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 資本論用語事典2021
  弁証法的方法


  マルクスの弁証法的方法

   ー 『資本論』 第2版まえがき ー

 
 マルクス『経済学の方法
エンゲルス『経済学批判』について
  資本論ワールド 編集部
 『資本論』第2版まえがき (岩波文庫p.27)

 「 かの筆者〔キエフ大学経済学教授N・ジーベル〕は、私の方法の唯物論的基礎を論じた『経済学批判』の序文から引用をなしたあとで、こう続けている。

  「マルクスにとっては、ただ一つのことだけが重要である。すなわち、彼が研究に従事している諸現象の法則を発見すること、これである。そして彼には、これらの現象が完成した形態を取り、与えられた期間に観察されるような一つの関連に立っているかぎり、これを支配する法則が重要であるばかりでない。彼にとっては、なおとくに、その変化、その発展の法則、すなわち一つの形態から他のそれへの移行、関連の一定の秩序から他のそれへの移行ということが、重要なのである。ひとたび彼がこの法則を発見したとなると、彼は評細に諸結果を研究する。法則はこの結果となって、社会生活の中に現われるのである。……


 こうして、マルクスはただ一つのことのために力をつくしている。すなわち、厳密な科学的研究によって社会的諸関係の特定の秩序の必然性を立証するということ、そして彼に発出点として、また支点として役立つ事実を、できうるかぎり非難の余地ないまでに、確証することが、これである。このためには、もし彼が現在の秩序の必然性とともに、同時にこの秩序が不可避的に移行せざるをえない他の秩序の必然性を立証するならば、それで完全にあますところないものとなる。そのばあい、人類が、これらのことを信じようが信じまいが、また人類がこれらのことを意識していようが意識していまいが、何のかかわるところもないのである。マルクスは、社会の運動を自然史的の過程〔einen naturgeschichtlichen Prozeß:自然史過程〕として考察する。この過程を左右しているのは、人間の意志や意識や意図から独立しているだけでなく、むしろ逆に人間の意志や意識や意図を規定する諸法則なのである。・・・・

 文化史の上で、意識的要素がこのように副次的の役割を演じているとすれば、つぎのことはおのずから明らかである。すなわち、文化そのものを対象とする批判の基礎となりうるものは、決して意識の何らかのある形態、あるいは何らかのある結果というようなものではない。ということは、この批判の発出点として用いられうるものは、理念ではなく、外的の現象だけであることになる。批判は、ある事実を理念でなく、他の事実と比較し対審することに限られるであろう。批判にとっては、次のことこそ重要なのである。すなわち、二つの事実ができるだけ厳密に研究される。そして実際に、一つの事実を他の事実に対比すると、それらは、ある発展のちがった契機をなしているということである。しかしとくに重要なのは、以上の場合にも劣らない厳密さで諸秩序の系列、発展段階の現われる順序と結合が探究されるということである。しかしながら、経済生活の一般的諸法則は同一のものであって、これを現在に適用しても過去に適用しても、全く同じことであるという人があるかもしれない。このことこそマルクスの拒否するところである。彼によればこのような抽象的な法則というものは存しない。  ……逆に彼の見解によると、あらゆる歴史的時代はその固有の法則をもっている。・・・・人の世は、与えられた発展期間を生き終わり、ある与えられた段階から他のそれに移行すると、また他の諸法則によって支配されはじめる。要するに、経済生活は、われわれにとって、生物学の他の諸領域における発展史に似た現象を示す。・・・・

 旧い経済学者たちが、経済的諸法則の性質を、物理学や化学の諸法則になぞらえたとき、彼らは、これを誤り解したのであった。  ・・・・現象をより深く分析してみると、社会的有機体は、お互いに、植物有機体や動物有機体のちがいと同様に、根本的にちがっているということが証明された。・・・・否、一つの同じ現象が、全くちがった諸法則の支配に服するのであって、それは、かの有機体の全構造がちがっている結果であり、またその個々の器官がちがい、さらにそれらの諸器官の機能する諸条件がちがっている結果なのである、等々。マルクスは、たとえばあらゆる時代あらゆる所において、人口法則が同一であることを否定する。反対に、彼はあらゆる発展段階が、その固有の人口法則をもっていることを確言する。……生産力発展の程度がちがうとともに、諸関係は変化し、これを規制する諸法則も変化する。マルクスは、この観点から資本主義的経済秩序を探究し、説明しようという目標をたてて、経済生活のあらゆる正確な研究がもたなければならぬ目標を、ひとえに精密に科学的に定式として表現している。……
  このような探究の科学的価値は、ある与えられた社会的有機体の成立・存続・発展・死滅と、この有機体の他のより高いそれによる代替等のことを規制する特別の法則が明瞭にされるところにある。そして事実、マルクスのこの書はこのような価値をもっている。」

 この著者は、自分で私の実際に用いた方法であると考えていることを、このように適切に説明しており、またこの方法を私みずからどう適用したかを論じては、きわめて好意的に描いてくれているのであるが、ここに描かれたものこそ、弁証法的方法にほかならないものではないか。
 もちろん、叙述方法は確然と研究方法と異なっていなければならぬ。研滉は、素材を細微にわたってわがものとし、その異なった発展形態を分析して、その内的紐帯を探査しなければならぬ。この仕事が完成したのちに初めて、現実の運動をこれに応じて叙述することができる。このことが達成され、いまや素材の生活が観念として再現されるようになれば、一見それは、ア・プリオリに構成されたものを取り扱うように見えるだろう。
  私の弁証法的方法は、その根本において、へーゲルの方法とちかっているのみなちず、その正反対である。へーゲルにとっては、思惟過程が現実的なるものの造物主であって、現実的なるものは、思惟過程の外的現象を成すにほかならないのである。しかも彼は、思惟過程を、理念という名称のもとに独立の主体に転化するのである。私においては、逆に、理念的なるものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的なるものにほかならない。
・・・・以下、省略・・・