アリストテレスの比例論
『資本論』等価形態の ” 等一性 ”
目 次
1. 『資本論』とアリストテレス
2. アリストテレスの比例論 『二コマコス倫理学』
3. 『二コマコス倫理学』
第5巻 1章 正義と不正義の性質について
4. 『二コマコス倫理学』 第5巻 3章 幾何学的比例
5. 『二コマコス倫理学』 第5巻 4章 算術的比例
6. 『二コマコス倫理学』
第5巻 5章 比例に即して均等的なものを配分する
7. 「 貨幣はあらゆるものを計量する 」
1) 「巨人の肩の上のマルクス」は、『経済学批判』(1859年)において、アリストテレスの引用から始めている。(『資本論』第2章交換過程でも引用)
「何故かというに、各財貨の使用は二重になされるからである。・・・その一つは物そのものに固有であり、他の一つはそうではない。例えていえば、サンダルの使用は、はきものとして用いられる共に交換されるところにある。 両者共にサンダルの使用価値である。何故かにいうにサンダルを自分のもっていないもの、 例えば食物と交換する人も、サンダルを利用しているからである。 しかし、これはサンダルの自然的な使用法ではない。 何故かというに、サンダルは交換されるためにあるのではないからである。他の諸財貨についても、事情はこれと同じである。」
2) アリストテレスの時代(紀元前400年~300年頃)から、商品交換に伴う分析が開始されていること、何故だろう?
近代社会でもなく、中世ヨーロッパでもない。
また、何故アリストテレスが引用されるのだろうか。
こうした疑問を持ちながら、古代ギリシャの探索の旅へ出発しよう。
アリストテレス哲学のなかでも、特に古代ギリシャの一般的な思考形式が解りやすく出ている『ニコマコス倫理学』の現場からスタートしてゆきます。
3)アリストテレスの比例論が、『資本論』において、以下のように活用されているが、向坂逸郎訳・岩波書店では、「比例関係 Verhältnis」の翻訳がスッキリしたものとなっていない。向坂訳は「交換価値は量的な関係」と訳してあるが、ドイツ語原本では「交換価値は量的な比例関係として現われる Der Tauschwert erscheint als das quantitative Verhältnis」となっている。(この指摘については、後日『資本論』の翻訳問題で詳論する。ヘーゲル『大論理学』では、第1巻有論第3章に「量的比例 Das quantitative
Verhältnis 」を解説している。)
)
第1章 第1節 (第5段落)
「交換価値は、まず第一に量的な関係〔quantitative Verhältnis 量的な比例関係〕として、すなわち、 ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率〔Proportion:比例〕として、すなわち、時とところとにしたがって、絶えず変化する関係〔Verhältnis:比例関係〕として、現われる。」(岩波文庫p.70)
5「Der Tauschwert erscheint zunachst als das quantitative Verhältnis, die Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art austauschen, ein Verhaltnis, das bestandig mit Zeit und Ort wechselt.」
4)また、『資本論』第1章第3節の価値形態論では、アリストテレスが次のように取りあげられている。
「商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。「しとね〔寝台〕5個=家1軒」ということは「しとね〔寝台〕5個=貨幣一定額」ということと「少しも区別はない」と〔寝台と家は比例関係で等値される〕。「交換は等一性〔Gleichheit
同一性〕なくしては存しえない。だが、等一性は通約し得べき性質なくしては存しえない」・・・
