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 宮本又郎著 『 近世日本の市場経済 』 有斐閣1988年発行
   
― 大阪米市場分析 ―

  序章 本書の課題と研究史の動向

     序章の目次
   1. 本書の課題
   2. 研究史と本書の方法 (略)
   3. 本書の構成       (略)
   4. 江戸時代の米の生産・消費・流通

 
  資本論ワールド 編集部
   はじめに
  宮本又郎著『近世日本の市場経済』は、前資本主義段階の江戸時代「商品経済・W―G―W」研究に欠かせない文献です。図0-1江戸時代の米の生産・消費・流通 〔図0-2〕 〔江戸時代における米の流通機構〕についての模式図を最初に参照してください。図0-1、図0-2の説明文は「4 江戸時代の米の生産・消費・流通」に記載されています。
 ・・・なお、小見出し〔〕は、編集部にて作成してあります。




   『近世日本の市場経済』
     1. 本書の課題


     〔1. キーワード:市場経済・米・大阪
 幕藩制社会は一定の商品流通、市場経済を前提として成り立った社会であったとしばしばいわれる。とすれば、その市場経済はどのような仕組みをもち、どのように機能していたのだろうか。本書は、この問題を、江戸時代において最も重要な財貨であった米を対象に、また江戸時代の経済の循環構造において最も枢要な位置を占めた大坂をフィールドに設定して、追究しようとするものである。いわば、「市場経済」「米」「大坂」、この三つが本書の主題を端的に表現するキィーワードということになる。

     〔2. 幕藩領主の米市場経済
  「市場経済」「米」「大坂」を論じた研究は多い。このいささかクラシックと思われる課題を改めて追究しようとする動機は何か。最初にこれを明らかにしておきたい。
 ひとつにそれはきわめて素朴な関心に基づいている。江戸時代の社会経済を称して「米遣いの経済」とか「石高制社会」という米に関係の深い表現が使われることが多い。ここには江戸時代において米が最大の生産物、最大の消費物資であったという意味を越えて、米にかかわる経済関係が社会の基礎をなしているという認識がこめられている。とりわけ幕藩頷主にとっては米は重要な財貨であった。近世大名たちは石高制・米納年貢制を採用し、貢租を米にほぼ一元化していたが、収取された年貢米は単に領主階級の日常消費にあてられる意味での生産物地代ではなく、市場で換貨されて他の消費物資購入の原資となるべきものであった。つまり幕藩領主経済は米をめぐる交換経済の存在を前提としていたのであり、米をめぐる市場経済のワーキングに大きく依存していたのである。農民・商工業者にとっても米市場のあり方は大きな問題であった。農民にとっても米はやはり最大の商品作物であったし、城下町や都市に住み、食糧生産から離れていた町人にとっては市場でどのように米を調達できるかが重要な問題であった。このように、かまえていえば、米をめぐる市場経済の仕組みやそのワーキングを知ることは江戸時代の経済社会の特質を解明しようとするさいに逸することのできない重要性をもっている。これが本書の第一のそして最も直接的な研究関心である。

     〔3. 江戸時代の市場経済の位置
 江戸時代における市場経済の展開に関心をもつ第二の理由は、それが日本の近代経済発展にきわめて重要な意義をもっていたと思われるからである。明治維新以降における日本の近代経済成長が「西洋からの衝撃」を大きな契機としていたことは改めて論じるまでもないが、それと同時に江戸時代の「遺産」や江戸後期以来の成長への胎動がそれの重要な前提条件となっていたことを認めることが、近年の近世および幕末・維新期経済史研究の潮流となっているといってよい。しかしながら、江戸時代からの連続性を認めたとしても、その連続性は必ずしも特定の生産設備、生産技術、経営体など目にみえるものにあったわけではない。むしろそれらには明治維新以降相応の改変が加えられ、一見したところ断絶性の側面の方が色濃く現れているとさえいえるのである。より重要な遺産は、環境条件が変化したときにそれに対応することができる「転換能力」というべきものがひとびとに備わっていたことであろうし、それを可能とするシステムが社会に組み込まれていたことにあると、私は考える。

