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『資本論』第4編 商品資本および貨幣商品の商品取引資本
および貨幣取引資本への転化(商人資本)
『資本論』第3巻第20章 商人資本にかんする歴史的考察
1) 商品取扱資本と貨幣取扱資本にあっては、逆に、生産資本としての産業資本と流通部面における同じ資本との諸区別が、次ぎのことによって独立化されている。すなわち、資本が流通部面で一時的にとる特定の諸形態と諸機能とが、資本の一分離部分の独立の諸形態および諸機能として現われ、そしてもっぱらその中に閉じ込められているということによって、独立化されている。産業資本の転化形態と、種々の生産投資部面における諸生産資本間の素材的な、種々の産業部門の性質から生ずる諸区別と、この二つのもののあいだには天地の差がある。
2) スミスやリカード等のような偉大な経済学者も、資本の基本形態を、産業資本としての資本を、考察し、流通資本(貨幣資本および商品資本)については、実際ただ、それ自体が各資本の再生産過程における一段階であるかぎりにおいてのみ、これを考察しているので、一つの特殊な種類としての産業資本については、困惑に陥っている。
3) これまでわれわれは、商人資本を、資本主義的生産様式の立場から、またこの生産様式の限界内で、考察してきた。しかし、単に商業のみではなく、商業資本もまた、資本主義的生産様式よりも古いのであり、事実上歴史的にもっとも古い自由な、資本の存在様式である。
4) 商品取引資本は流通部面に閉じ込められており、またその機能は、もっぱら商品交換の媒体にあるのであるから、その存在のためには―直接的物々交換から生ずる未発展諸形態は別として―単純な商品流通および貨幣流通のために必要な諸条件以外には、何らの条件をも必要としない。あるいはむしろ、この単純な商品流通および貨幣流通が、商品取引資本の存在条件である。商品として流通に入る生産物が、いかなる生産様式の基礎の上で生産されたにしても―原生的共同体の基礎の上でか、または奴隷制生産の、または小農民的および小市民的生産の、または資本主義的生産の基礎の上でかを問わず―それによってこれらの生産物の商品としての性格が、変ぜられるところはいささかもなく、そして、商品としては、これらの生産物は、交換価値とそれに伴う諸形態変化を経なければならない。商人資本によって媒介される両極〔G-W-G´の両側のG〕が、商人資本にとって与えられていることは、それらが貨幣とその運動とにとって与えられているのと、全く同様である。唯一の必要なことは、これらの極が、商品として存在するということであって、その際、生産がその全範囲にわたって商品生産であるか、または、単に、自己の生産によって充たされる自己の直接的欲望を超えた自営生産者の余剰だけが、市場に投ぜられるのか、は問題でない。商人資本は、自己に与えられた前提としてのこれらの極の、諸商品の、運動を媒介するにすぎない。
5) 生産が商業に係わりをもち、商人の手を経る範囲は、生産様式の如何に懸ることであって、それは、生産物がもはやただ商品としてのみ生産されて、直接的生活維持手段としては生産されない資本主義的生産の充分な発展において、その最大限に達する。他面、いかなる生産様式の基礎の上でも、商業は、生産者(ここでは生産物の所有者と解せられるべきもの)の享楽または退蔵貨幣を増加させるために、交換に入るように定められた余剰の生産物の生産を促進する。したがって交換価値に向けられた性格を、生産に与える。
6) 諸商品の変態、諸商品の運動は、(1)素材的には、単なる諸商品相互の交換から、(2)形態的には、商品の貨幣への転化、すなわち売りと、貨幣の商品への転化、すなわち買いとから、成る。そして、これらの機能に、買いと売りとによる諸商品の交換に、商人資本の機能は帰着する。したがって、商人資本は、単に商品交換を媒介するにすぎない、といっても、これを、初めから、単に直接生産者間の商品交換とのみ考えてはならない。奴隷関係、農奴関係、貢納関係(原始的共同体に着目するかぎりで)にあっては、生産物の所有者であり、したがって、その売り手である者は、奴隷所有者であり、封建領主であり、貢納受領国である。商人は多数人のために買い、そして売る。彼の手にはもろもろの買いと売りとが集積され、これによって、買いと売りとは、買い手(商人としての)直接的欲望に結びつけられてあることをやめる。
7) しかし、その商品交換が商人によって媒介される諸生産部面の社会的組織は、いかなるものであろうとも、商人の財産は、つねに貨幣財産として存在し、彼の貨幣は、つねに資本として機能する。その形態は、つねにG-W-G´である。交換価値の独立的形態である貨幣が出発点であり、交換価値の増殖が独立的目的である。単に富ではなく、その一般的社会的形態における富の、交換価値としての富の、単なる増殖手段としての、商品交換自体とそれを媒介する諸操作。― 生産から分離されて、非生産者によって行なわれるそれ。推進的動機であり規定的目的であるものはGをG+ΔGに転化することである。G―G´という行為を媒介するG-WおよびW―G´という行為が、単にかかるGのG+ΔGへの転化の過渡契機としてのみ現われる。商人資本の特徴的運動としての、このG―W―G´が、商人資本を、W-G-Wから、究極目的としての使用価値の交換にむけられている生産者自身のあいだの商品取引から、区別する。
