文献資料:『資本論』第1版.第2版比較参照
『資本論』第1版 岡崎次郎訳 抄録と論点 | ||
1 | ◆第1版の注意事項 第1版の第1章商品と貨幣は、第2版の「節.(第1~第4節)」と違って、 分割されていない。価値形態論から商品の物神性論まで、第1章で展 開している。第2版第1章と大きく違っているので、注意が必要。 ●論点 第1版論点1を参照。第2版第1節の商品分析の説明が、古典派経 済学の観点から「叙述の敷衍」が行なわれている。2022.10.01. |
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『 資本論 』 第1版 ー 抄録と論点 | |||
1. | 第1版1-17 社会の富と商品の分析 | 論点1. | |
2. | 第1版18-50 商品に表わされた労働の二重性 35.- 79. 価値の形態の分析 |
論点2. | |
3. | 第1版51-93 価値形態の両方の規定 第1版80-93 商品の物神的性格 |
論点3. | |
岡崎次郎訳 『資本論』 第1版 第1部 資本の生産過程 | ||
第1章 商品と貨幣 〔中見出しと段落番号:編集部〕 |
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→ 『資本論』第2版はこちら ( 「新しいウィンドウで開く」で対比して下さい ) → 『資本論』第2版の「初版への注記」 |
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〔中見出しは、編集部作成: 1. 社会の富と商品の分析〕 | ||
1. 資本主義的生産様式が支配的に行われている諸社会の富は、一つの「巨大な商品集合体(1)」として現われており、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われている。それだから、われわれの研究は商品の分析をもって始まるのである。 (1) カール・マルクス『経済学批判』、ベルリン、1859年』、4ページ。〔*注1〕 〔*注1〕 「商品は、イギリスの経済学者達の言葉でいえば、まず第一に「人生にとって必要であり、有用であるか、あるいは快適であるなんらかの物」、すなわち人間の欲望の対象、最広義においていう生活手段である。使用価値であるという商品の固有性(ダーザイン:Dasein)とその手でつかみうる自然的な存在とは一致する。例えば、小麦は、綿花、硝子、紙等等の使用価値と区別された一つの特別な使用価値である。」 |
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〔4. 物の有用性 Nutzlichkeit eines Dings と 素材的な担い手 stofflichen Trager〕 人間の生活にとっての、ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする(4)。われわれは、このことを省略して、たとえば鉄や小麦やダイヤモンドなどのような、有用な物そのもの、または商品体を、使用価値、財貨、物品と呼んでいる。使用価値の考察にさいしては、つねに、量的な被規定性が前提される。たとえば、1ダースの時計とか1エレのリンネルとか1トンの鉄などというように。諸商品の諸使用価値は、一つの独自な学科である商品学の材料を提供する(5)。使用価値は、ただ使用または消費においてのみ実現される。使用価値は、ただ使用または消費においてのみ実現される。。われわれによって考察されるべき社会形態においては、諸使用価値は同時に素材的な担い手をなしている-交換価値の。 (4) 「およそ物の自然的な価値は、いろいろな欲望を満足させるとか人間の生活の便宜に役だつとかいう、その物の適性に存する。」 (ジョン・ロック『利子引下げの諸結果についての若干の諸考察。1691年』、所収、『著作集。ロンドン、1777年版』、第2巻、28ページ)。17世紀にはわれわれはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは?Worth“を使用価値の意味に、?Value“を交換価値の意味に用いているのを見いだすのであるが、それは、まったく、直接的な事物をゲルマン語で表現し、反省された事物をロマン語で表現する、ということを好む一つの言語の精神において行なわれているのである。 (5) ブルジョア社会においては、どの人間も商品の買い手としては百科辞典的な商品知識をもっている、という擬制が支配的である。 |
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〔5. 内在的な交換価値 immanenter Tauschwerth と
(6) 「価値とは、ある物と他のある物とのあいだに、ある生産物量と他のある生産物量とのあいだに、成立する交換関係である。」(ル・トローヌ『社会的利益について』。重農学派。デール編。パリ、1846年。889ページ。)
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〔6. 交換価値の表現様式 Ausdrucksweise des Tauschwerth〕 |
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〔8. 諸商品の諸交換価値は一つの共通なものに還元される〕
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〔12. 単純労働と複雑労働〕 12. 諸価値としては諸商品は結晶した労慟よりほかのなにものでもない。この労働そのものの度量単位は単純な平均労働であって、その性格は、国や文化段階が違っていれば違っているには違いないが、しかし、ある現存の社会においては与えられている。より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされるだけであって、したがって、たとえば、より小さい量の複雑労働はより大きい量の単純労働に等しいのである。このような換算がどのようにして調整されるか、ということはここでは問題ではない。それが絶えず行なわれているということは、経験の示すところである。ある商品はきわめて複雑な労働の生産物であるかもしれない。その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであって、したがって、それ自身はただ一定量の単純労働を表わしているだけなのである。 |
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〔13. 労働が、対象化され、物質化されている〕
