▼商品物神性02
『資本論』 フェティシズム と キリスト教神学
はじめに
資本論ワールドの中心的な課題の一つに、「商品の物神的性格」(『資本論』第1章第4節)を身近に理解できるようになるには、どのような手立てが要求されるのか―という問題があります。 「商品の物神的性格」について、一見もっともらしく受け取れるような、マルクス自身による “平易な” 説明 がなされています。
例えば、
1. 「生産者たちにとっては、彼等の私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われるのである。」 〔・・・そうか、物の諸関係か・・・〕
2. この文脈のなかに登場する「人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係」について説明が続きます。
「労働生産物が、価値であるかぎり、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類の発展史上に時期を画するものである。」 〔・・・ウン、そうか、物的な表現か・・・〕
3. 「しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観をおい払うものではない。」 〔・・・ウ、外観は変わらない?!・・・〕
4. 「この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行われているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚われているものにとっては、あたかも空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、“終局的なもの”に見えるのである。」
「空気の構成要素(窒素、酸素、二酸化炭素など)が科学的に分解」されても、身の回りに存在する「空気形態」―すなわち無色透明の空気、例えば風が空気の流れとして存在するように―は、“終局的なもの”に見えるのである。」
〔・・・空気は無色透明だから直接には見えない・・・〕
ちょうど、「地球は太陽の周りを回っている」と科学的に発見されても、日常的な感覚から意識される事は、 「太陽が地球の周りを回転している」という現象形態で一般に理解されてしまうのです。
5. したがって「商品の物神性」とは、「この歴史的に規定された社会的生産様式の、すなわち、商品生産の生産諸関係にたいして、社会的に妥当した、したがって客観的である思惟形態なのである。」
6. 「それゆえに、商品生産にもとづく労働生産物を、はっきり見えないようにしている商品世界の一切の神秘、一切の魔術と妖怪は、われわれが身をさけて、他の諸生産形態に移ってみると消えてなくなる。」
しかしながら逆に言うと、日頃意識されている内容は、魔術と妖怪の商品世界-フェティシズム(物神崇拝の世界)である、とマルクスは解説しています。
では、このようにして常識的、一般的に意識されている日常的なフェティシズム を人類はどのように受けとめてきたのでしょうか? これを探求してゆくこと―資本論ワールドの課題としています。
7. 「商品生産者の一般的に社会的な生産関係は、彼らの生産物に商品として、したがって価値として相対し、また、この物的な形態の中に、彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにあるのであるが、 このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽象的人間の礼拝をもって、とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム、理神論等において、もっとも適応した宗教形態となっている。」
8. 「現実世界の宗教的反映は、一般に、実際的な日常勤労生活の諸関係が、人間にたいして、相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになってはじめて、消滅しうるものである。社会的生活過程、すなわち、物質的生産過程の態容は、それが自由に社会をなしている人間の生産物として、彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになってはじめて、その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。だが、このためには、社会の物質的基礎が、いいかえると一連の物質的存立条件が、必要とされる。これらの諸条件自体は、また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。」
いかがでしょうか?マルクスによる “平易な” 説明 のようですが、一つひとつの構文をじっくり見つめると、なかなか歯応えのある文脈に満ち満ちています。これからの半年間読者と共に、『資本論』フェティシズムの登山コース を散策してゆきます。まず最初に、『資本論』のフェティシズムの基調にある「キリスト教神学」から始めてゆきますので、資本論ワールド冒険隊の皆さん、体調を整えテキスト(文献資料)を参照しながら、『資本論』の物神性論とキリスト教神学を探索してゆきましょう。
<目次>
第1部 フェティシズムの背景ー伝統的キリスト教神学
第1章 稲垣良典:ペルソナと神学的キリスト論
第2章 小倉貞秀:ペルソナ概念の歴史的形成
第3章 稲垣良典:「受肉と神化」―神学的概念について
第2部 『経済学批判』に登場する「商品の物神的性格について
・・・~ ・・・~ ・・・~ ・・・~ ・・・~ ・・・~
第1部 フェティシズムの背景ー伝統的キリスト教神学
第1章 ペルソナと神学的キリスト論
文献資料:稲垣良典著 『 トマス・アクィナス 』
「存在・エッセ」の形而上学 春秋社 (p180)
神学的キリスト論
1. 「神学的キリスト論」という表現は、聖書学的研究にもとづく「歴史のイエス伝」から区別された、教義神学的な「信仰のキリスト論」を指すものと受けとられるかもしれないが、トマス〔Thoma
Aquinas トマス・アクイナス 中世ヨーロッパ、イタリアの神学者。1225-1274 〕 においてはそのような区別は意味を持たないのであって、そこではまず神の啓示に基づいて信仰から出発する「神がわれわれの救いのために人間になり給うた」という受肉の神秘に関する神学的探求があり、それに続いて「人間となった神」であるイエス・キリストは地上の生においていかなることを為し、またこおむったかについての神学的考察が行われるが、これも根本的には受肉の神秘に関する神学的探求である。言いかえると、トマスにおける神学的キリスト論は、その全体が受肉の神秘に関する神学的探求であって、それ以外のものではない。