「しかしながら、このように種類のちがった物が通約できるということ」、すなわち、質的に同一であるということは「真実には不可能である」。この等置は、物の真の性質に無関係なものでしかありえない、したがって、ただ「実際的必要にたいする緊急措置」でしかありえないと。
アリストテレスは、このようにして、どこで彼のそれ以上の分析が失敗しているかということについてすら、すなわち、価値概念の欠如(けつじょ)についてすら、述べているわけである。等一なるものは何か?すなわち、しとね〔寝台〕の価値表現において、家がしとね〔寝台〕に対していいあらわしている共通の実体は何か?そんなものは「真実には存しえない」と、アリストテレスは述べている。
なぜか?家はしとね〔寝台〕にたいしてある等一物をいいあらわしている、家が、しとね〔寝台〕と家という二つの物で現実に同一なるものをいいあらわしているかぎりにおいて。そしてこれが――人間労働なのである。」(岩波文庫p.109ー111)
マルクスが引用している「家と寝台」の例題に関係するアリストテレス『ニコマコス倫理学』第5章は、以下のとおり。
「Aは家屋、Bは10ムチ、Cは寝台。いま家が5ムチに値するならば、つまり5ムチと等しいならば、AはBの2分の1。 また、寝台すなわちCはBの10分の1。この場合、幾台の寝台が一軒の家屋に等しいかは明らかである。 すなわち5台。貨幣の存在以前においては交易はかくのごとく行われたものなることは明らかである。 事実、5台の寝台が一軒の家屋に替えられるということと、 5台の寝台が一軒の家に値するということの間には全く差異がないのである。」
われわれは、徳・アレテ―とは「状態」である、いかなる性質の「状態」であるか すべて「アレテ―」(徳ないし卓越性)とは、それを有するところのもののよき「状態」を完成し、 そのものの機能をよく展開せしめるところのものである、といわなくてはならない。
たとえば眼の「アレテ―」とは眼ならびに眼の機能をしてよきものを見ることできる。同じように人間の「アレテ―」とは、ひとをしてよき人間たらしめるような、すなわち、ひとをしてその独自の「機能」をよく展開せしめるであろうな、そうした「状態」でなくてはならない。
徳・アレテ―というものの本性はいかなる性質のものかということを考察することによって― すべて連続的にして可分割的なものにおいては、われわれは「より多き」(プレイオン)をも、「より少なき」(エラットン)をも、「均しき」(イソン)をも取ることができる。そしてそれも、 ことがらそれ自身に即してであることもできるし、またわれわれへの関係においてであることもできるのでのである。「均〔しさ〕とは、過超〔超過〕と不足との何らかの意味における「中メソン」にほかならない。
・・・たとえば、もし10では多いが2では少ないというとき、ことがらに即して「中」をとるならば6が「中」である。それは均しきだけを超過しまた超過されているからであり、すなわち算術的比例における「中」項にあたる。<注17>
だがわれわれへの関係における「中」はそんなふうにして決定されることができない。けだし、もしそうだとするならば、10ムナでは食べ過ぎであるが2ムナでは足りないという場合、体育指導者は6ムナの食物を命ずればいいことになるであろう。実際はしかし、6ムナでは、おもうに、それを取るべきひとによってあるいはは多くあるいは少ない。
・・・かくして、すべて識者は超過と不足を避け、「中」を求めてそれを選ぶ。ただし、この場合における 「中」とは、ことがらに即してのそれではなく、われわれへの関係におけるそれなのである。
翻訳者<注17>
a/b = c/d という関係のみならず、a-b = c-d という関係も広義において比例(アナロギア)と呼ばれ、前者は幾何学的比例、後者は算術的比例と呼んで区別される。
ただし、厳密な意味においては「比例」とは前者であり、単に比例というときはこれを意味している。(たとえば*1133a「比例に即して均等」のごとき。)同じく「中」項(メソン)というのにも幾何学的と算術的との区別があり、これらは詳しくいえば「幾何学的比例における中項」と「算術的比例における中項」である。
「中項」というのは連続比例(*1131a以下を参照)を予想している。(両種の比例についてそれぞれ a/b = b/c , a-b = b-c
