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『 近世日本の市場経済 』
『文明としての江戸システム
 江戸時代の資本論
 織田・豊臣・徳川時代の源流
 ー 統一政権誕生の条件 ー

  脇田晴子著 『戦国時代』
   「体系日本の歴史7巻」 小学館 1988年発行

 統一政権誕生の条件 ―おわりに―
 一世紀もつづいた戦国時代は、最後の三分の一にあたる三、四十年間に、国外からの技術導入によって急転回をとげた。大森銀山〔島根県大田市大森・石見銀山〕にはじまる灰吹法の精錬技術と、坑道開削技術の発達と、鉄砲伝来による戦術の変化である。大航海時代にまきこまれた東アジアの国際交流が、日本社会に与えた緊張関係の一環といえるであろう。しかし、これらの技術がたちまちに全国にひろがったことは、国際交流の結果、偶然に入ってきたことをこえて、それらの技術をうけ入れる素地が、すでに全国的にできあがっていたことをしめしている。
 鉱山技術の開発によって銀の産出量は増加し、国内の銀価は低落した。国際的な銀価はかわらなかったので、銀を輸出することで貿易量が増大し、それまでも輸入品の中心であった生糸が、さらに大量に安価で日本に入ってくるようになった。それをうけ絹織物業が発展した。そして中国江南の花機(かき)を改良した高機(たかばた)を製作し、中国からの輸入にたよっていた紋織物(もんおりもの)・金襴(きんらん)・銀襴の製作に成功する。紋織物が国産品でも「唐織(からおり)」とよばれたのは、このときまで日本ではつくれなかったという経緯を物語る。
 輸入生糸が国産生糸より安かったということは、当時の国際貿易は、高級奢侈品貿易をのりこえて、商品の国外と国内のコストの比較の問題になっていることをしめす。それは生活必需品としての陶磁器の輸入が、国産土器の減少にまで影響をおよぼしたことによっても明らかである。最多輸出品の刀剣類にみられるように、輸入した鮫皮(さめがわ)と国産の鉄を材料に、鍛冶(かじ)・塗師(ぬし)などの職人を組み合わせた生産工業の発展もあった。
 鉱山の開削技術と近い関係の、堤防技術による「信玄堤」などの築造は、農地の拡大と安定化を飛躍的に高めた。濃尾平野の輪中(わじゅう)の発展もこの時期にあったのではなかろうか。記録には残っていないが、この時期の耕地増大と、それにともなう人口の増加は、相当量あったはずである。

 領国を超える経済圏
 朝鮮からの主要な輸入品であった木綿は、戦国時代初めの一五世紀前半、すでに北九州で栽培されている。一六世紀中葉には、三河の木綿は特産物となり、近江商人によって京都などに運ばれている。一六世紀中に木綿栽培は東北を除く全国にひろまり、軍需品のみならず、庶民の衣料にもなった。
 灰吹法の導入のほぼ10年後に、鉄砲が渡来するが、鉄砲は戦術・築城を一変させた。また鉄砲はまたたくまに国産化され実用化した。統一政権誕生に向かっての弱肉強食戦争への、加速器の役割をはたしたことはいうまでもない。鉱山技術者の金山衆が城攻めに参加し、山城を掘りくずしたことが史料にみられるが、鉱山採掘技術は築城にも応用される可能性があった。
 鉱山技術や鉄砲が急速に全国に普及したのは、それらの技術や商品が需要される機が十分に熟していたことをしめしている。
 そしてそれらを必要としたのは戦国大名であった。しかし、その背景には、領国経済を超えた、国際貿易ともつながる全国的な流通圈が存在していなければならない。もはや、領国大名では支配しがたいところまで経済圏は拡大していたのである。このように拡大した経済を掌握し、支配の枠内に押さえきるもの、それは統一権力でなければならなかった。領国大名支配を前提とする幕府は滅亡した。統一権力としての織豊政権の成立はその足元まで迫ってきていた。
 
■脇田晴子
  1934年、西宮の20代つづいた商家に生まれる。大阪外大教授。のち滋賀県立大教授。専門は中世商業史,都市史。