2. では神学的キリスト論それ自体は、いつ、どのようにして成立したのか、といえば、受肉、すなわち「 神がわれわれの救いのために人間になり給うた 」という信仰の神秘が教会の教義として確定された時に、広い意味での神学的キリスト論の歴史が始まった、と言えるであろう。この教義、すなわち人間となった神であるキリストにおいては神的本性(natura dogma)と人間本性 (natura humana) が「子」(Filius) あるいは 「言」(Verbum・みことば)と呼ばれる神的ペルソナにおいて合一しており(ペルソナ的あるいはヒュポスタシス的合一)、そのことのゆえに一にして同一のキリストは 真実の神(Verus Deus)であって真実の人間 (verus homo)である、という教義が確定されたのは 現在のトルコ、ボスポラス海峡をはさんでコンスタンティノポリスの対岸に位置する カルケドンで
451年の開催された 第4回公会議においてであった。
3. ・・・・ここでは読者ができるだけ問題の核心に迫ることができるよう、この公会議の記録の最も重要な一節を紹介する (原文はギリシャ語とラテン語の併記)
「それゆえ、われわれはみな、聖なる教父たちに従って、声を一つにして信仰宣言を数える。われわれの主イエス・キリストは 一なる同一の御子である。彼は神性において完全であり、また同じく人間性において完全である。彼は真実に神であり、理性的霊魂と身体を有し、真実に人間である。神性に即しては御父と同一本質であり、同じ彼は人間性に即してはわれわれと同一本質であり、罪を除いてはすべてわれわれと同じである。彼は神性に即しては世々の前に御父から生れ、人間性に即してはその同じ彼は終りの日々にわれらのため、またわれらの救いのために神の母なる乙女マリアから生れた。
4. 一にして同一のキリスト、主なる御ひとり子であり、何らの混合、変化、分割、分離もないところの二つの本性において認識されるべきである。合一のゆえに二つの本性の差異が取り去られることはなく、むしろ両本性の特性は保全されながら 一つのペルソナそして自存(subsistentia)へと合流し、彼は二つのペルソナへと 分離、分割されることなく、さきに預言者たちが彼について、そして彼イエス・キリスト自身がわれわれに教え給い、教父たちの信経がわれわれに伝えたごとく、 一にして同一の御ひとり子、神、言(みことば)、主なるイエス・キリストである。」・・・・
5. 「受肉の神秘」という神の「最も驚くべき不思議な業」を理解しようとする試みとしての神学的キリスト論が最初に生まれたのは、何世紀にもわたって「キリストは何ものか」という問いをめぐって烈しい論争を行なってきた東方ギリシャ教会においてであり、その中心的人物はヨハネス・ダマスケヌスであった。・・・・
この解説においてとくに注目に値いするのは、カルケドン教義の「一つのペルソナにおける二つの本性の混合・変化・分割・分離なき、そして両本性の差異・特性を保全したままの完全な合一」という定義を解説するにあたって、「受容」(assumptio)という 概念を導入したことである。キリストにおいて神的本性は永遠の昔から超時間的に神的ペルソナである永遠の言(ことば)によって所有されているのにたいして、人間本性は終わりの時に同じペルソナによって「受容」されるのであって、それが「言(ことば)の受肉」(Incarnatio
Verbi)であり、ペルソナ的(ヒュポスタシス的)合一である、と説明される。
確かに「受容」という概念の導入によって「一つのペルソナ(ヒュポスタシス)における二つの本性」という定式が呼び起こしがちな様々の難問に対処する新しい道が開かれたのであり、その意味でダマスケヌスは神学的キリスト論の歴史において重要な寄与をした。
6. しかし、ダマスケヌスは「受容」の概念について明確に規定してはいないし、何よりも「神が人間となる」という誤解され易い語り方を「神的ペルソナが人間本性を受容する」という神の業についての明確な記述で置き換えていながら、そのことの意味について何も説明していない。さらにまた、神であるペルソナが人間本性を受容するという、無限・永遠なものがいわば自らを「無化」して直接的に有限・時間的なものと結びつくということがいかにして可能であるかを存在論的に説明する、という問題を取り上げてもいない。
7. トマスの神学的キリスト論の意義は、独自の存在論に基づく神学的探求を通じて、これらの問題と正面から取り組んだことであった、と言えるであろう。・・・・
トマスは『神学大全』第3部第1-15問題における「受肉の神秘」の体系的な神学的探求を、言語哲学的省察とも呼ぶべき第16問題で振り返ることによってこの難問と取り組んでいる。
8. トマス「受肉の神秘の存在論的考察」について
『神学大全』 第3部第16問題 では、神である言(ことば)が人間になるという神秘を、われわれが人間理性に可能な限り理解し、言語化しようと試みるときに、この神秘にふくまれている「在る」(esse)と「なる」(fieri)との関わりから生じる問題が言語哲学的に考察された。
次の第17問題から第19問題においてはキリストの「一(なること)」(unitas)が存在(esse)、「意志」(voluntas)、および 「働き」(operatio)に関して考察されるが、ここではキリストの存在が一であることを論じている第17問題がわれわれの関心の対象である。
問題はある意味で極めて単純であり、「人間となった神である」キリストは真の神であり、真の人間であるとわれわれが信じて告白するとき、どうしてキリストのうちに「神である」「人間である」という二つの異なった「存在(ある)」を定立する(penere)ことにならないのか、が問われている。この問題に関するトマスの基本的立場は、「在る」と端的に言われるのはペルソナあるいはヒュポスタシスであり、本性は端的に「在る」のではなく、ペルソナあるいはヒュポスタシスが「それにおいて」在るところのものだ、 というものである。したがって、キリストにおいては二つの本性が区別されるが、ペルソナあるいはヒュポスタシスは一つのみであるから、キリストのうちにはただ一つの存在(エッセ)のみがある、と結論される。
9. しかし、トマスのこの議論はおそらく多くの人を納得させるものではないであろう。われわれはむしろ、神が真実に人間となるのであれば人間性に即して新しいペルソナ的存在(エッセ)を取得するのであり、そうでなければキリストが真実に人間として存在し、生き、活動するとは言えない、と考えるのではないか。トマス自身は、神は人間になることによって新しいペルソナ的存在(エッセ)を取得するのではなく、先在するペルソナ的存在(エッセ)(神の永遠なる言(ことば)というペルソナ的存在(エッセ))が人間本性への新しい関係(nova habitudo)を取得し、かくして当のペルソナは今や神性に即してのみでなく、人間性に即しても自存する(subsistere)と言われる、と説明しているが、この説明も容易に受け入れられるとは考えられない。
10. ところが実際のところ、問題の根元はわれわれが通常の経験の領域でのみ妥当する論理をそのまま神であるキリストに適用したことに存するのであって、トマスはそのような誤謬を避けるために存在論的探求を
