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  用語集 ヘーゲル「直接性-抽象的」と「媒介」


  ヘーゲル「直接性と抽象的」「媒介」の形式  2020.10.01

      ヘーゲル『小論理学』 松村一人訳 岩波文庫(上)p.232
 
  資本論ワールド編集部


 岩波文庫の『小論理学』は、ヘーゲルの『哲学的諸学のエンチュクロペディ-』の第1部をなすものです。ここの掲出した§74から§76は、『エンチュクロペディ-』の「予備概念」に収められ、「小論理学」第1部有論の前段に置かれた長い論述の終盤に位置するものです。
『小論理学』の導入部として、「直接性と抽象性」そして「媒介」の形式が注目されます。

 なお、資本論ワールド探検隊では、『小論理学』§115の「抽象」概念 『資本論』翻訳問題ー「価値の抽象」 と“連続的・有機的に”相互関連を探究しています。併せて調査研究をお勧めします。


 
 §74 は、
1. 「直接性という形式は全く抽象的であって、・・・特殊的なものの本質は、自己の外にある他のものに関係することにある。」
2. 「直接性という形式は全く抽象的であって、どんな内容に対しても無関心であり、したがってどんな内容でも受入れる」
3. 「抽象的な思惟(弁証法的でない形而上学の形式)と抽象的な直観(直接知の形式)とは全く同じものである。」


 
 §74 補遺 は、
1. 「直接性の形式が媒介の形式に対立するものとして固定される場合、直接性の形式は一面的なものとなり、この形式に還元されるあらゆる内容までが一面的となってしまう。」

2. 「直接性とは一般に抽象的な自己関係であり、したがって同時に抽象的な同一性、抽象的な普遍性である。」


     
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「小論理学」 §74
                                         
 なお直接性という形式の一般的性質を簡単に述べなげればならない。この形式そのものが一面的であるために、それは内容そのものをも一面的なもの、したがって有限なものとしてしまう。それは普遍的なものには抽象性という一面性を与え、そのために神は無規定な存在となってしまう。しかし、われわれは、神が自己自身のうちで自己を自己に媒介するものであることを知るかぎりにおいてのみ、神を精神と呼ぶことができるのである。かくしてのみ神は具体的であり、生動的であり、精神である。したがって神を精神として知る知は、そのうちに媒介を含んでいなければならない。――第二にそれは、特殊的なものには、有、自己関係という規定を与える。しかし特殊的なものの本質は、自己の外にある他のものに関係することにある。ところがこのような有限なものが、直接性という形式のために、絶対的なものとして定立されるのである。直接性という形式は全く抽象的であって、どんな内容に対しても無関心であり、したがってどんな内容でも受入れるから、それは偶像崇拝的な内容や不道徳的な内容を、それとは反対の内容と同じように許容することができる。こうした内容は独立したものではなく、他のものによって媒介されたものだという洞察のみが、それを有限で真実でないものへとひきさげるのである。こうした内容は媒介をともなったものであるから、こうした洞察は、媒介を含んでいる知である。われわれが真実なものとして認識しうる唯一の内容はどんな内容かと言えば、それは、他のものによって媒介されず有限でない内容、したがって自己を自己へ媒介し、媒介であると同時に直接の自己関係でもあるような内容である。――要するに悟性は、自分では有限な知識から、すなわち形而上学および啓蒙哲学の悟性的同一性から脱却したと思いながら、ここでもまたこうした直接性、すなわち、抽象的な自己関係、抽象的な同一性を原理とし、真理の規準としているのである。抽象的な思惟(弁証法的でない形而上学の形式)と抽象的な直観(直接知の形式)とは全く同じものである。


