素」の場合:3.1、3.2 のように要素概念を分化させています。
しかもより厳密に理解されるように、Elementが他の関連用語と接続して重なり合うようにしています。
3.1では、人間労働の凝結物Gallerte。 3.2では、貨幣形態の萌芽KeimにElementが接続しリンクしています。GallertやKeimは伝統的な生物学用語であり、細胞形態として社会有機体の「構成要素」としての役割で表現されていることが解ります。
小島:
そうすると、「個々の商品はこの富の成素形態として現われる」事は、資本主義社会を社会有機体になぞえて、個々の商品が社会の細胞形態の意義を有しているということになるのでしょうか。 また、貨幣形態の萌芽=胚細胞、すなわち受精卵となり生育過程の第一歩が開始される。
マルクスが『資本論』序文で、「ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である」と言っているが,ここに結びつくのか。う~ん、奥が深いですね。
5. 商品の分析とソクラテスの産婆術
レポーター:
小島さんのお蔭で、まとまりがついてきました。この勢いで、第3に移りましょう。
「われわれの研究は商品の分析をもって始まる」この表現も微妙な言い回しが感じられます。分析をもって「始まる」わけだから、「終わりの終着駅はどこで、何?」という疑問(問答法)に対しての返答がこの先どこかで始まるよ、って言外に言っているような語感があります。
事務局:
実は、資本論ワールド編集委員会でも議論が錯綜していました。
古代ギリシャ史の伝統に立ち返ってきた文脈があります。『資本論』を出す8年前の、『経済学批判』ですが、さきほど紹介したアリストテレスの注が注目されています。
「サンダルの使用は、はきものとして用いられると共に交換されるところにある。両者共にサンダルの使用価値である。」 このように 使用価値が、両者・二重の観点で分析されるわけです。
編集委員会では、「商品の分析der Analyse der Ware」のこの「Analyse分析」に注目してきました。 西洋哲学史の世界では、Element
と同様に Analyse も古代ギリシャ哲学史の主要テーマの一つで、中世へ経て、現代まで受け継がれてきた歴史的経過があります。
ソフィストとソクラテスやアリストテレスにいたる時代に、アテナイ市民の間では政治や戦争、経済や交易について「民衆議会」で議論しながら決定していくようになりました。市民相互の討論が活発になり、違った意見同士の問答が、公けの議場でも論戦が戦われました。
また討論会では、問答相手だけでなく、多くの議場参加者の賛同を得る必要性が生じます。そのための「説得術」が流行して、ソフィストと呼ばれる職業人としての「教師」が成立します。ソクラテスの産婆術は、「ソクラテスが話し相手にひっきりなしに質問し、質問しながら相手のもっている観念を分析して、当人が以前意識していなかった新しい思想をさそい出し、当人が新しい思想を生みだすのを助ける、という機能をもつものであった」
(シュヴェーグラー『西洋哲学史』ソクラテスの方法)。
プラトンがこれを「プラトンの対話篇」に仕上げてゆくわけです。紀元3世紀のディオゲネスは「対話とは、なにか哲学上の問題や政治に関する事柄についての、問いと答えによって構成される言論」、「対話の術(問答法)とは、対話者同士の問答を通じて、われわれがある命題を覆したり、あるいは確立したりすることになるような言論の技術」
(『ギリシャ哲学者列伝』プラトンの哲学)として伝えています。
小島:
ソクラテスやプラトンの対話篇を通して、商品の「分析」についての歴史的経過はわかりました。しかし、マルクスが言っている「われわれの研究は商品の分析をもって始まる」ことの全体の文脈のつながりがはっきりしません。また、18世紀のカントが「アリストテレス以来論理学は進歩も退歩もしなかった」と言っていますが、ソクラテスの産婆術やプラトンの対話篇となにか、つながりがあるようにも思えますが。
6. バーボン・ロックの経済論争(貨幣・利子論争)
事務局:
小島さんの疑問・質問は大変重要な論点となっているように思いますが、もう少し先に進んでから、議論したいと思います。
つぎの第2、第3段落では、具体的にソクラテスの産婆術が始まってゆきます。バーボンの(注)が『資本論』の方法論の始まりとも言えるキーポイントになっているようです。 本文とバーボンの(注)が、対話形式による「問答法」形式で表現されています。ジョン・ロックの「貨幣改鋳論」に対するニコラス・バーボンの反論が、二つの(注2)と(注3)で行われています。
ロック・ラウンズ論争は、17世紀イギリス下院議会内外で戦われた「貨幣利子論争」として 経済学史上、画期をなしている論争です。
この一連の論争(ロック・ラウンズ論争とバーボンによって継続された論争)は、『経済学批判』、『資本論』でも取り上げられています。
以上、 ロック「新貨幣改鋳論」に対するバーボンの反論が、「商品の分析」とからみあいながら、進行してゆきます。時間の都合で次回4月、5月号で、論争内容の詳細についてレポート・分析を行ないたいと考えています。
・・・『資本論』入門3月号、最大の焦点・・・
レポーター:
事務局のご指摘のように、3月号、最大の焦点がここにあります。次回に「プラトンの対話篇」、アリストテレス「誤謬論」などの資料を参照しながら第1節バーボン・ロック論争の構造分析を提示する予定しています。