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15. 「使用価値の価値の大きさを規定」は、一つの使用価値の生産に社会的に必要な労働時間」
編集部注*ここでの「使用価値」は、慎重に検討することが必要です。
『資本論』第2版第1章第1節第4段落において「使用価値」を以下のように定義しています。・・・・
「たとえば鉄や小麦やダイヤモンドなどのような、有用な物そのもの、または商品体を、使用価値、財貨、物品と呼んでいる。使用価値の考察にさいしては、つねに、 量的な被規定性が前提される。」したがって、「使用価値の価値の大きさ」とは、「有用な物そのもの、または商品体の価値の大いさ」を規定することを意味しています。また、この15段落では、「生産力による価値量の変動」の比例・反比例関係(『国民文庫』p40)が問題となっていませんので、「価値の大いさ」の規定は中途半端な手続きのままで終わってしまいます。(「古典派とアダム・スミスによる規定」を準用)
つぎの15段落では・・・・・・・・・
したがって、マルクスがこの第1節の叙述はイギリス古典派経済学の伝統にそった「価値量」の大いさを反復していると読みとることができます。・・・・・
そこで、マルクスは、次の16段落で“追加して”補足説明を行なっています。
「・・・つまり、ある一つの商品の価値の大きさは、その商品において実現される労働の量に正比例して変動し、その労働の生産力に反比例して変動するのである。」
〔15. 価値の大いさの規定〕
15. それだから、ただ社会的に必要な労働の量だけが、すなわち、ある一つの使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけが、その使用価値の価値の大きさを規定するのである。個々の商品は、ここでは一般に、その商品種類の平均見本とみなされるのである(10)。それゆえ、そのなかに等しい大きさの労働量が含まれている諸商品、すなわち、同じ労働時間で生産されることのできる諸商品は、同じ価値の大きさをもっているのである。ある一つの商品の価値と他の各商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しいのである。「諸価値としては、すべての商品は、ただ、凝固した労慟時間の特定のかたまりでしかない(11)。」
(10) 「同じ種類の生産物は、その全体が、本来はただ一つのかたまりをなしているのであって、このかたまりの価格は、一般的に、そして特殊な諸事情にはかかわりなしに、決定されるのである」。(ル・トローヌ『社会的利益について』、893ページ。)
(11) カール・マルクス『経済学批判』、6ページ。
〔資本論ワールド編集部より-『経済学批判』(新潮社版)p.60
「交換価値としては、すべての商品は、膠結した労働時間の一定の量であるにすぎない。」〕
16.
それゆえ、もしある一つの商品の生産に必要とされる労働時間が不変であるならば、その商品の価値の大きさも不変なままであるだろう。しかし、この労働時間は、労働の生産力に変動が生ずれば、そのつど変動する。労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に、労働者の技能の平均程度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模および作用能力によって、さらにまた自然事情によって、規定されている。同じ量の労働でも、たとえば豊作のときには8ブッシェルの小麦で表わされ、凶作のときには4ブッシェルの小麦でしか表わされない。同じ量の労働でも、富鉱においては貧鉱におけるよりも多くの金属を産出する。等々。ダイヤモンドは地表に出ていることはまれだから、その発見には平均的に多くの労慟時間がかかる。それだから、ダイヤモンドはわずかな量で多くの労働を表わしているのである。ジェーコブは、金にはその全価値がいまだかつて支払われたことがあるかどうか、を疑っている。こういうことがもっとよくあてはまるのは、ダイヤモンドである。エシュヴェーゲによれば、1823年には、過去80年間のブラジルのダイヤモンド鉱山の総生産額は、まだブラジルの砂糖またはコーヒーの農場の1年半分の平均生産物の価値にも達していなかった。もしも鉱山がもっと豊かだったならば、同じ労働量がもっと多くのダイヤモンドに表わされて、その価値は低下したであろう。もしもわずかな労働をもって石炭をダイヤモンドに変えることに成功するならば、ダイヤモンドの価値が煉瓦の価値よりも低く下がることもありうるのである。一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、ある一つの物品の生産に必要とされる労働時間はより少なく、その物品に結晶している労働のかたまりはより小さく、その物品の価値はより小さいのである。これとは反対に、労働の生産力が小さければ小さいほど、ある一つの物品の生産に必要な労働時間はより大きく、その物品の価値はより大きいのである。つまり、ある一つの商品の価値の大きさは、その商品において実現される労働の量に正比例して変動し、その労働の生産力に反比例して変動するのである。
〔 第2版の「初版への注記」 〕
17.
われわれは今では価値の実体を知っている。それは労働である。われわれは価値の大きさの尺度を知っている。それは労働時間である。価値の形態〔編集部注:価値が形態(形式)を持つということ〕、これが価値に交換-価値という刻印を押すのであるが、この形態を分析するのは、まだこれからのことである。しかし、まずその前に、すでに見いだされた諸規定をもう少し詳しく説明しなげればならない。
18. ある物は、交換価値ではなくても、使用価値でありうる。そうであるのは、人間のためのその物の存在が労働によって媒介されていない場合である。たとえば、空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。ある物は、商品ではなくても、有用であって人間労働の生産物であることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は、たしかに使用価値を創造するのではあるが、商品を創造するのではない。商品を生産するためには、彼は、ただ使用価値を生産するだけではなくて、他の人々のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。最後に、どんな物でも、使用対象であることなしには、価値ではありえない。もしその物が無用であれば、それに含まれている労働もまた無用であり、労働としては数えられず、したがってまた、価値を形成しはしないのである。
→ 『資本論』第1版18-50 『資本論』第1版51-79 『資本論』第1版80-93