「本質」や「本性」、あるいは 「形相」を超えて (つまり、人間的言語の有効性の限界を超えて) 「 存在 (エッセ) 」という最高の現実態ないし完全性に到達するところまで徹底させたのである。
今の場合でいうと、「神が人間になった」と言われるとき、それは神が何か別のものに変化することでは決してなく、神の本性は同一なままにとどまるのであるから、神の本性・本質と同一であるところの 「 存在(エッセ) 」 もまったく同一なままにとどまる、としなければならない。
11. 人間キリストは確かに時間のうちに在るが、その存在(エッセ)は変わることのない(神の本質と同一である)永遠的存在(エッセ)に基づいて理解しなければならない。 言いかえると、神の本性・本質そのものである存在(エッ)のほかにもう一つの人間的存在(esse
humanum)があるのではなく、神の御子・言(ことば)である 神的ペルソナ が人間本性を受容することによって、当の神的ペルソナに属する存在(エッセ)が 「人間の存在」(esse
hominis)となる、というのである。 トマスはここでは「神的ペルソナが人間本性を受容する」ということを、 「人間本性は神の本質そのものである存在(エッセ)を共有することへと引きよせられる(trahatur
in communicationem illius)」 という言い方をしている。
12. 受肉する言(ことば)(のペルソナ)の側から言えば、自らがそれによって自存している「存在(エッセ)」を人間本性に 「伝え・共有する」(communicare)のである。別の言い方をすれば、「この(神の御子の)ペルソナは、今や神的本性に即してのみではなく、人間本性に即しても自存する」
のであり、自存する存在はただ一つ、神の御子に固有の存在のみである。
13. このように、トマスの神学的キリスト論の中心問題である受肉の神秘を、一貫して信仰の導びきの下に、人間理性の可能性の限りを尽して理解しようとする神学的探求において決定的に重要な役割を果したのが
「存在(エッセ)」 の形而上学であった。そして、このことを可能ならしめたのは最高の現実態・完全性である 「存在(エッセ)」 は専有的・排他的な仕方で所有されるものではなく、根源的に他者との関係・交わりを特徴とするものであること、さらにすべての在るもの(存在(エッセ)を有するもの)を在らしめる第一の根源である「自存する存在(エッセ)そのもの」すなわち神は、まさしく「最高の仕方で自己を被造物に伝え・共有する(communicare)」こと、すなわち純粋な善性(bonitas)が自らの本性そのものであるような最高善であるとの洞察であった。
こうした「存在(エッセ)」理解が、受肉の神秘、すなわち無限・永遠なる神のペルソナが有限で時間的な 人間本性を「受容する」という、神が「自らを虚(むな)しくする」としか言いようのない「神の最も不思議な業」を理解する道を開いた、というのが私の解釈である。
第2章 ペルソナ概念の歴史的形成
小倉貞秀著 『ペルソナ概念の歴史的形成』
以文社 ―古代よりカント以前まで―
◆内容
第1章 古代ローマにおけるペルソナ概念の形成
第2章 キリスト教及びその伝統におけるペルソナ概念
第3章 中世スコラ哲学におけるペルソナ概念の解明 〔ここまで抄録〕
第4章 宗教改革者ルターにおける信仰とペルソナの問題
第5章 近世合理論哲学におけるペルソナ概念の解明
第6章 近世経験論哲学におけるペルソナ概念の解明
第7章 ドイツ啓蒙哲学におけるペルソナ概念の解明
第1章 古代ローマにおけるペルソナ概念の形成
第1節 ラテン語ペルソナの語源的意味
1. ラテン語ペルソナについて、ラテン語辞典によれば、いずれもつぎのように訳語が記されている。わが国の代表的 『羅和辞典』によってpersona
という語を引けば、訳語はつぎのようである。
①(ギリシャ俳優の)仮面、マスク。
②(芝居の)役、 登場人物。
③役割、資格、役目、境遇、品位、対面。④位格(神の存在様式)、ペルソナ。
⑤人格[個性]、法人(格)。
⑥(文法)人称。
以上6つの訳語はペルソナのもつ意味が時代とともに変化していったことを物語っている。
2. さてまず第一に「仮面 mask, Maske, masque 」という訳語が基本的意味として考察されねばばらない。古代ローマの伝統によれば、俳優は昔から化粧するのが常であった。紀元前100年頃にはローマでは「仮面」が用いられるようになったと言われているが、これは既にギリシャにおいて用いられていたことである。・・・・
ペルソナという名称は、声を取りまとめて響きをいっそう力強く明るくほとばしり出せるという性質をもった仮面ということになる。 ・・・・この persona を分解すれば、per-sono すなわち「貫いて響く」「通して音をたてる」という意味になる。
3. ところでまた「仮面」には「役割」の遂行という意味が存している。舞台における役者の被る仮面は主役であれば主役の仮面であり、脇役であれば脇役の仮面であって、それぞれが「役割」表わしている。この「役割理論」はキケロ(106-43B.C.)の著作に至って顕著に現われてくる。・・・なおキケロの作品のうち、・・そこでもペルソナ概念は役者という役割の意味を有している。
第2節 ストア学派のペルソナ概念の把握とローマ法
1. ところでヘレニズム時代を代表するストア哲学は、この時代を反映するコスモポリタニズム的性格に立って民族的・身分的な差別を超越するものとしての人間自体を思惟するに至り、この人間に内在する本性を表わすためにペルソナという表現を用いることになる。ちょうど役者が自分に割り当てられた役割を巧みに演じるように、現実の人生において自己の果たすべき義務を見事に実現することは各人の道徳的使命である。
2. 「役割を演じる」という用法は法律用語の領域においても用いられるようになる。すなわち、法廷における訴訟の進行は、現実の人生模様を表わすという点においては、舞台における人生の虚構とは異なった趣を有するにしても、しかし舞台において役者がそれぞれの「役割」を演じるように、原告・被告・裁判官・弁護人・証人などが裁判というドラマにおいて、さまざまな役割を表出するのである。特に古代ローマにおいては、訴訟の手続きは民衆の面前で文字通りに公開され、人びとは裁判の進行を観劇的興味をもって見守ったと言われている。このように劇的用語として「仮面」を意味したペルソナが「役割」という意味に転用されて、しかもそれが法律用語として使用されたことが注目されるのである。例えばその表現としては「主役」」である「検事」、「弁護士」などである。
3. ところでローマ法は persona が、特殊的性格を失って人間一般を意味するに至ったことは、既にセネカの用法においてわれわれの知ったことである。ローマ法においては本来の意味において法(権利)を有しうるのは人間だけであって、
事物ではないという考え方が存している。したがってpersona 、すなわちここでは人間一般は、res, すなわち物一般と対立することとなり、法律用語としても