今回はまず、バーボンの(注2、注3)の文脈上の機能について分析してゆきます。
7. 第2段落、第3段落とバーボン (注2、注3)の対話篇
事務局:
話しがだいぶ混み合ってきていますので、一歩ずつ進んでゆきます。第2、3段落前後の文脈の確認作業から始めましょう。
第2段落 「商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。これらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと、ことの本質を少しも変化させない(注2)。
ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生活手段としてであれ、いかに人間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。」
(注2)「願望をもつということは欲望を含んでいる。それは精神の食欲である。そして身体にたいする飢餓と同じように自然的のものである。・・・・大多数(の物)が価値を有するのは、それが精神の欲望を充足させるからである」 (ニコラス・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論集』、ロック氏の「考察」に答えて』)ロンドン、1696年、2-3ページ)。
第3段落 「鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察されるべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したがって、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動である(注3)。
有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには伝習から生ずる。」
(注3)「物は内的な特性(vertue-これはバーボンにおいては使用価値の特別な名称である)をもっている。物の特性はどこに行っても同一である。例えば、磁石は、どこにいっても鉄を引きつける」 (ニコラス・バーボン『新貨幣をより軽く改鋳することにかんする論集』、ロック氏の「考察」に答えて』、6ページ)。
磁石の鉄を引きつける属性は、人間がその性質を利用して磁極性を発見するにいたって初めて有用となった。
さて、以上のようにロックによる「貨幣の価値の引上げに関する再考察」に対するバーボンの反論内容が(注2、3)の基本的性格を構成しています。論点を整理しながら、討論をお願いします。
レポーター:
事務局が指摘するように、バーボンの(注)では、ロックの「再考察」へ反論が行われています。
「ロック・バーボン論争」(もともとは、ラウンズ報告に対するロックの反論)を題材にしながら、「商品(使用価値と交換価値)の分析」を展開している叙述形式が採用されています。
先ほど報告したように、マルクスは『経済学批判』最初の脚注で、アリストテレスの「サンダルの使用価値の二重の利用法」を紹介しています。もともと古典ギリシャの伝統的技法であった、論争を背景とする論理学を体系化した中心人物が、アリストテレスでした。
「ギリシャ人の間には、日常のことば(または命題、または抽象的な語句)を対象にすえて、その不正確さや不整合さを提示して人々に意識させ、そこにひそむ矛盾をあかるみにだすという、一つの教養」が形成されました。アリストテレスはこれを『詭弁論駁論(ソフィスト的駁論について)』という著作にまとめあげています。
推理問答(対話)において、相手の誤りを指摘する一種独特な方法をパターン化しました。アリストテレスは「相手が誤謬(誤り)を犯していることを示すために、相手に逆説を語らせ、矛盾に引き込む」分析・推理方法などを紹介しています。
小島:
いろいろな角度から『資本論』を読んでいければ、実にバラエティにとんでいて~、しかし、複雑で大変難しいです。ひと山もふた山も越えなければ、到底本論まで近づけませんね。それにしても、今日一日でこんなに疲れるとは予想をはるかに超えています。もう急ぎませんから、覚悟を決めてじっくりやりましょう。
事務局:
まったく同感ですね。奥深い山中の入り込んでしまって、薄明かりすらまだ見えてませんね。まあ、気ながに読んでいくしかないようですね。
レポーター:
そんなに気落ちされても、困ります。レポーターの報告能力に限界もありますから。責任を感じてしますので、ここらでコーヒーブレイク、休憩にしましょう。その後、本日の後半戦に突入しましょう。
~・~・~・ ~・~・~・ ~・~・~・
事務局:
さあ~てと、気分も一新できました。元気よく、後半戦にいきましょう。
8. 本文の段落構成とバーボン(注)の配置問題
事務局:
ソフィストやソクラテス、プラトンやアリストテレスなどと、西洋文化の伝統になじみのない私たちにとっては、尋常でない困難さ、理解しがたい面があります。
小島:
しかしこういう議論ができて、『資本論』を読み続けてきて本当に「よかった!」と実感です。
レポーター:
だいぶ元気づいてきました。頑張って、もう一息です。さて、こうした西洋の伝統的推論方式が採用され、日本の文化には馴染みがないだけ慣れるまで時間がかかります。そしてさらに、もうひとつ難点が加わっていると考えています。
この第二の難点から先に説明をします。それは、本文の間に挟まれているバーボンの(注2)(注3)の文体構成といいますか、段落区切りとの配置上の問題点です。
