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 用語資料 同一性 と 区別、差別、相等性

 ヘーゲル論理学-相関関係          

 『資本論』と弁証法について ②>



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   ヘーゲル「小論理学」
   A 現存在の根拠としての本質 (§115-122)

  (1) 同一性 Identität §115、 115 補遺
     具体的な同一性、抽象的な同一性 §36 補遺、88

       (1)-2 ヘーゲル用語事典 「同一性」
  (2)
区別 Der Unterschied §116、 116 補遺
  (3)
差別 Verschiedenheit
  (4)
相等性 Gleichheit 


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  ヘーゲル「小論理学」 村松一人訳 岩波書店
  A 現存在の根拠としての本質 (§115-122)
    a 純粋な反省規定
  イ 
同一性 (Identität)
    §115 
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(ldentität mit sich)である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。
 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。―この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。―絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。  ・・・以下、省略・・・
   §115 補遺
 同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である― 同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点である。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識にたいしても、その他すべての思惟および意識にたいしても、高い意義を持つカテゴリーである。神にかんする真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることからはじまる、と言うことができる。そしてこのことは同時に、世界のあらゆる力と光栄とは神の前に崩れ去り、ただ神の力および光栄の映現としてのみ存在しうることを意味する。――人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。動物は、自分が自我であること、すなわち自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである。・・・・


   (1)-2 ヘーゲル用語事典 「同一性」

  同一性     『ヘーゲル用語事典』 未来社

 有論の論理が或るものから他のものへのたえざる変化・移行の論理だとすれば、本質論の論理はそうした表面的な変化の奥にある、事物の安定した<同一性(Identität)>をとらえようとする。同一性(同じということ)は、事物が多様に変化するにもかかわらず、そこに貫く不変のもの(同じであり続ける主体性)を意味する。この意味で、同一性は端的に本質の論理そのものであり、またそれは、基本的に、自己との同一性、自己との関係を意味する。


 こうして(自己)同一性は同一性それ自身と区別の2契機をもつ

同一性は、みずから区別・分化し、多様に変化・運動しながら、同時にそのなかで統一性を保持することを意味する。(このさい、「区別」は分化、変化、多様性などと同義である)。たとえば、生物はたえず新陳代謝をしながら、自己維持をする。むしろ、他の物質を摂取することは自己維持の不可欠な条件である。こうして、
同一性は区別を必然的に前提し、むしろ区別(多様性)を産出する動的なものである。

 区別を含んだ同一性が「具体的同一性」といわれるのにたいし、悟性の考える、区別や変化を捨象した同一性は、「抽象的同一性」、「形式的同一性」と批判される。伝統的な形式論理学の「一般的思考法則(思考の原理)」の筆頭に同一性(A=A、AはAである)が挙げられるが、これこそ悟性の同一性なのである。(→論理学)



   ロ 区別 Unterschied

  
(2) 区別 Der Unterschied §116、 116 補遺 §119

  §116
 本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反撥するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別(Unterschied)の規定を含んでいる。
  ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るもの(Gesetztsein)であり、媒介されて有るもの(Vermitteltsein)である。

  §116 補遺
 同一はいかにして区別となるかというような質問をする人があるとすれば、こうした質問のうちには、同一性は、単なる同一性すなわち抽象的な同一性として、単独に存在するものであり、区別も同様に単独に存在する或る別なものである、という前提が含まれている。このような前提をしていては、呈出された質問にたいする答は不可能である。同一を区別と別なものとみれば、そこにわれわれが持つのは区別だけである。進展の径路を問う者にとって、進展の出発点が全く存在しないのであるから、区別への進展を示そうにも、示しようがないわけである。したがってこうした質問は、よく考えてみると、全く無意味である。こんな質問をする人があったら、われわれはまず、かれは同一性という言葉のもとに何を考えているのかときいてみるといい。すると、その人が何も考えていないこと、その人にとって同一性とは空虚な名称にすぎないことがわかるであろう。なお、すでに考察したように、同一性は否定的なものではあるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく、有およびその諸規定の否定である。したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれぼ、自分自身から自己を区別するものである。

  §119

  (2) 自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は対立(Entgegensetzung)であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者(sein Anderes)を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である。

  本質的な区別は、「すべてのものは本質的に区別されたものである」、あるいは別な言い方によれば、「二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」という命題を与える。――この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。というのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。このような矛盾した二つの命題を、くらべることさえしないで、法則として並べておくということは、抽象に固有な無思想である。―排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す、有限な悟性の命題である。Aは+Aか-Aでなければならない、とそれは言う。しかしこれに・・・中略・・・

 物理学で大きな意義を持っている分極性(Polarität)〔*注〕という表象は、対立に関する正しい規定を含んでいる。にもかかわらず物理学は、思想にかんしては、普通の論理学に頼っている。もし分極性という表象を発展させて、そのうちに含まれている思想に達したら、物理学はおどろくであろう。

 
 〔*注〕分極性(Polarität) 『資本論』第1章-第1節 
  1-3 〔磁極性〕 「鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察され るべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したが って、いろいろな方面に役に立つことができる。物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである 。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには 伝習から生ずる。」(注3:バーボンの磁極性)参照
 (原注3:バーボン)「物は内的な特性(vertue ― これはバーボンにおいては使用価値の特別な名称である)をもっている。物の特性はどこに行っても同一である。例えば、磁石は、どこにいっても鉄を引きつける」(同上、6ページ)。*10 磁石(電極・関連コラム)の鉄を引きつける属性は、人がその性質を利用して磁極性を発見するにいたって初めて有用となった。(岩波文庫p.68)

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   差別 Verschiedenheit

  (3) 差別 Verschiedenheit §117

  区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別(Verschiedenheit)である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々そ
れ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性(Gleichheit)であり、それらの不同一性としては、不等性(Ungleichheit)である。

 比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。
 差別も同じく一つの命題に変えられている。「すべてのものは異っている」とか、「互に全く等しい二つのものは存在しない」という命題がそれである。ここではすべてという主語に、最初の命題において与えられていた同一性という述語とは反対の述語が与えられている。したがって、最初の命題に矛盾する法則が与えられているわけである。しかし差別は外的な比較に属するにすぎないから、或るものは、それ自身としては、ひたすら自己と同一であり、この第二の命題は第一の命題と矛盾しない、という弁解も成立する。そうするとしかし、差別は、或るものすなわちすべてのものに属さず、このような主語の本質的な規定をなさないことになり、第二の命題は全く語ることのできないものとなる。―或るもの自身が、第二の命題に言われているように、異っているとすれば、それは或るもの自身の規定性によってそうなのである。これがライプエッツの命題の意味でもある。


  

   相等性 Gleichheit

  (4) 相等性 Gleichheit
  §118
  相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる。
  ▼補遺 単に差別されたものは互に無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである。区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば「ぶな」と「かし」、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである。にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或るときは学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或るときは、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている。こうしたことは特に自然科学において行われている。人々はそこで、一方では新しい、ますます多くの新しい物質、力、類、種、等々を発見しようとしており、これまでは単純と考えられていた物体が複合物であることを示そうとしている。そして近代の物理学者や化学者は、たった四つの、しかも単純でさえない元素で満足していた古代人をわらっている。他方ではしかしかれらは、今度はまた単なる同一性をのみ眼中におき、例えば電気と化学的過程とを本質において同じものとみるにとどまらず、消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程とみるのである。すでに103節の補遺で述べたように、人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存するすべてのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すものなのである。

 
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