persona は res と対立する。・・・・
4. しかしながらローマ法において persona が人間一般となり、人の法の中に自由人と奴隷とが包括されたといっても、それは次第に消え失せて権利能力を有する自由人のみが
persona といわれる傾向が顕著となり、・・・・奴隷は persona でないということが教条となったと言われる。奴隷は res であり、「ペルソナは市民の地位を備えた人である。」
そして自由であることがその特性である。
5. ところで今日の文法学の概念である「人称」は劇における対話の展開に応じて、・・・・話し手の役割が「三つの役割」として表わされ、「我・汝・彼」などが第一人称・第二人称・第三人称などを表わすことになる。つまり、まず最初に登場する仮面から発話されるのであるが、それは第一の仮面であり、それによって話しかけられるのが第二の仮面である。ローマの文法学者も再び
persona に同じ表現を与えた。例えば「 語る人、話しかけられる人、話題にされる人 」 というように persona の本性は三通りである。以上のように
peraona という語は法律の世界においても一歩進められていったのである。
第2章 キリスト教及びその伝統におけるペルソナ概念
第2節 テルトゥリアヌス (160-222年:カルタゴ出身、ラテン語で著作した最初のキリスト教作者)
1. キリスト教のペルソナ概念にとって最も重要なきっかけを与えた一つに古代の文法学があげられるが、既に第1章第2節において、それは述べられた。すなわち、「我・汝・彼」という三つの役割論が聖書釈義の中に取り入れられた。したがって結局ペルソナ概念はキリスト教の教義の中に座を占めることになる。
2. テルトゥリアヌスは伝統的なローマの言語使用の意味におけるペルソナ(役割)に対して一定の内容を与えんとしたのであるが、「父」と「子」と「聖霊」をペルソナとして規定し、それぞれが同一の神的本質を表わす個体であるとは考えず、全く別個のペルソナを形成するとする。すなわち、唯一の個体としての神的本質が、父・子・聖霊として「分割divisio」の上からみられるのではなく、それぞれが別個の「役割」を果たすというような「区別distinctio」の上から提示されるのである。この「分割」と「区別」との相対立する概念はテリトゥリアヌスが自説を主張するために特に使用するものである。彼は「父と子と聖霊」が 「どのようにして三つという数を分割することなく許容されるのか」を明らかにせんとするのであるが、 彼にとっては「父と子と聖霊」という「すべては一人の神から、すなわち実体の統一性を通して生じるのであり、」 すべて本質は一であって、「これに対して三というのは、固有性質status
についてではなく、立場gradus についてであり、実体についてではなく、形相forma についてであり、力potestas についてではなく、特殊存在species
についてであって、 さらにこの三つは一つの実体、一つの固有性質、一つの力に属している。というのも神は一つであるが、この神からこのさい父と子と聖霊の名において、立場と形相と特殊存在とが生じると考えられるからである 」
3. ここでテルトゥリアヌスは一者としての神を実体の統一性として規定し、その統一性を 「固有性質・実体・力status, substantia,
potestas 」と表現し、その統一性から生じる三つのものを「立場・形相・特殊存在gradus, forma, species 」と規定している。こうした後者の三が前者の一の「分割」ではないことを彼はさらに強調する。・・・・テルトゥリアヌスは神と子と聖霊とのいわゆる「三位一体 trinitas 」を数えるにしても、この場合においても神的実体の三つのペルソナ(三位格)の想定は神の「モナルキア(単一支配)」を危うくしないことを解明しようとする.
・・・・すなわち、親近関係にある人物(ペルソナ)によって管理されていても、その国が分割されるわけではない。特にこのことをテルトゥリアヌスは、父と子との関係について次のように語る。君主国を占有する君主がその子を有するとした場合、その子を国政に参加させても、その国が即座に分割されるということはない。むしろその国はその子を国政に参加させる君主に依然として帰属している・・・・帝国の支配者は依然として父であり、その子が国政に参加する場合、子は課せられた役割を果たすのである。したがってそれぞれが父の役割・子の役割を担うことになる。ここでテルトゥリアヌスが強調してことは、父と子と聖霊との三つのペルソナ(位格)の想定が神の「モナルキア」を危うくしないということである。
4. テルトゥリアヌスはのちにキリスト教の用語となる「三位一体trinitas 」という用語を初めて使用し、いわゆる父・子・霊のおのおのをペルソナとして規定し、「三位一体」論の釈義の先駆者となり、ラテン語の神学用語の成立に多大な貢献をしたとも言われるのである。
第3節 アウグスティヌス
(354-430年:北アフリカ・アルジェリア出身。ミラノで洗礼後、北アフリカのヒッポの司教となり
『三位一体』、『神の国』など初期キリスト教西方教会の正統的信仰教義の最大の教父)
1. さてテルトゥリアヌス以後、三位一体の問題はその後の神学者たちによって徹底的に解明されたのであるが、
特にここではアウグスティヌスの大著『三位一体論 De Trinitate 』を中心に考察する。アウグスティヌスは三位一体を構成する 「父・子・聖霊 Pater, Filius, Spiritus sanctus 」についてそれぞれを「実体 substantia 」という表現で呼ばず、ペルソナという表現を用いることは、テルトゥリアヌスの「一本質あるいは一実体、三ペルソナ」という法式が生かされていることになる。神は実体であり、本質である。・・・・神なる実体、あるいは本質は「不変的」である。変化の可能性を全くもたないもののみが、真に存在すると言われるのである。「存在する esse 」ということから essentia (本質)は由来するのである。神こそは最高にして最も真なる意味において「ある」と言われるのである。神は「我はありてある者である」(出エジプト記)と言われるのである。
2. 「三つの本質 tres essential ということを恐れるのは、あの神の最高の同等のものの中には何かある相違があるなどと理解されてはならないからである。それに対して、ある三つのものが存在しないとは言うことができなかったのである。」・・・・
アウグスティヌスはこれら三つのものを何と言うべきかと求めて、「 実体あるいはペルソナ」という名称をあげるが、それについて語る、「こうしてそこでは一つの本質と呼ばれることによって、統一性が理解されるのみならず、三つの実体、あるいは三つのペルソナと呼ばれることによって、三位一体が理解されるのである
」しかも三つのものを実体と呼ぶのは適当ではないと思われるから、「恐らくは三実体というよりも三ペルソナと呼ばれる方が適当であろう」(『三位一体論』)