バーボンの(注2)は、第2段落の後、第3段落の前に挿入されていますが、ドイツ語原本では、本文と「脚注(注釈、訳書の注)」とは、完全に分離されて、ページの最下段にあります。一方、日本では『資本論』翻訳本の習慣で、(注)を段落の終わりごとに配置されています。このことによって、第2段落と第3段落の連続性が視覚的に断ち切れてしまい、論旨の分断が生じているように誤解されて理解されるケースが多いのです。
<事務局の注> 『資本論』第1章第1節 岩波書店・向坂訳、 ドイツ語原本 を
3月新着情報に掲載しましたので、参考にして下さい。
試しに、こうなっていた場合の印象はどうでしょうか。
(第1段落)「・・・・「巨大なる商品集積(注1)」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。」
(第2段落)「商品はまず第一に外的対象である。すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。・・・・ことの本質を少しも変化させない(注2)。・・・」
(第3段落)「鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察さるべきものである。・・・」
このように、段落の間にある(注1)、(注2)を外して見ると、「商品の分析」と「商品はまず第一に外的対象である」文脈がぐっと近づいてきます。そして、第2段落の「・・外的対象である・・一つの物である・・」は、第3段落の「鉄・紙等々、一切の有用なる物は、・・・」へと連続して解りやすくすっきりします。その結果、第4段落の「一つの物の有用性は、この物を使用価値にする」場合、一連の「有用性」の議論が一体的に納まりがついてきます。使用価値がトータル的に理解されるはずです。
こうして今度は、第4段落から第5段落にかけて、使用価値と交換価値の「新しい関係」の議論が展開されます。
9. バーボン・ロック経済論争の背後にある「価値」論争
事務局:
だいぶ整理されてきました。急がずに再度確認しながら、探究の旅を続けてゆきたいと思いますすので、ご協力ください。では、第4段落の討論に入る前に、バーボンの(注2)、(注3)と本文との関わりをもう一度整理しておきましょう。
(1)商品の属性に関係する人間の欲望の性質を分類する
本文①「胃の腑から出てこようと」→バーボン(注2)「身体にたいする飢餓」
本文②「想像によるものであろうと」→バーボン(注2)「精神の食欲」
事物(商品)がいかに人間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。
(2)価値を有する、原因となる属性を分類する
バーボン(注2)「大多数(の物)が価値を有するのは、精神の欲望を充足させる」
『資本論』本文第4段落の(注4)ジョン・ロック「あらゆる物の自然価値(natural worth)とは、必要なる欲望を充足させ、あるいは人間生活の快適さに役立つ、物の適性のことである」
(1) の分類では、本文①、②ともバーボンの(注2)と「欲望」については一致していました。
(2) の分類では、バーボンが「精神の欲望を充足させるものが価値を有する」と言っていますが、これに対して、ジョン・ロックは「自然価値は、物の適性による」としています。
「価値」をめぐって両者の認識の違い-問答法-が表面にでてきました。
レポーター:
ここでジョン・ロックについてちょっとマルクスの解説を引用しておきます。
「17世紀イギリスの唯物論がさらに発展したとき、ホッブスはベーコンの唯物論を体系づけたひとである。・・・ホッブスは、ベーコンを体系づけたが、すべての人間の知識は感覚的世界から生ずるというベーコンの根本的原理についてはさらにたちいって証拠をあげなかった。ベーコンとホッブスのこの原理の証拠をあげたのはロックの『人間悟性論』であった。」(『空想より科学へ』、「英語版への序文のマルクスによる)。
ロックは、イギリス経験論哲学の創始者として、またイギリス近代唯物論の復興をになった人物です。また、イギリス下院議会で「新貨幣の改鋳問題」が激しい論争となり、この論争の一方の旗手の役割を果たしました。この経済論争は「貨幣・利子論争」とも言われていますが、銀貨幣と商品の「価値をどうのように定義するか」という論争でもあったのです。
ジョン・ロックは、価値の源泉について、ウイリアム・ペティの労働価値説に連なっているのです。
こうしてマルクスはバーボン・ロック経済論争を背景にしながら、『資本論』本文にバーボンの(注)を挿入することにより、二重の効果 ― バーボンの“価値・精神論”対ロックの“労働生産物・価値論”、そしてソクラテス産婆術の伝統的問答法 ― を演出していることが読み取れるでしょう。
事務局:
続いて、第4段落を読みます。
「一つの物(Ding)の有用性は、この物を使用価値にする(注4)。しかしながら、この有用性は空中に浮かんでいるものではない。それは、商品体(Warenkörper)の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄・小麦・ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。このような商品体の性格は、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるものではない。
