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『資本論』商品の変態


ゲーテ形態学とメタモルフォーゼ


『資本論』 第3章貨幣または商品流通 第2節 流通手段


  
a 商品の変態 Die Metamorphose der Waren

1.
 商品の交換過程は、矛盾したお互いに排除し合う関係を含んでいることを知った。商品の発達は、これらの矛盾を止揚しないで、それが運動しうる形態を作り出している。これがとりもなおさず、一般に現実の矛盾が解決される方法である。例えば、ある物体が不断に他の物体に落下しながら、同じく不断にこれから飛び去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、その中でこの矛盾が解決され、また実現されてもいる運動形態の一つである。


2.
 交換過程は、諸商品を、それが非使用価値である持ち手から、使用価値となる持ち手に移すかぎり、社会的な物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他のそれとかわる。商品は一たび使用価値として用いられる個所に達すると、商品交換の部面から消費の部面にはいる。ここでわれわれの関心事となるのは、前の方の部面のみである。したがって、われわれは全過程を、その形式的側面 Formseite から、したがって、ただ商品の形態変化 Formwechselまたは社会的物質代謝gesellschaftliche Stoffwechsel を媒介する、その変態 Metamorphose der Waren をのみ、考察しなければならぬ。


3.
 この形態変化を、きわめて不充分にしか理解しないのは、価値概念そのものにかんしてはっきりしていないのを別とすれば、次の事情によるのである。すなわち、ある商品の形態変化は、すべて二つの商品、すなわち、普通の商品と貨幣商品の交換において行なわれるということである。この素材的要素である商品と金との交換をのみ固執すると、人は、まさに見なければならぬもの、すなわち、形態について起こることを看過する。金は単なる商品としては貨幣でないということ、そして 他の諸商品自身がその価格を金で表わすことによって、金は 商品そのものの貨幣態容 Geldgestalt となっているということ、人はこれを見のがしている。


4.
 商品は、まず最初は金メッキもされないで、砂糖もふりかけられないで、あるがままの姿で交換過程にはいる。交換過程は、商品の商品と貨幣とへの二重化を生ぜしめる。すなわち、一つの外的な対立を生ぜしめる。この対立の中に、商品は、使用価値と価値の内在的対立を示しているのである。この対立において、諸商品は使用価値として、交換価値としての貨幣に相対する。他方において、対立の両側は商品である。したがって、使用価値と価値の統一である。しかしながら、この差別〔Unterschied:区別(ヘーゲル小論理学116節)〕 の統一は、両極のおのおのにおいて逆に表示されている。そしてこのことによって、同時に、両極の相互関係が示されているのである。商品は現実に使用価値である。その価値たること〔Wertsein:価値存在〕は、ただ観念的に価格に現われる価格は、商品を、その実在的な価値態容〔Wertgestalt:ヘーゲル「自然哲学」310,311節〕として対立する金に、関係せしめる。逆に、金材料 Goldmaterial は価値体化物 Wertmateriatur として、貨幣としてのみ働いている。したがって、貨幣は現実に交換価値である。その使用価値は、ただ観念的に相対的な価値表現の序列の中に現われるにすぎない。この表現において貨幣は、相対する諸商品に、
これをその現実的な使用
態容 Gebrauchsgestalt の全範囲として関係する。商品のこれらの対立的な形態は、その交換過程の現実的な運動形態である。 


〔ヘーゲルの「小論理学」A現存在の根拠としての本質115、116節と「自然哲学」C統合された個体性の物理学a形態, 308-315節 を参照〕


5. われわれはいま、誰か一人の商品所有者、例えばわれわれの旧いなじみの亜麻布織職について、交換過程の場面、すなわち商品市場に行って見よう。その商品である20エレの亜麻布は、価格が定められている。その価格は2ポンド・スターリングである。彼はこの商品を2ポンド・スターリングと交換する。昔気質のこの男は、この2ポンド・スターリングをもって、再び同一価格の家庭用聖書と交換する。亜麻布は、彼にとって商品、すなわち価値の担い手であるにすぎないが、金、すなわち、その価値態容にたいして売り渡される。そして、この態容からまた他の商品、すなわち、聖書にたいして売り渡される。この聖書は、こうして、使用対象として織職の家にやってきて、ここで教化欲望を充足させるわけである。したがって、この商品の交換過程は、二つの対立した、そして相互に補足し合う変態―商品の貨幣への転化と貨幣から商品への反転―となって遂行される。商品変態の契機は、同時に商品所有者の取引―売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、さらにまた買うために売るというこの両行為の統一―である。

(65) 「ヘラクレイトスはこう言った、だが、すべてのものが火……から成り、そして火は一切から成る。それはあたかも金から財貨が、財貨から金が成るようなものである、と」(F・ラサール『暗き人ヘラクレイトスの哲学』ベルリン、1858年、第1巻、222ページ)。この個所にたいするラッサールの注(224ページ、注3)は、貨幣を単なる価値標章と説いているが、謬りである。