8) 商人資本の存在と一定の高さまでのその発展とは、それ自体、資本主義的生産様式の発展のための歴史的前提である。というのは、(1)貨幣財産の集積の前提条件としてであり、そして(2)資本主義的生産様式は、商業のための生産を前提し、卸売りであって、個々の顧客相手ではない販売を、したがってまた、彼の個人的欲望の充足のために買うのではなく、多数人の買行為を彼の買行為に集積する商人を、前提するからである。他面では、すべて商人資本の発展は、ますます交換価値に向けられた性格を生産にあたえ、諸生産物をますます商品に転化するという方向に、作用する。
9) 資本主義的生産の内部では、商人資本は、以前のその独立的存在から、資本投下一般の一特殊契機に引下げられ、そして諸利潤の均等化が、商人資本の利潤率を一般的平均に帰着させる。商人資本は、もはや生産資本の代理者として機能するにすぎない。商人資本の発展とともに形成される特殊の社会状態は、ここではもはや規定的ではない。反対に、商人資本が優勢なところでは、時代遅れの状態が支配している。このことは、さらに同じ国の内部でもあてはまるものであって、たとえば純粋な商業都市が、工業都市とは全く異なる過去の状態との類比をなしている。
10) 商人資本としての資本の独立、優勢な発展は、資本のもとへの生産の非従属と同義であり、したがって、資本にとって、外的であり、資本から独立している生産の社会的形態の基礎の上における、資本の発展と同義である。かくして、商人資本の独立の発展は、社会の一般的経済的発展に逆比例するものである。
11) 独立した商人財産は、資本の支配的形態としては、流通過程がその両極にたいして独立することであり、そしてこの両極は交換する生産者自身である。これらの極は、流通過程にたいして独立したままであり、またこの過程も、これらの極にたいしてそうである。生産物はここでは、商業によって商品となる。ここでは商業が生産物の態容を、商品にまで発展させるのであって、生産された商品の運動が商業を形成するのではない。したがってここでは、資本としての資本は、流通過程において初めて出現する。流通過程において、貨幣が資本に発展する。流通において、生産物が始めて交換価値として、商品および貨幣として、発展する。資本は、流通過程の両極を、流通によって相互の間を媒介される種々の生産部面を、支配する術(スベ)を知る前に、流通過程において形成されることができ、またそこにおいて形成されねばならない。貨幣流通と商品流通は、その内的構造からすれば、なお主として使用価値の生産にむけられている、極めて多種多様な組織の諸生産部面を、媒介しうる。諸生産部面が、流通過程において、第三のものによって相互に結合されるのであるが、この流通過程の独立化は、二重のことを意味する。すなわち、一面では、流通がまだ生産を我がものとするに至らず、これを与えられた前提として迎えるということを。他面では、生産過程がまだ流通を単なる契機として、自己のうちに取入れていないということを。
これに反して、資本主義的生産にあっては、この二つのことが行なわれる。生産過程は、全く流通に立脚し、そして流通は、生産の単なる一契機であり、その一通過段階であり、単に、商品として生産された生産物の表現であり、その商品として生産された諸生産要素の補填である。直接に流通から出てくる資本形態―商業資本―は、ここではもはや、資本の再生産運動における資本の諸形態の一つとして、現われるにすぎない。
12) 商業と商業資本の発展は、到るところで、交換価値に向けられた生産を発展させ、その範囲を拡大し、それを多様化し、そして世界化し、貨幣を世界貨幣に発展させる。それゆえ、到るところで商業は、種々に異なるその形態の如何を問わず、主として使用価値に向けられている既存の生産組織の上に、多かれ少なかれ分解的に作用する。しかし、どの程度まで、それが古い生産様式の分解をひき起こすかは、まず第一に、その生産様式の堅固さと内部構成との如何にかかる。そして、この分解過程が、どこに帰着するか、すなわち、いかなる新たな生産様式が、古いそれにかわって現われるかは、商業にではなく、古い生産様式そのものの性格にかかる。古代世界においては、商業の作用と商人資本の発展とは、つねに奴隷経済に結果する。