 
 §74 補遺

 直接性の形式が媒介の形式に対立するものとして固定される場合、直接性の形式は一面的なものとなり、この形式に還元されるあらゆる内容までが一面的となってしまう。直接性とは一般に抽象的な自己関係であり、したがって同時に抽象的な同一性、抽象的な普遍性である。そこで即自かつ対自らに普遍的なものでも、それが直接性の形式においてのみ理解されると、それは抽象的な普遍にすぎなくなり、かくしてこの立場からすれば神は全く無規定の存在と考えられるようになる。この場合でもなお、神は精神であると言うとすれば、それは空虚な言葉にすぎない。というのは精神は意識であり、しかも自己意識であるから、必ず自己を自分自身および他のものから区別するものであり、したがって同時に媒介でもあるからである。

 
*訳者註
 第18節で、即自、対自、即自かつ対自についてかんたんに説明したことをよりわかりやすくするために、ここで「即自かつ対自的な普遍」とよばれているものを説明すれば、 それは抽象的な普遍のように特殊を無視するものではなく、特殊との対立をへて、しかも特殊との統一、特殊の包摂を理解している普遍、ヘーゲルの別の言葉で言えば、具体的な普遍である。もっとも、ヘーゲルにおいては、けっきょく普遍は、超越させられているから、ヘーゲルの考そのままをとりうるかどうかは別である。


  
 §75
 以上わたしは、思惟が真理にたいしてとる第三の態度を批判したのであるが、その批判は、この立場が直接それ自身のうちで述べかつ認めているような仕方によってしか行われえなかった。したがって以上の批判のうちで私が指摘したことは、直接知、すなわち、他のものとも、また自己自身のうちで自己とも、媒介されていない知があるということは、事実として誤っているということであった。と同時にわたしは、思惟は単に他のものによって媒介された諸規定、すなわち有限で制約された諸規定に即してのみ進んで行くものだというような主張、および媒介のうちで媒介そのものが揚棄されることはないというような主張も、事実上真理でないことを指摘した。単なる直接性のうらを進んで行くのでもなければ、単なる媒介のうちを進んで行くのでもないような認識の事実を示せば、この論理学そのものおよび哲学全体がその実例である。


   
§76
 私が最初に批判した素朴な形而上学と直接知の原理とを比較してみると、直接知の原理は、近世におけるそうした形而上学がデカルト哲学のうちで取っているところのあの出発点へ後戻りしているのがわかる。両者ともに次の三つのことを主張している。
 (1) 思惟と思惟するものの存在との単純な不可分性、およびこの不可分性が絶対に最初の(すなわち媒介されず証明されない)そして最も確実な認識であるということ。――デカルトの「私は思考する、ゆえに私は存在する」という命題は、自我の存在は意識のうちで直接私に啓示されているというヤコービの命題と全く同じである(デカルトはその「哲学原理」第1部、第9節で、自分は思考という言葉で意識一般を指す、とはっきり言っている)。
 (2) 神の観念およびその存在も同様に不可分であるということ、すなわち、神の存在は神の観念そのもののうちに含まれており、神の観念は存在という規定なしにはありえず、したがって神の存在は必然的であり、永遠であるということ。
 (3) 外的な事物の存在にかんする同じく直接的な意識。この意識について注意を加えれば、それは感性的意識以外の何ものでもなく、われわれがそのような意識を持つということは、最もつまらない認識にすぎない。このような意識について知る値打のある唯一の事柄は、外的な事物の存在にかんする直接知は迷妄であり誤謬であって、感性的なものそれ自身のうちにはなんらの真理もなく、このような外的事物の存在は、偶然的で一時的な存在、一口に言えば仮象にすぎないということ、それらは本質的にそれらの概念、本質から分離しうるような現存在しか持たないものであるということである。                       
  〔編集部注:「デカルト」の短いコメントが続く〕


