2. 必然性と偶然性 2020.04.12
必然性-偶然性 Notwendigkeit – Zufällingkeit
ヘーゲル「小論理学」 A 主観的概念 §163-§177
§177 必然性の判断
岩佐 茂著 『ヘーゲル用語辞典』
目次
1. 本質と現象の統一としての現実性
2. 可能性の現実性への転化
3. 現実性の契機としての偶然性と可能性
必然性と偶然性
1. 本質と現象の統一としての現実性
「論理学」の本質性は、〈本質―現象―現実性)の3章から構成されており、現実性のカテゴリーは、本質と現象との、あるいは内面(内的なもの)と外面(外的なもの)との統一と規定されている。本質も現象も事物の一面の真理を捉えたものにすぎず、現実の事物は、それら両者の統一として具体的に存立するというのがヘーゲルの考えであった。
ヘーゲルは、現実性のカテゴリーでもって、個々の事物を本質と現象との、内面と外面との統一として具体的に捉えるだけではなく、諸々の事物の諸関係、諸過程の総体を捉えようとした。現実的なものは相互に連関し、結びついているから、個々の事物をそれだけ切り離しては当の事物を真に把握することもできないのである。ヘーゲルは、このような現実性を「絶対者そのもの」であるとみなし、現実的なものを絶対者が開示されたものとして捉えたのである。
ドイツ語のwirklichには、「現実的な」という意味と「真の」という意味とがあるが、ヘーゲルによれば、現実的なもの(Wirklichches)は、本質と現象との、内面と外面との統一として具体的なものであるとともに、真なるものとして理性的なものでもあった。現実的なものは、たんに所与として前提されているにすぎないものではなく、みずからを理性的に形成していく活動的なものである。それは、みずからを産出していく働き(Wirken)そのものにほかならない。
2. 可能性の現実性への転化
このように、現実的なものを活動的なものとして、すなわちみずからを産出し、形成していく運動として把握するヘーゲルは、この自己形成の論理を、事物の可能性から現実性への転化の過程、すなわち《必然性(Notwendingkeit)》として捉えた。現実性に転化する可能性とは、たんに考えられうるというだけの抽象的可能性とは異なり、現実化しうる実在的可能性のことにほかならない。このような実在的可能性から現実性への転化を、すでに、アリストテレスがデュナミス (dynamis) からエネルゲイア (energeia) の転化として捉え、この転化の過程を運動として捉えたが、ヘーゲルは、アリストテレスのこの思想を積極的に継承し、現実性を可能性からの転化の過程として、運動の相において捉えたのであった。
3. 現実性の契機としての偶然性と可能性
それにたいして、自己のうちに存在の根拠をもたず、たまたまそこにあるだけの《偶然性(Zufälligkeit)》は、「直接的な現実性」にすぎない。それは、たんなる可能性がたまたま実現しただけのものであり、それゆえ、現実性の一面的な契機にすぎず、現実そのものではない。
たんなる可能性としての抽象的可能性には、「人魚」、「天馬」といった、たんに考えられうるだけの可能性の場合と、交通道徳を遵守するようにこころかけている一市民が交通事故に遭遇することがありうるように、たまたま起こりうるような可能性の場合とがあるが、後者の可能性が実現したものが偶然性であるといえよう。
しかし、同時に、ヘーゲルは、そのような偶然性、すなわち直接的現実性といえども「他のものの可能性」であり、新たな現実性が出現するための条件であるともみなした。たとえば、偶然の出会いが新しい友人をつくり、その友人が当の本人の生き力を変えるようなインパクトを与える場合があるように。
4. 事柄・条件・活動
ヘーゲルは、「諸条件の全体」が実在的可能性を構成していると考える。新たな現実性を産出する実在的可能性は、 諸条件の全体としての前提された現実性の内に、潜在削な内的現実性として含まれており、新たな現実性は、前提された現実性のうちに含まれている実在的可能性が実現したものにはかならない。
このように、前提された現実性から新たな現実性が産出される過程を、ヘーゲルは、『小論理学』において、《事柄(Sache)》、条件、活動の三契機の弁証法的運動によって説明した。それによると、事柄は、一定の諸条件のうちにみずからの可能性を見いだし、諸条件を活動の素材として利用し、その粘果、活動の所産として産出されるものであるとともに、それ自体また他の事柄のための諸条件となりうるものである。『小論理学』におけるこのようなヘーゲルの現実性の捉え方は、人間の諸活動を条件づけながら、それによって不断に産出される社会的現実の場合を考えてみると、わかりやすいであろう。
・・・以上・・・