3. ペルソナの概念は既に明らかにされてきたように、「仮面」から「役割」の意味をもつようになり、更には「物」に対する「人」一般の意味さえもつに至った。ペルソナという語に、人間的な意味が伴うことは既に承認されていたから、アウグスティヌスはそうした人間的意味を避けることになる。
4. アウグスティヌスもまたその著『三位一体論』において、三つのペルソナを「関係relatio 」として捉えようとした。「父が父といわれるのはただ彼にとって子が存在するということによってであり、そして子と言われるのはただ彼が父を有するということによってであり、このことは実体に従って言われるのではない。・・・・父と呼ばれ子と呼ばれることは永遠にして不変であるから、このことは偶有性によるのではない。それだからこそ父であることと子であることとは異なっているにしても、しかし異なった実体ではない。なぜなら父であり、子であるということは実体によって呼ばれるのではなく、関係によって呼ばれるのであるから、しかしこの関係は可変的ではないから、偶有性ではない」。
第4節 ボエティウス
(480-524年:ローマ貴族、アテネに留学後東ゴートのテオドリック王の宰相となるが、政争に巻き込まれ刑死)
1. さてキリストにおける神性と人間性との結合の可能性、両者が結合して一つのペルソナをなす理由の問題は、5世紀・6世紀の主要な神学的問題となった。・・・・しかし451年カルケドンの会議においてキリストは一つのペルソナであるが、しかも神性と人間性を備え、両者は混同されないという「単一ペルソナにおける両性duae
naturae in una persona 」の説が正統的とされた。・・・・ともかくナトゥラ概念とペルソナ概念とは相互に結びつけられているわけではあるが、特に一格両性の説に表わされているキリスト論の二つの主要概念を解明するためにはボエティウスにまで至らねばならない。
2. ボエティウスは最後のローマ人にして、最初のスコラ学者と言われる。すなわち、アリストテレスの思想を中世スコラ学へ媒介し、スコラ学の形成に寄与すること絶大であったと言われる。トマス・アクィナスもわれわれがのちに述べるように、 ボエティウスのナトゥラやペルソナの概念規定に基づいてみずからの論を進めているほどである。ボエティウスは その著 『ペルソナと二つの本性についての書、エウテュケースとネストリウス駁論』 において本性 natura とペルソナとの概念規定を行ない、併せてわれわれが上にあげたキリスト論におけるエウテュケースとネストリウスとの見解に対して論駁している。
3. ともかくボエティウスは、エウテュケースにおける「キリストにおける結合以前における二つの本性、それ以後における一つの本性」という言葉の 「結合」
に注目し、それをマリアによる誕生の時か、あるいは復活の時か、いずれかに決めて論及する。しかも結合以前における二つの本性、すなわち神性 divinitas と人間性 humanitas との関係が問題となったのである。 さて、二つの要素から成るものは、それが作られている要素が消えてなくなれば、二つの要素はその存在を中止しているから、けっして第三のものは二つの本性において存することはできない。このことはエウテュケース派の語るように、「キリストは二つの本性から成っているが、二つの本性においては存しない」ということである。
4. ここで当面の問題として、神性と人間性との二実体が、いかにして一つのものとなるか、について考えてみよう。ところでキリストの身体がマリアから取られたとして、人間の本性と神の本性とが持続しなかった場合、次の三つの方法が考えられる。
① 神性の人間性への移し変え、② 人間性の神性への移し変え、③ いずれの実体も、その独自形態を保たないほどの混合。
5. ところである実体は形体的 corporeus であり、他は非形体的であれば、互いに移し変えることはできない。というのは互いに変化する事物が共通の質料 materia を有し、互いに作用することができるのでなければ、一般的に言ってどんな物体も他の物体に変えられないからである。ところですべて形体を有するものは基体として質料をもたないものはない。これに対してすべて形体をもたない実体の本性は質料的基礎を必要としない。だから形体を有するものは、形体をもたないものに変化させられることはできない。また形体をもたないものにとっては、混合というプロセスによってお互いが変化させられることはできない、というのもどんな共通の質料をももたないものは一方が他方へ変えられることはありえないからである。
ところで人間の魂 anima も神も非身体的であると信じられているが、人間性と神性とは両者の根底に存する共通の質料をもたないのだから、一方が他方に移り行くことはできないし、また二つのものは共に混ぜ合わされるとは信じられない。
6. さてボエティウスは「ナトゥラ natura 」(時に本性と訳す)と「ペルソナ persona 」(時に位格と訳す)の二つの概念の究明に寄与すること大であったと言われているが、何よりも重要なことは彼がペルソナについての有名な定義を与えたということである。
彼によればペルソナ概念はナトゥラ概念の注意深い分析に基づいている。ところでボエティウスのペルソナ概念の究明に多大な関心を抱いたのはトマス・アクィナスであるが、彼はアリストテレスを引き合いに出して次のように語る、
「かくして哲学者もまた 『形而上学』第5巻において、すべての実体はナトゥラである、と語る。しかしこのように引用されたナトゥラという名称は、それが事物の固有な活動に関連するかぎり、事物の本質 essentia を表わす と思われる」と。
7. さてナトゥラとペルソナとの関係について言えば、前者は後者の根底であり、前者なくして後者は語りえないことになる。 「確かにナトゥラをペルソナの基体
subjectum とし、そしてナトゥラを除いてはペルソナは前以って語られえないことは明らかである。」 ところでナトゥラが実体について語られたが、ナトゥラを基体とするペルソナもまた実体的あり方として実在している。
8. ボエティウスは「しかしわれわれは人間・神・天使のペルソナが存すると語る」と言う。したがってペルソナと言われるものは人間・神・天使ということになり、生命のない実体、感覚を欠いた生物、感覚だけの生活を送る動物にはペルソナは存しない、つまり石にはペルソナはないし、木のペルソナ、牛のペルソナはありえない。また実体について言えば、そのあるものは普遍的
universalis であり、あるものは特殊的 particularis である。普遍的なものは単一なものに先立って言われるのであり、例えば人間・動物・木・石とか種あるいは類というようなものである。それらは個々の人間・動物などに適用されるのである。
しかし特殊的なものは普遍的なものに先立たない。例えばキケロ、プラトンとかアキレス像の作られた石とかは普遍的ではなく、特殊的である。ここでボエティウスは普遍的実体を排除して個別的実体のうちにペルソナを求めようとして次のように言う、 「