使用価値を考察するに際しては、つねに、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄等々というように、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学(注5)の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に-交換価値の素材的な担い手をなしている。」
小島:
この第4段落では、使用価値について三つの規定がされていると思います。
第1に、「一つの物(Ding)の有用性は、この物を使用価値にする。」
第2に、「商品体(Warenkörper)自身が、鉄・小麦等々と一つの使用価値をなしている。」
第3に、「使用価値は交換価値の素材的な担い手をなしている。」
この場合、第1と第3の間にある「商品体Warenkörper」の位置づけですが、「物 Ding」と「・・・体 körper」は、両方とも、実質的には同じことを示していると考えてよいのでしょうか?
事務局:
ドイツ語調査担当の方の話しですと、「物 Dingは、具体的な物、物品を指している」とのことでした。
一方、ヘーゲル哲学の方で言いますと、
「Ding は、多くの性質をそなえた物を示す場合があり、こうした形式をもつこの物は、他の多くの物と区別する“諸性質の集合”として数多性〔数多くの性質〕でありつつ、しかもひとつである」という複雑な存在を示しています。
また、「・・・体 körperは、人間や生きものの身体、体を表す」ときに使われたりします。したがって、商品「体körper」は、文字通り商品というの生きものの「身体」という具合にも解釈ができます。
小島:
そう言えば、ずっと後の第3章価値関係のなかで、「商品Bの使用価値(Ding)が価値の形態を得る」とあります。この場合など、物・モノの多くの性質を示す場合にあてはまるようですね。
レポーター:
そうですね。「使用価値(Ding)は同時に-交換価値の素材的な担い手die stofflichen Trager des - Tauschwerts
をなしている」ような「物・モノ」に当てはまるようです。
11. 「商品に内在的な、固有の交換価値」の「一つの背理」とバーボン
事務局:
では、つぎ第5段落に進みます。ここから、議論が急展開してゆくようです。
「交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところとにしたがって、絶えず変化する関係として、現われる(注6)。したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinsèque)というようなものは、一つの背理(注7)(contradictio in adjecto)のように思われる。われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。」
(注6) 「価値は、一つの物と他の物との間、一定の生産物の量と他のそれの量との間に 成立する交換関係である」(ル・トゥローヌ『社会的利益について』、『重農学派』、パリ、1846年、889ページ)。
(注7) 「どんな物でも内的価値というものをもつことはできない」 (N・バーボン『新貨幣をより軽く鋳造することに関する論策』、6ページ)。
または、バトラーがいうように、「物の価値なるものはそれがちょうど持ち来すだけのものである。」
レポーター:
この第5段落で、いよいよ「問答法」と「誤謬論」に集約されていく舞台装置が登場してきます。
一行ごとに区切ってみていきましょう。
1. 交換価値は量的な関係das quantitative Verhaltnisとして、
ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率die Proportionとして、
2. 時と所とにしたがって、たえず変化する関係 ein Verhaltnisとして現われる。
3. したがって、交換価値は、何か偶然的なもの、純粋に相対的なるものであって、
4. 商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinsèque: フランス語)というようなものは、
一つの背理(cotradictio in adjectoラテン語:形容矛盾) (注7)のように思われる。
5. このことをもっと詳細に考察しよう。
つぎに、バーボン(注7)と少し先の第9段落バーボン(注8)の関連に注目してゆきます。
6. マルクスは、本文のなかで「4.商品に内在的な、固有の交換価値」という概念は、 「一つの背理(形容矛盾)」に該当するか、どうか、詳細に考察すると問題を立てています。
これに対して、バーボンは、「どんな物でも内的価値というようなものをもつことはできない(注7)」
と応答している構図が形作られています。 まるで、「プラトンの対話篇」に出てくる舞台装置です。
こうしてマルクスの対話篇によって、「4.商品に内在的な、固有の交換価値」という概念が、 「一つの背理(形容矛盾)」に該当するか、どうか、詳細な検討が開始されます。
ところで、本文に入る前に、もうひとつ大事な単語がでてきています。「背理」のことですが、他の出版社・翻訳者がcontradictio in adjectoの直訳で、「形容矛盾」としています。岩波書店・向坂訳は、これを「背理」と翻訳しました。この理由は何なのでしょうか?