という連続比例が得られ、その中項が語られるのである。)連続比例はわれわれの用語法に移せば数列にあたる。『算術的比例における中項』とは、だから、われわれの用語法でいえば、「算術中項」すなわち「等差中項」にあたる。(こうした用語はいずれもピュタゴラス学派に起原する。)
*1131a 岩波p.180 連続比例:1項が2項として繰り返しでてくる。
*1133a 岩波p.186 比例的な対応給付、対角線的な組み合わせによる。
5巻の内容は以下のとおり。
1章 正義と不正義の性質について
正義とはどのような性質の中庸か、「正しい」とは何と何との「中」かを考察。
2章 正しい:配分関係として
3章 不正なひと:不均等なひと、均等について
4章 正しきを回復する矯正的:比例に即して
5章 応報を得ている:比例給付
6章 不正、不正義:均等の観点
7章 自然法的、人為法的
8章 ~11章 ・・略・・
5巻 1章 正義と不正義の性質について
われわれは、「不正なひと」(アディコス):一方では「違法的なひと」他方では過多をむさぼりがちな 「不均等なひと」。正しいひととは、「適法なひと」ならびに「均等を旨とするひと」。してみれば、「正」とは、適法的なということと均等的ということとの両義を含み、「不正」とは、違法的ということと不均等的ということとの両義を含む。・・・かくして、われわれが正しい行為と呼ぶところのものは、一つの意味においては、国という共同体にとっての幸福またはその諸条件またはその諸条件を創出し守護すべき行為の謂いにほかならない。
2章 徳の一つのしての「正義」。
「不正な」:違法的と不均等的
「正しい」:適法的と均等的
・・・特殊的な「正義」の、ないしはこれに則した「正しい」ということの一種は、名誉とか財貨とかその他およそ国の公民の間に分かたれるところのものの配分におけるそれであり、他の一種は、もろものの人間交渉において矯正の役目を果たすところのそれである。
3章 不正なひと:不均等なひと、均等について
明らかに、不均等ということに対してその「中」にあたるものが存在する。「均等」がそれである。・・「不正」とは「不均等」ということだとするならば、「正」とは「均等」を意味する。・・・・さらに、「価値に相応の」という見地から見てもこのことは明らかであろう。けだし、配分における「正しい」わけまえは何らかの価値(アクシア)に相応のものでなくてはならないことは誰しも異論のないところであろう。・・・
してみれば、「正」ということは「比例的」(アナロゴン)ということの一種にほかならない。(比例的ということは単に抽象的な数に固有ではなく、総じて数的なるもの全般に属している。)
比例(アナロギア)とは、すなわち、比と比との間における均等性であり、それは少なくとも4項から成る。不連続比例が4項から成ることは明らかであるが、連続比例の場合もこれと同様である。1項が2項として用いられ、繰返し出てくるのだからである。たとえば線分Aが線分Bに対するは線分Bの線分Cに対するごとくであるといったように― 。線分Bが、だから、二度出てくるのであり、したがってもし二度措定されれば比例項は4項となるわけである。
「正」ということも、だから、すくなくとも4項から成り、その比が同一なのである。すなわち、人間と人間の間、配分さるべき事物と事物の間の区分が同様なのである。だからしてAがBに対するはCがDに対するごとくであるだろうし、だからまた、これを置換すれば、AのCに対するはBのDに対するごとくであるだろう。したがって全体の全体に対するもまた同様である。全体とは配分を受けてそれと結合された全体を意味する。
もしかような仕方で付加が行われたならば、それが正しい結合の仕方なのである<注28>。かくしてAをCに,BをDに組み合わせるということが配分における「正」なのであり、この場合の「正」は比例背反的なものに対する「中」ほかならない。けだし、比例的ということが「中」なのであり、「正」は、しかるに、比例的ということなのだからである。
このような比例を数学者は幾何学的比例(アナロギア・ゲオーメトリケー)と呼んでいる。<注30>