しかしこれらすべて普遍的なものにおいてはどこにもペルソナは語りえないのであって、ただ単一にして個別的なものにおいて語られうる 」と。
9. 以上のようにペルソナは単一にして個別的な実体として規定されるが、その本質的契機としてのナトゥラを基体として有するものであったから、ここにペルソナの定義が求められる、「ペルソナとは理性的本性を有する個的実体である」。 ここでは理性的ということは種差を示し、このナトゥラ(本性)を基体として個的実体が実存する。ペルソナのうちに理性的本性という本質的契機と存在契機とが統一されていると言ってよかろう。この定義は極めて効果的であったから、長年の間明確でなかった表現に確固たる内容を与えたことになる。
10. 彼の下した「ペルソナとは理性的本性〔ナトゥラ〕を有する個的実体である」というペルソナの定義はそれを被造物としての人間の次元に即して考察することがのちの中世哲学にとっては重要な課題となるのである。
第3章 中世スコラ哲学におけるペルソナ概念の解明
第1節 リカルドゥス (?-1173年)
1. サン・ヴィクトールのリカルドゥスはフランスのサン・ヴィクトール学派の代表的神学者である。彼はスコットランドに生まれ、 若くしてパリのサン・ヴィクトール修道院に入り、1161年に副修道院長となったが、その生涯はほとんど知られていない。
2. 三つのペルソナというペルソナの複数性が「実体の一性」の内にあるということは人間の認識にとって不可能であることは言うまでもない。だから理性はこうした「信仰の主張」を納得させることはないであろう。つまり「一つの実体より多くは存在していない場合に、どうして一つのペルソナよりも多く存在しうるかは、人間の認識は確かに容易には理解することはないのである」 (三位一体論)・・・・
このことに関連して次の問いも同じく理解しえないことだと言われる、すなわち人間人格〔persona〕を構成する相反する 本性である身体 corpus と魂 anima とが、どのようにして一つの同じペルソナであるのか、と。
3. さてリカルドゥスは」「一実体三ペルソナ」という三一性の把握について言えば、実体概念とペルソナ概念との相関関係についてはさまざまな見解が存したという、特にペルソナ概念の意味の把握については多くの相違があったと言われる。 「
確かにペルソナという名称は、あるときには実体、ある時には自存体、あるときにはもろもろのペルソナの独自性を意味すると語る人々がいる 」。ここでは実体をいみする立場に立てば、三つのペルソナをもって三つの実体であるとする立場を是認することになろう。・・・・「
自存体の意味よりもむしろペルソナの意味を限定することに努力し、・・・・ペルソナの複数性がどうして実体の一性と一致しうるか、を明らかにしようと努めるであろう
」ということである。
4. 「神の本性においてはペルソナの複数性は実体の一性を分かつことはない」と言われ、これに対して「人間の本性においては諸実体の複数性はペルソナの一性を分解することはない」と言われる。ここでわれわれは神の本性と人間の本性との相違を知りうるのであるが、そこでは二通りのペルソナが考えられ、特に人間存在をもペルソナと規定する見解は注目すべきである。 リカルドゥスが人間の本性においては「二実体一ペルソナ」、神の本性においては「一実体三ペルソナ」という対立を掲げたことについては次のように説明されねばならない。
5. さて人間の本性は二つの実体から成立し、それが一つのペルソナとして存在するという見解は、人間をもってペルソナと見なす後世のペルソナ論に大きな影響を及ぼしていくのであるが、ここでの二実体は「身体corpus と魂 anima」である、 すなわち「一つの見えるものと他の見えないもの、一つの可死的なものと他の不死なるもの」であるが、ペルソナの統一性は こうした相異なった実体から成るのである。しかし既に明らかであるように、たとい実体が人間本性において複数であってもペルソナの統一性を分かつことはないのである。
これに対して神の本性においては「一つの同一の実体」のみが存在するのであるが、しかし他方ではいくつかのペルソナが存在している。この神性のペルソナの複数性においては「
最上の類似、最上の同一 」が存しているが、このことは人間の本性の複数性においては「 著しい相違とかなりの不同性 」が存していることと対照的である。以上のように人間の本性におけるペルソナの単一性と神の本性におけるペルソナの複数性とが人間と神とのペルソナ概念を分かつ点なのである。
第4節 トマス・アクィナス (1225-1274年:生涯と著作は後出)
1. トマス・アクィナスのペルソナ概念究明の出発点は「ペルソナとは理性的本性〔ナトゥラ〕を有する個的実体である」というボエティウスのペルソナ定義であった。彼はこのペルソナの定義を解明するためには、ボエティウス以後この定義について究明している先覚者たちの所説を参考にしてそれらを矛盾なく彼の見解の内に吸収している。ところでトマスはペルソナ概念の究明に当たって、その語源的意味と神学的・哲学的意味とを混同せず、厳密に区別している。すなわち、「それに由来して意味表示に関してあてがわれているもの」と「通して響くpersonare 」から由来し、「人間の仮面を被った様相」を表示している。
後者に関しては「この名称によって意味されるものは、すなわち知性的本性において自存するものであって、神に適合する、そしてそれはこのペルソナという名称によって独自に神的なものに受け入れられるのである」。・・・・
2. すなわち、喜劇や悲劇において描き出されている人物は著名な人びとであったから、この「ペルソナ」という名称は尊厳を有するある人びとを表示するようになった。そしてそこから教会において尊厳ある地位についた人びとを「ペルソナ」と名づけるのが常であった。そのためある人びとはペルソナを定義して、ペルソナとは「尊厳にかかわる独自性によって区別されたヒュポスタシスである」と限定している。そして理性的本性において自存することは高い優位を意味するから、理性的本性を有するすべて個性はペルソナと称せられる。しかし神的本性の尊厳はあらゆる尊厳を凌駕するのであって、この意味において「ペルソナ」という名称は最高度に神に十分ふさわしい。
3. トマスは言う、人間がすべての生物に優っているのは、理性と知性に関してであり、それゆえ人間は理性と知性とにおいて「神の像 imago Dei
」に似せて作られている、と。しかも「理性的被造物は認識し、愛するというみずからの働きにより神そのものに触れる」のであるから、「理性的被造物のみが神のペルソナを有することができる」。もとよりこのような神のペルソナを所有することは、自己の力のみをもってしては到達しうるものではなく、それは与える者の賜物である。・・・・