13) 16世紀および17世紀においては、地理上の諸発見に伴って商業において起こり、商人資本の発展を急速に進めた諸大革命が、封建的生産様式の資本主義的生産様式への移行の促進で、一つの主要契機をなしているということには、疑問の余地はない―そしてまさにこの事実が、全く誤った諸見解を産み出した。世界市場の突然の拡大、流通する商品の幾層倍加、アジアの生産物とアメリカの財宝とを、我がものにしようとするヨーロッパ諸国民間の競争、植民制度、これらのものは、生産の封建的諸制限の粉砕に本質的に寄与した。しかし、近代的生産様式は、その第一期である工業手工業時代(マニュファクチャ)においては、そのための諸条件が、すでに中世の内部で産み出されていたところにおいてのみ発展した。たとえば、オランダとポルトガルとを比較せよ。そして16世紀および一部はなお17世紀においても、商業の突然の拡張と新たな世界市場の創出とが、古い生産様式の没落と、資本主義的生産様式の興隆とに一つの優勢な影響を及ぼしたとすれば、このことは、逆に、すでにひとたび作り出された資本主義的生産様式の基礎の上で行なわれたのである。世界市場は、それ自体、この生産様式の基礎を形成する。他面、この生産様式に内在する、たえずより大規模に生産することの必然性は、世界市場の不断の拡張に駆り立て、したがってここでは、商業が産業をではなく、産業がたえず商業を革命する。今では商業覇権も、大工業の諸条件の大なり小なりの優勢に結びつけられている。たとえばイギリスとオランダとを比較せよ。支配的商業国民としてのオランダの没落の歴史は、産業資本への商業資本の従属の歴史である。
14) 封建的生産様式からの移行は、二重に行なわれる。生産者は、農業的自然経済と、中世都市工業の同職組合的に拘束された手工業と対立して、商人および資本家となる。これが現実に革命的な道である。あるいはまた、商人が直接に生産を支配する。後の方の道は、いかに歴史的には移行として作用するにしても―たとえば17世紀のイギリスの織物商人のように、彼は独立してままの織物業者を自己の統制化に置き、彼らのその羊毛を売って彼らの織物を買い取る―、それ自体としては、古い生産様式を変革するに至りえず、むしろこれを保存して、自己の前提として維持する。たとえば、フランスの絹工業、イギリスのメリヤスおよびレース工業における製造業者は、今世紀の中頃に到るまで、なお大部分は単に名目上の製造業者だったにすぎず、現実には、織物業者には、その旧来の分散的な仕方で作業を続けさせ、自分は、織物業者が事実上彼のために労働する、商人としての支配だけを行なうという、単なる商人であった。
15) かくして、三様の移行が行なわれる。第一には、商人が直接に産業資本家になる。商業の土台の上に起こされた諸産業のばあいがそれで、ことに、商人によって原料や労働者とともに、外国から輸入される奢侈品工業、たとえば、15世紀にイタリアでコンスタンティノープルから輸入されたそれのようなばあいである。第二には、商人が小親方を自分の仲買人(middlemen)とするか、あるいはまた直接に自己生産者から買う。商人は生産者を、名目上は独立のままにしておき、その生産様式を変化させずにおく。第三には、産業家が商人となって、直接に大規模に商業のために生産する。
16) 商業資本はもはや流通過程だけを行なう。元来、商業は、同職組合的および農村家内工業と封建的農業とを、資本主義的経営に転化させるための前提であった。商業は生産物を商品に発展させる。それは一部には、生産物のために市場を作り出すからであり、また一部には、新たな商品等価をもたらし、また生産に新たな原料と補助材料を供給し、したがってまた、初めから商業を土台にして起こされる諸生産部門、すなわち、市場および世界市場のための生産に基づくとともに、世界市場から生ずる諸生産条件に基づいて起こされる、諸生産部門を開くからである。
17) 工場手工業(マニファクチャ)がある程度まで強固になれば、そして大工業がそうなればなおさら、それはまたそれで市場を作り出し、その商品によって市場を征服する。いまや商業は、市場の不断の拡張を生活条件とする産業生産の召使となる。たえず拡大される大量生産は、既存市場に氾濫を起こし、したがってたえずこの市場の拡大を、その制限の突破を、はかりつつある。この大量生産を制限するものは、商業ではなく(商業が現存需要のみを表現するかぎりでは)、機能しつつある資本の大いさと、労働の生産力の発展とである。産業資本家は、たえず世界市場を前にして、彼自身の費用価格を、単に自国の市場価格とのみではなく、全世界の市場価格と比較しており、またたえず比較せねばならない。この比較は、以前の時代には、ほとんどもっぱら商人のことに属し、かくして商業資本のために産業資本にたいする支配を保証する。
18) 近代的生産様式の最初の理論的取扱い―重商主義―は、必然的に、商業資本の運動に独立化されている流通過程の表面的諸現象から出発し、したがってただ外観だけをつかみ上げた。それは、一部は、商業資本が、資本一般の最初の自由な存在様式だからである。一部は、封建的生産の最初の変革期において、近代的生産の成立期において、商業資本の及ぼす優勢な影響のゆえである。近代的経済の現実的科学は、理論的考察が流通過程から生産過程に移るところで初めて始まる。
(終)