 そして、それには市場経済の経験が大きな意味をもっていたであろう。市場経済とは諸商品の、および労働・土地・資本という生産諸要素の価格・賃金・地代・利子率が市場において決められ、この価格・賃金・地代・利子率をバロメーターとして、各経済主体が自己の経済的利益を最大化するように行動し、その行動の集計によってその社会の資源配分が決定される仕組みのことを指している。このように市場経済は基本的には価格を媒介とするひとびとの行動様式のことを意味している。一例を挙げてみよう。
 幕末開港時に日本には独自の諸商品相対価格の構造、すなわち物価体系が存在していた。それは閉鎖体系下での日本の生産要素賦存状態に対応するものであったが、それゆえに世界の物価体系との間に大きな懸隔をもつものであり、開放体系への移行によって小国の日本の物価体系は世界のそれに大きく影響を受けることになった。明治維新以降の急速な産業構造の変化はこの物価体系の変化への対応であったといえる。「上からの資本主義」としばしばいわれるようにこの産業構造の変革には政府が一定の役割を果たしたが、この政策も物価体系の変化を触知してなされたものであり、それ自体一種の市場経済的対応であったともみなしうる。
 しかしながら、ひとびとの市場経済的行動を支えるためには一定のシステム、制度が必要である。このシステムには統一的貨幣制度、輸送手段の整備、需給投合市場の成立、情報伝達手段の発達などのほか、取引を履行するルール、度量衡・市立て・値組方法の統一、商品検査制度、代金決済方法の取決めなど経済取引に関するもろもろの制度・慣習が含まれる。市場経済による均衡はインヴィジブル・ハンドの手によってもたらされるといわれるが、その背後にはその社会が構築したこのような諸制度が存在しているのである。再び開港時の例を引くと、生糸や茶が輸出商品となりえ、いち早く生産の場でその対応がとられたのには、それらが世界市場で売れるという情報が国内に伝達され、その取引を担う商人がおり、開港場にそれらを輸送する手段があり、代金決済・送金のシステムが存在していたことなどの先行諸条件が大きく効いていたであろう。この場合、こうした新しい取引が従来の国内商業を担ったものとは異なる商人によって行われたり、新たな輸送ルート{手段、金融システムに乗って行われることは当然ありえたが、その場合でも、それらは伝統的な国内商業・金融・運輸システムと独立に構築されたものでなく、一部はそれと重なりあい、また旧来のシステムにおける学習を活かして構築されたものであったろう。開港以後大坂・江戸を中心とする伝統的国内商業機構が動揺を経験したことは知られている通りであるが、逆にそれは既存の市場経済諸制度が新しい環境条件に自らを適応させようとするプロセスであったとみることもできるのである。
 こうしたひとびとの市場経済的行動様式がどのように形成され、そしてそれを支える市場経済諸制度がいかに準備されつつあったかを考察したいというのが、本書の背後にひろがる第二の研究関心である。

       〔4. 米納年貢性と市場経済
 さて右のように本書の課題を設定すると、直ちに一つの疑問・批判が寄せられることが予想される。すなわち、江戸時代において流通する米の大半部分を占めていたのは石高制=米納年貢制に基づいて領主階級によって収取された年貢米であり、その生産や流通には幕藩領主の介入があったから、本来的な意味での商品ではないし、また天領である大坂は領主的商品流通の結節点として位置づけられていた市場で、これまた幕藩制的規制を受けていたから、大坂における米の市場関係を事例に江戸時代の市場経済、ことに近代につながる市場経済の展開を追究するのは適切ではないと。