事実、幾何学的比例においては、全体の全体に対するは両者それぞれの両者それぞれに対するがごとくなのである。<注31>また、いまの場合の比例は連続比例ではない。人と事物とが数的に単一なる項とはなりえないからである。
「正」とは、かくして、このこと、つまり比例的(アナロゴン)ということであり、「不正」とはこれに反して比例背反的(パラ・ト・アナロゴン)ということである。・・・・かくして「正」の一つの種類は以上のごときものである。
<注28>
AとBを人間、CとDを「配分さるべきもの」とする。いまA:B=C:Dならば置換によって、A:C=B:Dであり、またA:B=C:D=A+C:B+Dである。
A+C、B+DはAがCを得、BがDを得た状態を示す。かようにAとBとの比はそれぞれがCとDを獲得して後も獲得しないときと同じであるとき、A・Bに対するそれぞれC・Dの配分は正しい。
<注30>
幾何学的比例― これがわれわれが単に比例と呼んでいるもの― は次章にいうところの算術的比例に対する。 <注17> 「正」ということは、事態に応じてこのいずれかの意味における「比例的」ということにおいて成立する、とアリストテレスは考えた。
<注31>
A:B=C:D=A+C:B+D
共同的なもろもろの事物の配分にかかわるところの配分的な「正」は常に上述のような比例〔幾何学的比例〕 に即している。いまのようなもろもろの人間交渉もおける「正」とは、算術的比例に即してのそれである。<注33>
法の顧慮するところはただその害悪の差等のみであり、どちらかが不正をはたらきどちらかがはたらかれているということ、どちらかが害悪を与えどちらかが与えられたということが問題なのあって、法は彼らをいずれも均等なひとびととして取扱う。
したがって裁判官が均等化しようと努めるところのものは、
こうした意味における「不正」― 「不均等」がそこに存するのだから― にほかならない。
・・・だからして、裁判官は、一方から利得を奪うことによって罰という損失でもってその均等化を試みるのである。・・・「均等」とは、ここでは、算術的比例に則しての、多と少との「中」にほかならない。
<注33>算術中項もあたる。<注17>これはわれわれの用語における「平均」である。
5章 比例に即した均等的なものを配分する
一部のひとびとにあっては、「応報をえている」ということが、そのまま、「正」ということにほかならない、と
考えられている。 ・・・交易的な共同関係においては、やはり このような「正」がその楔となっていることはあらそえない。もちろんそれは、比例に基づく応報的な「正」であって。単なる均等性に則してのそれではないが― 。
比例的な対応給付が行われるのは対角線的な組み合わせによる。
Aは大工、Bは靴工、Cは家屋、Dは靴。この場合、大工は靴工から靴工の所産を獲得し、それに対する報償として自分は靴工に自分の所産を給付しなくてはならない。それゆえ、まず両者の所産の間に比例に即しての均等が与えられ、その上で取引の応報が行われることによって、いうところの事態は初めて実現されるであろう。もしそうでないならば、取引は均等的でなく、維持されもしない。
事実、一方の所産が相手方の所産以上のものであるような事例は充分ありうるのである。だからして、両者の所産は均等化されることを必要とする。
(このことは他の諸技術の場合にあたっても同様である。けだし、能動の側が一定の量の一定の性質のことがらをなせば、受動の側はそういう量のそういう性質のそれを受動する、ということがないならば、技術は滅びるほかはないだろうからである。)<注43>
<注43>
能動者つまり技術者はその対象(受動するもの)に自己のいわば労働時間(=量)と技術(=質)とをつぎ込む。工作品はこれをそのまま体現して、ここにその価値たとえばC(いわゆる「自然価格」)を持つにいたる。技術が技術たる異議はここにあり、また、たおてば家と靴の価値(CとD)のあいだに
C=xDという等式の成立する所以もここに存する。
詳言すれば、かような共同関係の生ずるのは二人の医師の間においてではなくして、医者と農夫との間においてであり、総じて異なったひとびとの間においてであって、均等なひとびとの間においてではない。