4. さて神のペルソナがそれぞれペルソナという名称を有する点では、概念的に共通性をもちうる、しかし「神のペルソナのそれぞれが神の本性において他のペルソナから区別されて自存している」と言われる場合、それぞれが他のペルソナから区別されている点においては共通性はないが、しかしトマスは非共通性に共通性をみている。「ペルソナは共通しえないものであるが、しかし非共通性的に存在する様相そのものは複数のものに共通であるうる」。確かに上述のように神のペルソナのそれぞれがペルソナという名称をもつ点では、概念的に共通でありえても、
しかし
神のうちには普遍や類や種は存しないから、ペルソナの共通性は類や種の共通性ではない。トマスは「神の三つのペルソナは一つの存在を有する」と言うが、これは「三つのペルソナは一つの本質のものである」と言ってよい。したがって三つのそれぞれが一存在、一本質である。
神のペルソナは複数であるが、同一存在たる本質を共有している。三つの存在は一である。神のペルソナは複数であるが、 同一存在たる本質を共有している。三つの存在は一である。
5. 人間本性を有するキリストの神の子としてのあり方が問題となったとき、人間本性と「神の御言Verbum Dei 」との結合はペルソナにおいて実現されたとしなければならない。もしそうでなければ「托身incarnatio
の信仰」〔イエス・キリストという人における神と人間の結合というキリスト教の教義:受肉〕はなくなり、キリスト教信仰のすべては破壊されるであろう。
「 御言は、それと結びついてはいるが、それの神的本性に所属しない人間本性において実現されたのではないことは必然的である。」 したがって神と人間との結合は「ペルソナにおいて実現され、本性において実現されたのではない。」 このようにキリストにおいてのみ人間本性と神のロゴスとの結合がみられるがゆえに、その点によってキリストにわれわれのペルソナより以上の尊厳が帰せられることになる。「人間本性そのものはキリストにおいては、われわれよりの尊厳がある。 というのもわれわれにおいては本性はいわばそれ自身存在し、独自のペルソナ存在を有しているが、キリストにおいては御言のペルソナにおいて存在するからである」。ここにわれわれ人間におけるペルソナとキリストにおけるペルソナとの相違が考えられている。
6. 以上の点よりすれば、「キリストのペルソナは二通りに考えられうる」ことになるが、一方では「御言の本性」のように「全く単純である」が、他方では「ある本性において自存している。」このように考えれば「キリストのペルソナは二様の本性において自存している」ことになる。すなわち、われわれは唯一の担い手を眼前に有するにしても、キリストは神の本性と人間の本性を担う者として現われる。こうした両者の複合によってキリストのペルソナは「複合的ペルソナ」と言われたのである。・・・・
しかしすべて存在はそれが一つのものであるというかぎりにおいてのみ存在するのであるから、ペルソナに関しても唯一の担い手としての存在のみが存することになる。それはちょうど肉体と魂とから複合された生物が、それぞれを単独に見た場合には、生物とは言えないのと同じことである。以上キリストのペルソナと人間のペルソナとはいずれも 「複合的ペルソナ」であるにしても、前者と後者との相違が明らかにされたのである。
7. ところで第一実体にとっては、その機能の上からして「自存性」「本性を有するもの」および「ヒュポスタシス〔実体〕」という名称が帰属する。こうした名称の意味を包括しているのはペルソナ概念であって、それは「理性を付与された個的実体」という類において表示されているのである。ペルソナがそれ自身において存在し、他のものに依存しない自立的存在者として、しかも理性的本性を有する主体、すなわち理性的実体、理性的存在者として規定されていることはその後のこの語の哲学的発展にとっては重要な意味をもっているのである。そして神学的には、他面において神の三一性が問題とされていくのである。 ペルソナ概念を神に適合するとした場合には、神学は神における「三つのペルソナ」を問題とする。 ペルソナが複数であるならば、ペルソナ概念は単に唯一のものたる本性を表わすとは言えない。
8. しかしトマスは神における複数性は「根源関係」によって可能であるとする。 関係を本質内部における関係と解することによって、本質の一性を損なうことはないということになる。 さらに最後にキリストのペルソナを「複合的ペルソナ」として規定しつつも、そこに人間ペルソナとの相違が存することを神学的に究明したのである。
〔以下省略〕
■ クラウス・リーゼンフーバー著『西洋古代・中世哲学史』 平凡社 より
<トマス・アクィナスの哲学>
スコラ学は決して一つの統一的な学派をなしているわけではない。それは、スコラ学の源泉がきわめて広範で、多種多様であることからも当然理解できることである。確かにスコラ学の内部には一定の問題領域や方法に関する共通性があり、またそれはキリスト教的中世という同じ精神的世界を背景としているが、同時にそこには真の多様性があり、徹底的な論争が行われていたのである。したがって13世紀の盛期スコラ学がたった一人の思想家によってすべて代表されうるとは考えられない。
しかし、このことを考慮に入れた上でも、やはりトマス・アクィナスをこの時代の精神を最も本質的に体現する思想家とみなすことには十分な理由がある。彼は自らの時代の思想的課題に正面から答えようとし、その思弁の深みと明晰さには比類がなく、その思惟は、多種多様な源泉を積極的に摂取しながら、それらを首尾一貫した統一にもたらすことによって、 絶妙な均衡を保ち徹底的に練り上げられた一つの神学的・哲学的思想体系を形成しているのである。
<トマスの生涯と著作>
1. トマス・アクィナスは、貴族の家の末子として南イタリアのアクィノという町のそばのロッカセッカの城塞で生まれた。彼が5歳になると、貴族の末子は聖職者になるという当時の慣習に従って、ロッカセッカに近いベネディクト会の発祥の地であるモンテ・カッシーノ修道院に送られ、将来のための初等教育を受けた。その後、彼はナポリに出て、ナポリ大学の 人文学部に入学したが、そこには著名な論理学者であったヒベルニアのベトルスがおり、トマスは彼の下で初めてアリストテレスの哲学に触れたと思われる。トマスはこのナポリでドミニコ会士たちと出会い、教会での栄達を望む家族の反対を押し切って、清新な活動を展開していたこの新しい托鉢修道会に入会した。ドミニコ会はさらなる勉学のために彼をパリに送る。このパリ大学での研鑽時代に、彼はドミニコ会随一の大学者であったアルベルトゥス・マグヌスの下で学ぶようになった。トマスは、ドミニコ会の神学大学を創設するためにケルンに赴くアルベルトゥスに従い、・・・・この偉大な教師からアリストテレスの著作の講義を受けている。
2. その後パリに戻った彼は、神学士としてまず聖書を、次いでぺトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を講じた。・・・・
彼の著作活動はこの時期から始まっており、しばらくドミニコ会の教授としてパリ大学で教えた後、イタリアに帰った。彼はその後教皇の宮廷やドミニコ会の神学院で教えたが、この間、同じくドミニコ会士で著名な翻訳家であったムールベケのグイレルヌスに依頼し、アリストテレスの著作やその注解書、プロクロスの『神学綱要』、そしてギリシャ教父など、多くのギリシャ語原典の正確な翻訳を提供してもらい、その注解に取り組み始めている。