 この疑問へは本書全体が一定の回答を与えることになるが、あらかじめ若干のことを述べておこう。第一に私は、江戸時代における米や大坂の性格を、幕藩制の所与のロジックによってア・プリオリに措定するのは適切ではないと考えている。むしろ、米をめぐる市場関係の仕組みやワーキング、あるいは大坂市場のそれらを予断をもたずに解明することによって、米・大坂を基軸財貨・基軸市場としている江戸時代の経済構造の姿を新たに見直す視座が開けてくるものと思っているのである。第二に、幕藩領主が市場に供給する米は年貢として集荷されたがゆえに商品とはみなされないことが多いが、第1章で論じるように、私は逆に江戸時代の米は商品性を有していたがために、貢租となりえたのだと理解している。つまり、米市場の存在が米納年貢制を成立させ、それがまた米をめぐる市場経済の発展を促進したというように米納年貢制と市場経済との間の相互作用を重視すべきと思っている。それゆえ、米をめぐるそれのうちに江戸時代という歴史社会の市場経済の仕組みの特性が典型的に現れると考えているのである。もっとも、とはいえ当初は市場経済による資源配分を前提として成り立った石高制=米納年貢制が、条件の変化にかかわらず、強固な制度として体制にビルト・インされてしまうと、価格をバロメーターとして生産と消費が決定されるという市場メカニズムの働きが制約されることが予想されるだろう。とくに米作強制、貢租の米納一元化が行われると供給は価格に関して非弾力的となるであろう。江戸時代の米をめぐる市場経済のワーキングを検討しようとする場合、これは一つの関心事とならざるをえない。
 右のことと関連して、一つ付言しておくと、本書は、いわゆる「領主的商品流通」と「農民的商品流通」を対立する図式でとらえる従来の近世商品流通史の視座からほとんど自由な立場に立っている。この概念は、江戸時代社会が決して自給自足的な自然経済のもとにあったのではなく、一定度の商品・貨幣経済を前提としている社会であったことを認めた上で、しかし年貢米の商品化を基軸として展開する市場関係は領主経済を成り立たせるものであるとはいえ、一般生産者を商品経済から隔離しているという意味において「領主的商品流通」であり、他方一般農民が分業により市場向け生産を行い、その間あるいは商工業者との間で市場関係を取り結ぶことを「農民的商品流通」と呼ぶものである。そして前者においては異なった再生産構造・物価体系をもつ複数の領国経済あるいは共同体が存立し、その間で行われる隔地間流通が全国市場の実態であるから、そこでは全国的に一物一価の法則が成立せず、この商業活動によってもたらされる利潤は地方間・異時点間の価格差に基づく投機的・冒険的利潤にあるとされる。これに対して農民的商品流通においては自由な商品取引を前提として成立する局地内市場での価格に基づいて生産者と消費者が行動して生産と消費を決定し、やがてこの局地内市場が遠心的ひろがりをもって国内市場の成立を生ぜしめるから、そこでは一物一価の法則が成立し、商業活動による利潤は生産過程の利潤の一部をなす本来的な商業利潤として現れるとされるのである。そして、江戸時代とくにその後半の商品流通の歴史はこの領主的商品流通に対抗する農民的商品流通の台頭、いいかえれば封建制下の商業に対する資本主義的商業の勃興という図式のもとに捉えられるのである。

 この二分法は商品生産、市場経済が社会にどれほど深く浸透しているかを考える場合には一定の有効な概念装置となりえよう。しかし、私は両者の市場経済がまったく異質なもの、対抗的なものとは考えてはいない。これはいわゆる価値論の世界にかかわるから深く立ち入ることは避けたいが、具体的にいえばこうである。すなわち、まず第一に先にも少し触れたように、年貢米の生産や流通は単に領主階級のためのものではなく、一般的な社会的分業を前提とするものであった。第二に江戸時代後半には確かに領主的商品に対する農民的商品の比重が増していったが、その代表格である農民米や木綿製品は領主的市場として開かれた中央都市市場で、あるいはそれの影響を受けた地方市場で販売され、また農民の商品生産物である地方特産物も藩営専売仕法という形態での領主的流通機構のもとで全国商品化された。つまり農民的商品流通は領主的商品流通と独立に、あるいは後者を全面的に否定するものとして成り立ったわけではなかった。領主的商品の販売のために開かれた市場関係といえども、ひとたびそれが恒常的に成り立ったならば、そこには供給者と需要者が価格を媒介として対峙する市場経済の原理が働いたとみるべきであり、農民による商品生産の発展もこの市場からのインパクトを大きな契機としていたとみなければならないのである。領主的統制が強いと考えられがちな大坂堂島米価や江戸張紙値段が全国の米穀需給に関連して動き、それに対応した農産物の作付決定や年貢収取の変更が広くおこなわれたIことなどはその例である。

 このように見る立場から、私はいわゆる「領主的商品」の代表である年貢米をめぐる市場経済の仕組みやワーキングを考察することによって、江戸時代の市場経済のありようを、決して全面的にではないが、かなりの程度明らかにできると考えている。以下では、「幕藩制的商品流通」「幕藩制的全国市場」という概念も使われるが、右に述べた理由でそれは「領主的商品流通」という概念と必ずしも一致しないことを断っておきたい。


 2 研究史と本書の方法  ・・・省略・・・
 3 本書の構成 ・・・省略・・・


    4 江戸時代の米の生産・消費・流通

 本書は江戸時代の米市場について考察しようとするものであるが、以下の行論ではその生産と消費についてはまったく触れるところがない。そこで、序章を結ぶにあたり、江戸時代の米の生産量はどの程度のものであり、消費にどのように配分され、市場流通量はどのくらいのものであったのか、少し検討しておくことにしよう。