  ■ 参考資料

  直接性―媒介性   ヘーゲル用語辞典-未来社

   Unmittelbarkeit ― Mittelbarkeit


 
用語の意味 
 ドイツ語の成り立ちからわかるように、「直接性 ( Unmittelbarkeit )」は「媒介性「( Mittelbarkeit )」の否定(un)を意味し、「無媒介性」とも訳される。媒介性とは、事物が他のものに依存して存在すること、他のものなしにありえないことを意味する。したがってその事物は、他のものからの迂回によってはじめて真に認識できる。このとき、事物は他者に媒介されているという。事物が媒介されていることの認識は他のものによって当の事物の自立性が否定されていることを含む。他方、直接性(=無媒介性)は、事物がそうした媒介なしに自立して、そのまま肯定的に存在していることをいう。この意味で、ヘーゲルは直接的で媒介されていないものを「肯定的なもの」、媒介されたものを「否定的なもの」と等置する。以上のかぎりでは、直接性と媒介性とは対立する。

 
直接性と媒介性との相即関係  
 ところがヘーゲルは、この両者のあいだに密接不可分の関係をみる。「天上であれ、自然のなかであれ、精神のなかであれ、あるいは他のどこであれ、直接性とともに媒介性を含まないものは、まったく存在しない。したがって、これら二つの規定は分かたれず、また分かたれえないものであり、その対立は空虚なものとして示される」(『大論理学』)。たとえば、人間の成長過程を例にとる。自分でなにもできない幼児は、両親の援助と世話のおかげで存在し、成長できる。そして、成人して自立することが直接的に存在するということである。こうして、両親に媒介されてはじめて、子どもは直接的で自立的な存在を獲得するのであるから、直接性は媒介性に依存している。すべての事物は他のものとの関連のなかではじめてみずからの存在を得るのであって、まったく孤立的なものは事実としてありえない。これが直接性と媒介性との弁証法である( → 対自有)。

 すべての事物は歴史的に形成されてきた。とすれば、歴史的・時間的に事物はすべて媒介されているといえる。したがって、事物の本質を認識するためにはそれを歴史的に捉える必要がある。また、空間的にいえば、すべての事物は他のものに影響され、規定されてはじめて存在する。したがって、事物を他者との相互連関のもとで捉えることもまた必要である。こうして、一切の事物は時間的・空間的に媒介されたものとしてある。ところが、それでもなお、一切の事物は感覚や思考に直接与えられたもの、見いだされたものとして、独立的に現存している。それゆえ、直接性と媒介性を相即的に把握することは、ある意味で弁証法的な世界認識を示しているといえよう。

 
哲学史との関連  
 人間の認識能力との関係でいえば、媒介的認識はA→B→Cと論理的に順序よく論証することを意味し、直接的認識は対象の全体を一挙に直観的に捉えることを意味する。カントは事物全体のこのような直接的把握を否定した。逆にシェリングは芸術的認識などを念頭におき、もっぱら真理の直観的把握、すなわち直接知( unmittelbares Wissen )を強調した(→知的直観)。ヘーゲルでは、知性による媒介的な認識はそのつど事物の全体を思い浮かべながら進められる。つまり、認識には媒介性(知性による論証)と直接性(直観による全体把握)の両方が必要である。とくに、芸術などにおける直観知という無媒介的な認識を強調するシェリングは、一切の事柄を暗闇の黒牛のごとく一色に塗りつぶし、真理へいたる媒介過程を放棄するものとして、ヘーゲルに鋭く此判された。

 
直接性と媒介性とのダイナミズム  
 この両者に相即的な関係があるとすれば、そこに両者のダイナミズムもまたある。ヘーゲルはこの点で、「媒介されていることは、同時に媒介を止揚されたものとして自己のうちに含むことである」(『小論理学』147節、補遺)と注意する。これはさきの子どもの成長の例でいうと、他人から一方的に世話を受けた段階から自分で自分の世話をできる段階へと成長したとき、媒介を自分の内部でやりとげ、自立したことを意味する。このとき、媒介性は内部化され、止揚されたといえる。こうして、事物の全体を認識するさい、直接的な現象のなかに他のものからの媒介性を洞察することが逆に必要となる。      (竹内章郎)