小島:
資本論研でも、話題になり辞典等で調査したので、報告します。
ここでの「背理」は、背理法を示していると思われます。背理法とは、別名「帰謬法」とも言われ、「ある判断を否定し、それと矛盾をなす判断を真とすれば、それから不条理な結論が導き出されることを明らかにすることによって、原判断が真であることを示す証明法。間接証明法」(デジタル大辞泉)
「数学における証明法のうち,重要なものの一つ。証明すべき命題の仮定のほかに,結論の否定をも仮定して推論を行い,矛盾を導くことにより,もとの命題を証明する方法である。
〈誤りに帰着させる〉という意味で帰謬(きびゅう)法とも呼ばれる。」(世界大百科事典)背理法による「矛盾に導く証明法」に該当すると、大方の意見が一致している段階です。
事務局:
資本論ワールド編集委員会では、「帰謬法reductio ad absurdumラテン語」を調査したところ、古代ギリシャ数学の時代に、「ピタゴラスの定理」で有名な紀元前5世紀のピタゴラスなどによって、論証数学が形成され、「帰謬法」による証明がとりいられたようです。くわしくは、HP参考文献リストで確認してください。(4月号参照)
レポーター:
有名なユークリッドの「(幾何学)原論/ストイケイヤ (ラテン語名Elementa)」にも、帰謬法が採用されています。西洋の伝統では、極めてポピュラーな概念のようです。ただ、背理:contradictio
inAdjecto が、ラテン語ですので、歴史的経過を含めた用語の調査がさらに必要と思われます。事務局でも是非検討の機会をつくってみてください。
12. ついに、老バーボンの登場・・・「老」がついているのは何故?・・・
7. 第9段落、脚本の筋書きが進行して、ついに老バーボンが舞台正面に登場します。
「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違または差別がない(注8)。」
(注8)「一商品種は、もし価値が同一であれば、他の商品種と同じものである。同一価値の物には相違も差別も存しない。・・・・100ポンドの価値のある鉛または鉄な、100ポンドの価値ある銀や金と同一の大いさの交換価値をもっている」(N・バーボン、前掲書、53.57ページ)。
小島:
結局、老バーボンは、「4.商品に内在的な、固有の交換価値」が「存在している」ことと、同じだと言っているように思えるのですが? しかし、これまでバーボンは、「どんな物でも内的価値というようなものをもつことはできない(注7)」と 断言していました。どこかで、筋書きが反転してしまったようです。
事務局:
いよいよ佳境に入ってきました。しかし、時間も深夜に迫ってきました。本日はこのあたりで、いったんひと区切りにしたいと思います。
長時間にわたって中身の濃い討論、大変お疲れでした。ゆっくり休憩していってください。ありがとうございました。次回、4月号は、4月3日に予定しています。充分議論が尽くせなかった論点がいくつも残ったようです。レポーターの小川さんには恐縮ですが、事前に論点を整理してHPへアップをお願いします。特に「プラトンの対話篇」からアリストテレスの「背理法・誤謬論」の説明をお願いします。
また、北部資本論研の小島さんには、本日の討論でいくつか課題も明らかになってきましたので、そのへんの“さわり”で結構ですので、準備をお願いします。
事務局では、ジョン・ロックとバーボンの経済論争等について調査・研究を報告いたします。
本日は長時間にわたって、本当にお疲れ様でした。次回もよろしくお願いします。
>>『資本論』入門4月号 (工事中)