 図0-1江戸時代の米の生産・消費・流通〕 に、19世紀前半を想定し、これらの諸量についての計算を示すが、もちろんこれらのマクロ統計は存在しないから、これは断片的な情報と多分に不確かな想定に基づいた一つのエクササイズにすぎない。目的は米の生産・消費・流通についての推計を明らかにすることではなく、これら諸量について目安を得ることである。

 計算の前提となる諸数量、諸パラメターは次の通りである。産出高は2700万石とおく。これは元禄年間の全国総石高2578万石、天保13年(1842)のそれ3055万石、明治7年(1874)『府県物産表』による米生産量2591万石、明治10年前後の全国米生産量約2500~3100万石から、その中央値に近い2700万石をとったものである(想定A)。次に産出高2700万石はまず農民と領主階級に分配されると考え、分配率は貢租率と貢租米納率の積によって決まるとおく。貢租率は40パーセント、貢租米納率は3分の2とする(想定B)。一人当り年飯米消費は郡村0.7石、市街1.2石とする(想定C)。これは明治12年の国債局調査の数字、郡村0.7613石、市街1.2184石を参考にしたものである。また総人口は3100万人(幕府統計では1820年ごろの人口は2660万人強であるが、関山直太郎氏によれば統計脱漏人口は約450~500万人にのぼったという)、人口の身分別構成比は農民85パーセント、武士6パーセント、町人9パーセントとする(想定D)。町方の米需要は町人の飯米と酒造その他の工業原料からなるとし、後者の総需要は150万石とする。酒造米需要の正確なデータはないが、元禄11年(1698)の全国酒造米高データ90万9340石を時代の推移を考慮して膨らませたものである。

 以上の諸前提に基づいて産出米高2700万石の行方を計算すると、次の数値が得られる。想定AとDに基づくと、領主米は720万石で、そのうち223万石が武士消費量となり、残りの497万石が町方へ供給可能量となる。同じ想定で、農民米は1980万石で、うち1844万石が農民によって消費され、残る136万石が町方へ供給可能である。したがって町方へ供給される米は総計633万石となる。他方想定C・D・Eによると、町方からの米需要(町人飯米+酒造・工業原料)は総計485万石となる。
 右から米の生産と消費のバランスを産出高=武士消費+農民消費+町人飯米+酒造・工業原料という式にあてはめると、左辺は2700万石、右辺は2552万石(223万+1844万+335万+150万)となり、差引148万石の超過供給となる。しかし、これは輸送および保管中の損耗を無視しているためであるかもしれない。
『日本米食史』によると明治年間の米の損耗率は収穫の6.6パーセントにものぼる。そこで右の計算上の超過供給148万石を損耗分(損耗率5.5パーセント)と考えれば、生産と消費はバランスする。

 次に領主階級・農民はまったく米を市場で購入せず、町方だけが市場で購入し、また損耗は売手側・買手側それぞれ同じ率で生じたと仮定すると、米市場のバランスは、領主側販売米(497万石)+農民側販売米(136万石)-損耗(133万石)=町人飯米(335万石)+酒造・工業原料(150万石)+損耗(15万石)となる。つまり米市場の規模は500万石程度、領主米・農民米のシェアは約4対1 (これは大坂の蔵米対納屋米比率が4対1であったという通説と一致する)であったということになる。しかし、米市場規模500万石は明らかに過小評価であろう。なぜなら右の計算では農民・武士はすべて米を購入しないと想定しているが、米生産をやめた、あるいはそれが不可能であった農民や、参勤交替で国許を離れた武士の存在を考えると、かれらの需要も米市場に現れてくるからである。したがって、逆にいえば19世紀後半の米市場の規模は最小に見積もっても500万石以上であったということになろう。 
   
 次に地域別にはどうか。いま大坂と江戸だけについて見ると、第2章で見るように大坂には17世紀後半以降年100~150万石の蔵米とその4分の1程度の納屋米が入津していたようである。江戸についてはあまりデータはないが、幕末の文久2~元治元年(1862~64)の史料によると、諸藩幕府の売却米40万石余、関東地廻りの農民米が42万石余、総計84万石余であった。また大石慎三郎氏は江戸中期以降の江戸への入津米は大坂のそれと匹敵するほどの量であったろうと推定している。とすると、大坂と江戸の二大市場だけで最低200万石、最高400万石が流通していたことになる。以上はまことに粗っぽい目の子算で、主張するに足らないものであるが、二大都市市場の大きさをイラストするには役立つであろう。以下本書で対象となる大坂市場はこのようなプロフィールをもつ市場であった。
 参考までに、江戸時代における米の流通機構についての模式図を図0-2として掲げておく。