6. そこで亜麻布織職にとって大事なことは、その取引の最終結果であるが、彼は亜麻布のかわりに聖書を、すなわち彼の最初の商品のかわりに、同一価値の、しかし有用性をことにする他の商品をもっている。同様にして、彼は、その他の生活手段と生産手段とを獲得する。彼の立場からすれば、この全過程は、ただ彼の労働生産物を他の人の労働生産物と交換すること、すなわち生産物交換を媒介するだけである。


7. 商品の交換過程は、こうしてつぎのような形態変化をなして遂行される。
 商品 ― 貨幣 ― 商品
 W  ― G  ― W

8. W―Wなる運動、商品の商品にたいする交換は、その素材的内容からいえば、社会的労働の物質代謝であって、その結果としてこの過程自身が消滅する。


9. W―G すなわち、商品の第一の変態または売り。商品価値の商品体から金体への飛躍は、私が他のところで名づけたように〔『経済学批判』岩波文庫版、110ページ〕、商品のsalto mortale(生命がけの飛躍)である。この飛躍が失敗すれば、商品は別に困ることもないが、商品所有者は恐らく苦しむ。社会的分業は、彼の労働を一方的に偏せしめると同時に、彼の欲望を多方面にする。まさにこのゆえに、彼の生産物が彼にとって用をなすのは、交換価値としてだけであることになる。しかしその生産物が一般的な社会的に通用する等価形態を得るのは、貨幣としてだけである。そして貨幣は、他人のポケットの中にあるのである。これを引き出すためには、商品は、とくに貨幣所有者にたいして使用価値でなければならない。すなわち、この商品にたいして支出された労働は、かくて社会的に有用なる形態で支出されていなければならない。あるいは社会的分業の一環たることを立証しなればならない。しかしながら、分業は、自然発生的生産有機体をなしているのであって、その繊維は商品生産者の背後で織られたのであり、またつづいて織られているのである。商品は、ある新しい労働様式の生産物であって、これは新しく現われた欲望をまず充足させるためになされたものであるかもしれないし、あるいは自分の力で、欲望をまず呼び起こそうとするものであるかもしれない。昨日なお同一商品生産者の多くの機能の中の一機能であっても、ある特別の労働操作が、今日はおそらくこの関連から脱して、独立化し、まさにこのゆえに、その部分生産物を、独立の商品として市場におくる。事情は、この分離過程にとって熟しているかもしれず、熟していないかもしれない。生産物は今日は社会の欲望を充足させる。おそらく明日は、これは、全くまたは部分的に、他の類似の生産物種によって、その地位から追われるかもしれない。わが亜麻布織職のそれのように、労働は社会的分業の特許つきの一環であっても、彼のこの20エレの亜麻布の使用価値は、これでは確保されはしない。もし亜麻布にたいする社会的の欲望が、そしてこれは他の一切のものと同じく、限界をもっているのであるが、すでに競争者である亜麻布織職によって充たされているならば、わが友人の生産物は過剰となり、無用となり、したがってまた、有用性のないものとなる。貰い物のあらさがしをするな、という諺もあるが、彼は贈り物するために市場に出てきたのではない。しかし、かりに彼の生産物の使用価値が立証され、したがって貨幣がこの商品によって引き寄せられると仮定しよう。だが、さてどれだけの貨幣が?という問題かおる。答えは、もちろんすでに商品の価格、その価値の大いさの指数によって、先廻りして与えられている。われわれは、商品所有者が、純粋に主観的な、いって見れば、計算の誤りをする、というようなことを無視しよう。これは、市揚でただちに客観的に訂正される。彼は、その生産物にたいして、社会的に必要な労働時間の平均だけを支出したであろう。したがって、商品の価格は、その中に対象化されている社会的労働の定量の貨幣名であるにすぎない。しかし、わが亜麻布織職の許しなく、または彼の知らないうちに、亜麻布織職の古くから行なわれている生産諸条件が、はげしく動いていたかもしれない。昨日疑いもなく1エレの亜麻布の生産にたいして、社会的に必要な労働時間であったものが、今日では、そうでなくなっているかもしれない。このことを、貨幣所有者が熱心に、わが友人のいろいろな競争者の値段づけから、明らかにしてくるのである。彼にとって不幸なことには、世の中には多くの織職がいる。最後に、市場にあるすべての亜麻布が、社会的に必要な労働時間のみを含んでいると仮定しよう。それにもかかわらず、これら各布片の総額は、不用に支出された労働時間を含んでいることもありうる。市場の胃の腑が、亜麻布の総量を、1エレ当り2シリングの正常価格で吸収しえないとすれば、このことは、亜麻布機織の形態で、社会的総労働時間の過大なる部分が、支出されたことを証明する。結果は、各個々の亜麻布織職が、彼の個人的生産物にたいして、社会的に必要なる労働時間より多くのものを投じたのと同様である。このばあい、ともに捕われともにしばり首にされるとでも言うべきである。市場にあるすべての亜麻布は、ただ一つの取引品目として作用し、各布片は、ただその可除部分であるにすぎない。そして実際において、個々別々の布各エレの価値もまた、同一種の人間労働の同一なる社会的に一定した分量を、体化しているもの〔Materiatur〕であるにすぎない。

商品の変態02

商品の変態03>.