しかし、十年にわたるトマスのこのイタリア時代は、ドミニコ会がパリ大学でのさまざまな論争に対処するためにトマスを再び教授としてパリに派遣する決定を下したことによって終わりを告げた(1269年)。このときに彼がパリで教授に就任した期間はたったの3年間にすぎないが、この3年間の彼の著作活動は、まさに驚異的な質と量に達している。 この短期間に彼は多くの論争に関わりながら、論争的著作のほかに、新約聖書の諸注解、多くのアリストテレス注解、膨大な定期討論集、そして『神学大全』の第二部を著しているのである。
3. そして、ドミニコ会がナポリに会の新しい国際的な神学大学を設立することを決定し、その仕事をトマスに委ねたため、彼はナポリに赴任する。・・・・トマスは、教皇グレゴリウス10世から、教皇がリヨンで開催する公会議に神学顧問として出席するように要請されたため、1274年初めにリヨンに向けてナポリを発ったが、その途上、ナポリとローマの間にあるシト-会のフォッサ・ヌオーヴァ修道院で亡くなった。49歳であった。
・・・以下、省略・・・
第3章 「受肉と神化」 ― 神学的概念について
稲垣良典著 『神学的言語の研究』第9章「受肉と神化」 創文社より
1. 本章では神学的言語に関する研究の一環として、主としてトマス・アクィナス『神学大全』にもとづいて、「受肉」と「神化」という神学的概念ないし用語を中心に考察を進める。この二つのうち、受肉は第3部キリスト論において主題的かつ詳細に論じられているが、神化は「神化する」(deifico, deificus,deificatus)という動詞形ないし「神の形のもの」のような類似の形で登場するのみであって、「神化」(deificatio)という用語は用いられていない。
まして、神化について主題的に論じられることはない。
しかし、人間が神的本性に参与するという意味での神化は『神学大全』のいたるところに見出されるトマス神学の基本的思想であり、とくに『神学大全』第二部の人間論(神の像imagoとしての人間)は神化というテーマによって貫かれている、といっても過言ではない。じっさい、人間的生の究極目的であり、人間の至福がそれに存するとされる神的本質の直視は神的本性に十分に参与すること、すなわち神化である、とトマス自身言明しているのである。」
2. しかも、重要なのは、トマスによると人間によるこうした神的本性への参与―神化―は、キリストの人間本性を通じてわれわれに与えられたということ、すなわち、受肉によって可能となったということである。トマスはこのことに関してアウグスティヌスの「神が人間と成り給うたが、それは人間が神と成るためでした」という言葉を引用している。
また『神学綱要』でも「 神が人間の本性をとって人間と一つになり給うたことによって、被造的知性が神の本質を直視することでもって神と合一しうるということは信じられぬことではなくなった
」とのべており、受肉は人間の「神化」の保証であるとされている。人間本性の究極的完成としての「神化」(神的本性への参与)ということは、キリストの受肉の光の下においてのみ、その真実に迫ることができるといえるであろう。
3. ところで「神化」は根本的に恩寵の秩序の属し、トマスはしばしば恩寵とは神的本性への参与―すなわち「神化」―にほかならない、と言明している。・・・・恩寵としての「神化」が人間の自然本性とどのように関係づけられているかがここでの大きな問題とならざるをえない。・・・・
より具体的にいうと、「神化」としての恩寵は、神を認識し、愛するという人間の働きを強化し助けるという仕方で与えられるのであるから、人間の地上での歩みが結局それに集約されるといえる「神を認識し・愛する」という働き、それを完成へと導く徳、そしてその最高の成就としての「見神」 visio Dei と、この恩寵との関わりが考察の対象となるべきであろう。そして恩寵による 「神化」と、神の最も神秘に満ちた業としての「受肉」との関わり に光をあてることがわれわれの考察の目標である。
4. 見神と神化
・・・・第4項においては、自存する存在そのものという、神の存在様相は、被造的知性の本性様相を超えているがゆえに、被造的知性が神をその本質において見るためには、神がその恩寵によって自らを被造的知性に結びつけることが必要であると述べられ、この結びつきは(恩寵による)神性への参与、すなわち神化という仕方で為されることが明言される。 そして注目に値するのは、人間的知性(天使も)の自然本性は、このような恩寵によって、自然本性を超えて高められることへの可能性をふくむ自然本性であることが指摘されているということである。これは受肉(人間本性が神的ペルソナにおいて神性へと合一するような仕方で受容される)の神学的理解の鍵となるような、自然本性理解である。
5. 第5項においては、(見神における人間知性の)こうした神性への参与、すなわち神化が明示的に語られている。それは一種の習慣ないし超自然的秩序づけによって、人間知性の自然本性が高められ「神の形のもの」たらしめられる、ということである。見神はたんに過ぎ去る出来事ではなく、見る者を「神の形のもの」たらしめるのであり、そのことにおいて成立する働きなのである。・・・・
6. トマスは、「キリストはすべての認識を可能にする光の源泉である御言葉(Verbum)とペルソナにおいて合一しているがゆえに、光の流入をより豊かに受けとっており、他のすべての被造物よりもより完全に第一真理=神の本質を見る、と主張する。」・・・・そしてここではその同じことがキリストにおいては人間本性が神的ペルソナに合一せしめられていること、そのことによって至高の完全性に到達しているということにもとづいて結論されている。いいかえると、―
ここでは見神-神化の完全さが、受肉にもとづいて主張されているのである。
7. さらに別の観点から言えば、人間本性の十全的な理解のためには「神性の分有」としての神化を考察の射程にいれることがどうしても必要である。人間本性は神を受容しうる者たることをその本質としてふくむものであり、神への秩序づけ(認識と愛による)はその本性そのものに属するのである。「神化」を除外した人間本性の理解は人間本性の真の完全性を排除するものといえる。
このように「神化」を考察にふくめた人間本性の十全的な理解によって、「受肉」はあくまで神秘でありつつ、人間理性にとって理解可能なものとなる。このように「神化」をも射程に収める十全的な人間本性へのふりかえりと洞察を通じて、「受肉」は神学的言語として確立されるのである。・・・・
8. 確実に言えることは、
トマスにおいて「神化」は人間の「最も真にして究極の人間化」を意味するものであったということである。
・・・・以上で、第1部終わり・・・・
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