かえってこれらのひとびとは均等化されることを要するのである。交易さるべき事物がすべて何らかの仕方で比較可能的たることを要する所以はそこにある。こうした目的のために貨幣は発生したのであって、それは或る意味においての仲介者(メソン=中間者)となる。
事実、貨幣は、あらゆるものを、したがって過超や不足をも計量する
それは、だから、幾足の靴が一軒の家屋に、ないしは一定量の食品に等しいかということを計量するのである。かくして、大工の靴工に対するごとくに、幾足かの靴が一軒の家屋に対していることを要する。でなければ交易も共同関係もありえないであろう。このことはしかるに物品が何らかの仕方において均等なものでないならば不可能であろう。だからして、さきにいったごとく、あらゆるものが或る一つのものによって計量されることを要するのである。この一つのものとは、ほんとうは、あらゆるものの場合を包むところの需要にほかならない。
けだし、もし必要がすこしも存在しないか、ないしは双方に同じような仕方においては存在しないならば、
交易は成立せず、ないしは現在のような仕方での交易は成立しえないであろう。
しかるに、申しあわせに基づいて、貨幣が需要をいわば代弁する位置に立っている。さればこそまたノミスマという呼称をそれは有しているのである。それは本性的ではなくして人為的であり、すなわち、これを変更することや、これを役に立たないものにすることはわれわれの自由なのだからである― 。かくして、農夫の靴工に対するごとくに、靴工の所産が農夫の所産に対すべく均等化された場合、取引は応報的となるであろう。もちろん彼らが交易を行ったあげくにこれを比例のかたちに導くのではいけないのであって、かえって、
双方が自己の所産を手放さないあいだにこれを比例のかたちに導くのでなくてはならない。
以上のような仕方においてのみ、彼らは均等的であり共同関係的である。所要の均等性が彼らのあいだにおいて成立することとなるのであるから― 。
Aは農夫、Cは食糧、Bは靴工、Dは彼の均等化された所産。<注45>
もしかかる仕方における応報ということが行われなかったならば、彼らの共同関係はありえないであろう。・・・・
<注45>
すなわち、A:B = C: x Dの意味
貨幣は、たとえ、われわれがいまのところは何ものをも必要としなくとも、もし何ものかの必要が生じた ときにはそれが手にはいるという未来の交易のためのいわば保証として役立つ。貨幣をもってゆけば所要のものを得られるはずだから―。貨幣といえどももとより他のものと同じ傾向を避けえないものではある。すなわちそれは必ずしも常に等しい値を有しないのであるが、それでも他のものに比すればより多く持続する傾きを具えている。
あらゆるものに価格を付しておくことの必要なのはそのゆえんである。すなわち、そうすれば交易は常に可能となるのであり、しかるに交易あって共同関係はあるのである。
かくして貨幣はいわば尺度として、すべてを通約的とすることによって均等化する。
事実、交易なくしては共同関係はないのであるが、交易は均等性なしには成立せず、 均等性は通約性なしには存在しない。 もとより、かくも著しい差異のあるいろいろのものが通約的となるということは、ほんとうは不可能なのであるが、 需要ということへの関係から充分に可能となる。その際、すなわち、何らか単一なものの存在することを要するのであって、 このものは協定に基づく。ノミスマという名称のある所以である。このものがすなわちすべてを通約的たらしめる。 あらゆるものが貨幣によって計量されるのである。
Aは家屋、Bは10ムチ、Cは寝台。いま家が5ムチに値するならば、つまり5ムチと等しいならば、AはBの2分の1。 また、寝台すなわちCはBの10分の1。この場合、幾台の寝台が一軒の家屋に等しいかは明らかである。 すなわち5台。貨幣の存在以前においては交易はかくのごとく行われたものなることは明らかである。
事実、5台の寝台が一軒の家屋に替えられるということと、 5台の寝台が一軒の家に値するということの間には全く差異がないのである。
・・・以上・・・